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9- 平安人の心 「葵:六条御息所の生霊と物の怪による葵の上の急逝」

2021-06-30 17:36:49 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  桐壺帝が退位し、光源氏(母は桐壺更衣)の兄・朱雀帝(すざくてい:母は弘徽殿女御)が即位。その外祖父・右大臣の一派が権力を握る。そんななか、六条御息所の娘が伊勢斎宮となる。六条御息所は、光源氏との関係を清算して、娘の伊勢行きに同行しようか悩みながらも、やはり愛執の想いを断ち切れない。いっぽう左大臣家では、光源氏の正妻・葵の上が懐妊し、喜びに沸く。折しも、新しい賀茂齋院を迎えて賀茂祭が行われ、祭りの前の御禊(ごけい:天皇の即位後のみそぎの儀式)には光源氏も随行する。六条御息所は光源氏の姿を一目見ようと網代車に身をやつしてやってきたが、後から来た葵の上一行により、公衆の前で愛人の立場を暴露されたばかりか、車を壊され屈辱を味わうのだった。
  葵の上は出産が迫り物の怪に苦しめられる。世はそれを六条御息所の生霊と噂し、六条御息所自身も、まどろみの中で葵の上を打ち据える夢を見るようになる。そして光源氏も、妻が臨月の床でほかならぬ六条御息所にかわり、恨みの歌を詠むのを見て驚愕する。葵の上は男子を出産、光源氏はじめ一同は安堵し喜ぶが、数日後、物の怪により急逝する。光源氏は激しい喪失感に苛まれつつ、嘆く左大臣夫婦に子どもの養育を任せ、婿として十年を過ごした左大臣邸を出る。
  二条院に戻った光源氏は、引き取って四年、成長した若紫を初めて抱く。初めて知る男女のことに衝撃を隠せない若紫だったが、光源氏は三日の夜の餅(もちい)など結婚の儀式を整え、心からの誠実さを見せた。
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  父が娘を思うのは権力がらみの場合だけに限らない。父が娘の身を案じ、嫁げば夫婦仲を案じ、幸福であった欲しいと願ったことは、現在の父とそう変わらない。ただ、今と違うのは、女性の立場の不安定さだ。たとえ公卿の娘でも、父が亡くなり後見を失えば、女房にまで身を落とすことが珍しくなかった時代だ。高貴な父たちは自分の亡き後こそ、娘を思って気を揉み、時に亡霊となる。
  その代表が、「栄華物語」(巻十二)の描く具平(ともひら)親王(946~1009年)だ。彼は娘の隆姫を藤原道長の息子・頼通に嫁がせていた。ところが具平親王の死の六年後、頼通に新しい縁談がもたらされる。相手は今上・三条天皇(967~1017年)の内親王。結婚が成れば、押しも押されもしない高貴な新妻に、隆姫が圧倒されることは間違いない。加えて隆姫には子もなく立場が弱い。夫の頼道は乗り気ではなかったが、道長は「男が妻を一人しか持たぬとは痴(しれ)の様」と冷たく言い放ち、縁談を進めた。

  そんななか、頼通が重病に倒れ、彼に取り憑いた物の怪の一人として、具平親王が名乗りをあげるのだ。霊は道長をそばに呼んで、泣きながらこんこんとかきくどく。死後も娘が心配で、片時もそばを離れず見守り続けてきたこと。頼通の縁談という危機に、いても立ってもいられず出てきたこと。平に謝る道長に、霊は何度も「どうだ、子どもが可愛いか」と言う。親として子を思う気持ちは同じはず、頼通の命が惜しければ縁談をやめよというのだ。道長にしてみれば背筋も凍るような言葉。だが隆姫にとっては、死後もここまで案じてくれる、怖いほど愛に満ちた親心だった。果たしてこの縁談は沙汰止みとなる。

  「源氏物語」で葵の上が臨月を迎えた時、取り憑いた数々の物の怪の中には、六条御息所の故父大臣の霊もいると噂された。葵の上の父左大臣との、政治がらみの怨みなのか、それとも光源氏をめぐり、御息所を守ろうと現れたのか。物の怪に聞けるものなら聞いてみたい。

8- 平安人の心 「花宴:朧月夜との顔を見ない恋」

2021-06-29 13:30:54 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏二十歳の春、内裏ではニ月二十日過ぎに紫宸殿の桜の宴が執り行われた。詩会や舞楽が行われ、光源氏はどちらも際立った才を見せ讃嘆される。藤壺中宮はその様子に「ただ傍で見ているだけだったならば、何のわだかまりもなくめでられるものを」と、心の内で和歌を詠むのだった。
  宴の終わった後、ほろ酔い加減の光源氏は藤壺の殿舎の辺りで様子を窺うが、戸締りが厳重で忍び込めない。心の火照りがおさまらず弘徽殿を見ると、戸が開いている。光源氏は忍び込み、暗がりのなか「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながらやってきた女をとらえて、そのまま一夜の契りを交わす。
  女は弘徽殿の女御の家族と思しいが、はっきりしない。去り際に交換した扇だけが手がかりのまま一カ月が過ぎた頃、光源氏は弘徽殿の女御の父・右大臣の邸での藤の宴に招かれる。実は、あの朧月夜の女は右大臣の六女で、4月には東宮に入内と決まりつつも、光源氏に心を奪われ、思い乱れていた。藤の宴で、光源氏は酔ったふりをして女をさがす。そして「扇」という合言葉にため息で応えた女の手をとらえる。政敵の娘にして兄(東宮:異母兄)の婚約者でもある朧月夜との、激しくも危険な恋のはじまりだった。
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  「逢坂(あふさか)の関」という言葉がある。字義通り逢坂山にあった関所のことだが、平安時代、これは男女の一線を意味する言葉でもあった。男と女が「逢ふ」ことが、単に対面するだけではなく、契ること、つまり性的関係を持つことを意味したための洒落である。同じように「見る」という言葉も、一つには男女が契ることを意味した。「逢い見てののちの心に比ぶれば 昔はものを思はざりけり (男女の間柄になってからのせつなさに比べれば、こうなる前の気持ちなど、恋の悩みのうちにも入らなかったなあ)」。小倉百人一首に入る藤原敦忠のこの歌は、実はかなりセクシーな内容のものだったのだ。
  さて、敦忠の歌は「昔はものを思はざりけり」と言っている。「逢い見る」、つまり契りを交わすより前のことだ。その時にも、もちろん恋はしっかり始まっている。平安時代の和歌の聖典ともいえる「古今和歌集」は三百六十首もの恋を載せているが、うち百首以上は「逢わざる恋」、まだ契りを結ばない段階の恋歌だ。ときめく恋の予感、秘めた想い、胸きゅんの片思いなどは、昔と今とを問わない恋の王道だろう。だが平安時代が現代と大きく違うのは、こうした「逢わざる恋」が、文字通りほぼ「顔を見ていない」状態を意味したということである。

  平安の恋は噂話から始まる。どこぞに美人の姫君がいる、琴の上手な女君がいる。噂をばらまく役は、大方女房が務める。聞きつけて心をそそられた殿方はせっせと和歌を詠み女房に託す。これが「逢わざる恋」の歌だ。顔を見なくても想いはどんどん募る。やがて家族や女房からOKが出れば、縁に上がることが許され、御簾などを隔てた「物越し」の対面。かすかな衣擦れの音や、うまくいって声などが聞こえでもすれば、テンションはますます上がる。頃合いをみて、御簾の下から手を握る。御簾から半身だけ体を入れる。するりと中に入って、ようやく対面、つまり逢瀬である。

  だが、実はここに至っても、恋人たちが互いの顔をまじまじと見合ったかといえば、必ずしもそうでないことも多い。平安の夜は暗い。室内に灯りがなく月の光も届かなければ、ほぼ漆黒の闇。手探りの触覚、声や息遣いの聴覚、焚き染めた香を感じ取る嗅覚が頼りだ。もちろん顔の美醜は恋において大きなウェートを占めていたのだが、いかんせん照明
事情が今とは違いすぎること、また逢瀬が基本的に深夜のものであることが、密着しているのに顔が見えない。深い関係なのに顔を知らないという不思議な状況をつくってしまう。

  「源氏物語」には、こうした状況が幾度も描かれている。例えば「帚木」の巻。光源氏が忍び込んだ空蝉の寝所にはほの暗い灯りがともるだけで、空蝉について光源氏が認識できたのは、ただとても小柄だということだけだった。
  また、「末摘花」では、光源氏は「闇の中、おぼつかない手探りだったせいで、妙に納得しかねる様子を感じた」。そのせいでどうしても「顔を見たい」と思った。光源氏は後日、その驚きの容貌を見てしまった。

  ところで、月の光さえ差せば、平安の夜もそう暗くはなかった。当時は太陰暦なので、日付はそのまま月齢となり、月の出や月の入りの時刻、晴れていればどれだけの明るさが望めるかが、おおむね分かる。例えば光源氏と朧月夜の一夜の契りの巻「花宴」の舞台は二月の二十日余り。この日の夜は二人の出会いの場は、弘徽殿の細殿の西側のため、月光は明け方まで差し込まない。紫式部が設定した大胆な逢瀬は、このようにお膳立てされたのだ。

6- 平安人の心 「末摘花:容姿は鼻が高く大きくその先は紅くて幻滅したが・・」

2021-06-28 10:10:23 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  18歳の光源氏は、前年喪った夕顔を惜しみ続けていた。夕顔のような可愛い女が、またいないものか。そこへ乳母子の大輔命婦(たいふのみょうぶ)から、常陸宮の箱入り娘が、父亡き後、琴を友に寂しく暮らしていると聞く。光源氏は命婦の手引きで常陸宮邸を訪れた。その様子に悪友の頭中将も影響され、共に文をおくるなど、二人は恋のさや当てを展開する。しかし当の姫からは何の反応もないまま、光源氏は晩春には瘧病(わらわやみ)を患い、次いで心に物思いも加わって、季節が過ぎた。
  秋になり、光源氏は久しぶりに常陸宮邸を訪れ、勢いで初めての契りを交わした。だがどうも合点がいかない。夕方ようやくおくった後朝の文への返歌もちぐはぐで、幼い若紫の世話も重なり、ますます姫から心が離れた。が、顔を見れば想いが盛り返すこともあろうかと、冬の日、姫の邸を訪れる。ところが翌朝、雪明りで初めて見た彼女の容姿はすさまじく、象のように長く先の赤い鼻が目を引くばかりだった。幻滅しながらも、「自分以外に彼女を世話する男はいまい」と思い直す光源氏。鼻の赤さから紅花の異名「末摘花」と呼び、「何の因果で出会ったものか」と若紫と手習いの歌を詠むのだった。
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  「きぬぎぬ」とは「衣衣」のことだ。愛の一夜を共に過ごした男と女の、めいめいの衣をいう。褥にいる間、衣は二人の体を覆っている。だが愛の時間が終われば、二人はまたそれぞれに衣をまとう。だから「きぬぎぬ」は、逢瀬の翌朝、二人きりの時間の終わる時をも指すことになった。
  「しののめのほがらほがらと明けぬれば おのが衣衣なるぞ悲しき(東の空が晴れやかに明けてゆくと、もうそれぞれの衣を着る時間だ、悲しいこと)」という和歌がある(「古今和歌集」恋三 詠み人知らず)。「ほがら」は現代語では明朗な性格をいうが、古語では晴れ渡った空の明るさをいう。この歌の作者は、おそらく男だろう。いまだ恋の名残りを残した心は別れの悲しみに曇るのに、空はどんどん明るさを増す。あまり明るくなっては、女のもとを去るのに人目についてはずかしい。つれない空に泣きたいような気持なのだ。

  この「きぬぎぬ」の時間に相手におくる恋文が「後朝の文」。現代のカップルの、デート終了後に交わすメールとよく似ている。後朝の文が早く来るのは恋心の強さの証拠。男たちは女と別れて家路につくや否や、その道中からもう和歌を考え始める。恋とは結構忙しいものでもあるのだ。

  「源氏物語」と同時代の「和泉式部日記」は、歌人和泉式部と敦道(あつみち)親王の恋の経緯を描く作品だ。二人の交わした和歌をふんだんに織り交ぜながら、大人同士の恋を綴る。二人にはそれぞれ夫と妻がいる。加えて和泉式部は、親王の死んだ兄ともかつて所謂不倫関係にあった「恋多き女」である。敦道親王はもとより高い身分に加え、次期皇太子とも噂される政治的局面にあって、それでも、見事な歌才を持つ彼女に強く惹かれてしまう。
  親王は和泉式部より少し年下で、恋に鳴れていない。それでも彼女のこれまで体験した恋とこの恋とを、天秤にかけてほしくない。少なくとも自分にとっては、どんな恋より激しい恋なのだ。これに和泉式部が返したのが次の歌だ。

― 世の常のことともさらに思ほえず 初めてものを思ふ朝は (どこにでもあるものだなんて、絶対に思えませんわ。こんな気持ちは今までなかったこと。初めてここまで恋に悩む、今朝なのです) ―

  恋多き女に正面から挑む男、「これこそ初めての恋」と受けて立つ女。危うい恋と知りつつ踏み出す。真剣勝負の後朝の贈答だ。

  このように、後朝の文は男と女がそれぞれの「燃え度」を伝え合うものだった。だから後朝の文が遅ければ、それは「愛情が浅い」という信号だった。光源氏は末摘花との逢瀬の翌日、夕刻まで後朝の文をおくらない。おまけにその歌も「夕霧の」で始まる。「夕」では「後朝」の文にならないではないか。読者にはそう突っ込んでほしい。

7- 平安人の心 「紅葉賀:暗躍する女房たち」

2021-06-28 10:09:10 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏18歳の十月。朱雀院への行幸を前に、清涼殿で試楽が催された。行事に同行しない藤壺女御に舞楽を見せたいという桐壺帝のはからいである。光源氏は頭中将と二人で青海波を舞い、見る者たちの絶賛を浴びた。しかし藤壺は、光源氏の過激な恋心を疎み、何も知らず称賛する桐壺帝に対して言葉少なにしか応対できない。同じ頃、光源氏は二条院で若紫を慈しみつつ、その純真さに癒されていた。正妻の葵の上は相変わらず冷淡で、若紫を新しい愛人と思い込み、光源氏との溝を深める。
  藤壺は翌年二月に、世間に公表した月数では懐妊12カ月で出産。生まれた男児は光源氏にそっくりだった。この第十皇子を桐壺帝は溺愛し、光源氏に見せる。「おまえによく似ている」という言葉に光源氏は青くなるいっぽう、初めて見るわが子に胸がいっぱいになり、父という自覚が心に芽生える。
  この頃光源氏は、年のころ57~58歳で有能ながら好色ぶりを隠さない内裏女房・源典侍(げんのないしのすけ)に好奇心を抱き、男女の仲となっていた。噂を聞きつけ、光源氏に対抗心を抱く頭中将はまたも恋のライバルの名乗りを上げる。ある時は、光源氏と源典侍との寝所に忍び込んで脅し、光源氏と立ち回りとなるが、光源氏はすぐに頭中将と気づき、二人は互いに袖を裂き帯を奪って戯れ合う。
  藤壺は七月に中宮となる。ますます遠くなる彼女に、光源氏の想いは切なさを増すばかりだった。
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  古典文学、特に和歌や物語文学には、「女房」と呼ばれる人々がしょっちゅう登場する。現在は「妻」の意味になる「女房」だが、古典文学では違う。この人たち、いったい何者なのだろうか。
  女房の「房」は、冷房・暖房などの「房」。つまり部屋という意味だ。女房は主人の邸宅に「局」と呼ばれる部屋を与えられ、住み込みで働いた侍女である。ただし仕事内容は、下女があたった肉体労働とは全く違う。

  国宝「源氏物語絵巻」の「東屋(一)」には、宇治十帖のヒロインである浮舟(桐壺帝の八の宮と女房の子)とその異母姉の中の君(八の宮と正妻の子)が、女房らと共に描かれている。浮舟は冊子を開いており、その紙面には絵が描かれている。いっぽう女房が開いている冊子には、字が書かれている。女房は主人格の浮舟に物語を読んで聞かせ、浮舟はその物語を絵で楽しんでいるのだ。また、中の君は長い髪を洗い終えたあと、まだ濡れているその髪を、女房が櫛で梳いている。このように女房たちは、主人の教養のお相手や家庭教師役、身だしなみの世話などを日常的にこなした。また主人宅で儀式や行事があれば、装束に身を固め華やかに奉仕した。いわば主人を彩る知的・美的スタッフである。

  女房を雇う主人を「主家」という。一般の貴族、後宮の后妃たち、天皇など、どんな主家に勤めるかだ、女房は暮らしも仕事内容も違う。
  女房は主人の様子をきちんと把握して、事態に応じて気の利いたケアを行った。国宝「源氏物語絵巻」の「夕霧(光源氏の子)」図に描かれた女房の姿をみると、この巻のストーリーは、光源氏の息子の夕霧が、三十歳を前にして本気の浮気に陥ってしまうというものだが、画面左には手紙に見入る夕霧の姿が描かれ、その背後から忍び寄るのは夕霧の年来の妻、雲井雁(くもいのかり:頭中将の子)である。彼女は次の瞬間には夕霧の手からその手紙を奪い取ってしまうのだ。型通りの「引目鉤鼻」ながら、その表情は緊張に満ちている。

  さて女房はその画面の右下に二人。襖障子に耳を当てて、室内の夫婦のやりとりを聞こうとしている。興味本位の盗み聞きのように見えるが、おそらくそうではない。夫婦の緊迫した状況を察知し、情報を収集して、事あらばすかさず対応しようとしているのだ。つまりこれもお仕事の内。「源氏物語」本文と合わせれば、二人のうち一人は雲井雁の乳母と思しい。子供のころから育てた姫君のピンチに、はらはらしつつ耳をそばだてているのだ。

  ちなみに夕霧の浮気相手の落葉の宮にも、もちろん女房がいて、こちらは女主人を炊きつけている。落葉の宮が夕霧の妻となれば自分たちの生活が安泰だからだ。落葉の宮は決して夕霧に惹かれておらず、むしろ結婚などしたくないと思っているのに。結局夕霧は、女房の手引きによって落葉の宮と結ばれる。自分たちの利益のためには、時には集団で主人を裏切りもする。女房とは主家にとって、決して侮れない存在だったといえよう。

5- 平安人の心 「若紫:光源氏は乳母と共に若紫を連れ帰る」

2021-06-27 10:18:55 | 平安人の心で読む源氏物語簡略版
山本淳子氏著作「平安人(へいあんびと)の心で「源氏物語」を読む」から抜粋再編集

  光源氏は18歳の春、瘧病(わらわやみ:子供に多い病気でマラリアに近い熱病の一つ)の治療のため赴いた北山で、祖母の尼君と暮らす10歳の少女・若紫(後の紫の上)を見初める。飼っていた雀が逃げたと泣くいたいけな若紫は、光源氏が密かに激しく恋い慕う義母・藤壺女御に面影が似ていた。調べると若紫は藤壺の兄・兵部卿宮の隠し子で、藤壺の姪にあたる。光源氏は藤壺にかよう若紫を思いのままに育てたいと願い、尼君に若紫の養育を申し出るが、拒まれる。

  その頃、藤壺は病のため内裏を出て実家に戻っていた。光源氏は藤壺の女房・王命婦に懇願して忍び込み、藤壺との密通を果たした。このまま夢の中に消えたいと嘆く光源氏。しかし藤壺にとってそれは夢としても悪夢であり、もとより過酷な現実であった。果たして藤壺は懐妊し、世には桐壺帝の子と偽った月数を公表する。光源氏は夢でわが子だと察するが、藤壺は光源氏を拒否し連絡を絶つ。

  藤壺との関係が絶望的となった光源氏は、京に戻っていた若紫の邸をを尋ね、再び養育を願い出る。光源氏の意図を知らぬ祖母・尼君は断り続けるが、病にため亡くなる。若紫に母はなく、父の兵部卿宮に引き取られることになるが、そこには意地の悪い継母がいる。光源氏は兵部卿宮の来る直前に若紫宅を訪れ、乳母と共に強引に二条院に連れ帰る。数日は勤めも休み、自ら絵や字を教えて、光源氏は若紫の養育に入れ込む。こうして藤壺ゆかりの彼女を慈しむことで、藤壺への恋心をなだめるのでした。
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  「源」は、「藤原」などと同じ一つの姓である。だから「源氏」とは「源」の姓を持つ一族をいう。「藤原氏」と違うのは、その祖先が天皇であることだ。始まりは平安時代初期の嵯峨天皇(786~842年)。この天皇は政治的にも文化的にも強大な力を持ち、子沢山だった。その数や、男子だけでも22人に上る。さて、皇族は現代と同様に国家から支給を受けて生活していた。22人の皇子がさらに子孫を増やし、さらにそのまた子孫へと下ってゆけば、皇族費用は文字通り鼠算式に増えて、国の財政を逼迫させる。それを避けるため、天皇は皇子を三種類に分けた。一つは天皇を継ぐ東宮(皇太子)、もう一つは控えの皇太子要員といえる親王。そして最後が源氏である。

  こうして「源」の姓を賜った者たちは、天皇の血をひきながら皇族とは切り離されて臣下に降り、他の氏族の者と同様に自ら生計を立てた。血の「源」流は天皇家。文字からしてそれを示す誇り高い姓ではあるが、逆に言えば天皇家の血をひきながら皇位継承の道を閉ざされた氏族だ。

  嵯峨天皇などそれぞれの源氏の始祖の帝は、どのような基準で皇族に残る皇子と源氏となる皇子たちを分けたのか。それは母の出自であった。母の家柄が低ければ、皇族に残さず源氏とする。ここにまた「血の論理」がある。一世源氏とは、父帝の至高の血という優越性と、帝位には不相応な母の血という劣等性とを、共に受け継ぐ者だった。自らの血を自負すればいいのか、卑下すればいいのか。その葛藤は想像に余りある。光源氏は、桐壺帝の十人の皇子でただ一人臣籍に降ろされた。「源氏物語」というタイトルは、主人公が身分社会の敗者であることを示していたのだ。