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33 補足 ハリー・デキスター・ホワイトとケインズ

2021-11-28 09:06:02 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
33 補足 ハリー・デキスター・ホワイトとケインズ

 渡辺惣樹氏著作「第二次世界大戦 アメリカの敗北」から抜粋再編集
 副題:米国を操ったソビエトスパイ

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第七章 ハリー・デキスター・ホワイトとケインズ (一部引用編集)

  フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)が、最もあてにしているドイツ人皆殺しを考えるユダヤ系モーゲンソー財務長官は、同じユダヤ系のホワイト(ソビエトスパイ)を財務長官補佐官に昇格させると同時に、戦後国際金融スキームの構築という極めて高度なプロジェクトをホワイトに任せることで、財務長官の右腕(分身)として、本来、国務省が管轄するはずの外交マターに関与させることを明確にした。

  1941年12月14日(日曜日)の朝、ホワイトにモーゲンソーから電話があった。モーゲンソーは前夜に見た夢の話を聞かせた。真珠湾攻撃の1週間後のことである。

  「不思議な夢を見た。この戦争が終わったら世の中は世界通貨(international currency)で動くようになっていた。その通貨は中央基金(a central fund)なる組織がコントロールしている。この夢には実現性があるのだろうか。それを検討してくれないか」

  ホワイトは、モーゲンソーの夢を聞かされた二週間後(12月30日)には原案をまとめ上げた。ケインズも同様に英国案を出した。二人はそれぞれの案を吟味した。二人とも1929年に始まった世界恐慌の原因は為替相場の混乱にあったと分析していただけに、戦後は為替レートの安定が必要だという点では一致した。
  しかし金の保有量が激減した英国(ケインズ)は、為替価値を金とリンクさせないシステムにしたかった。一方で、当時の世界の金の七割以上を保有する米国(ホワイト)は、金本位制(正確には金為替本位制)を維持する案を出していた。

  世界的名声のあるケインズではあったが、英国は戦後復興にアメリカの資金を必要とすることがわかっていた。それだけにアメリカの主張に抵抗することは厳しく、ホワイトとの交渉では劣勢に立った。実務協議は十八ヵ月にわたって秘密裏に進んでいたが、1943年4月、「ファイナンシャルニューズ」(後に「ファイナンシャルタイムズ」に吸収された)のポール・アオジングによって報道され、世間の知るところとなった。実務者協議が国家間の正式交渉に格上げされたのは同年秋のことであった。

  1944年1月、ホワイトはソビエト代表とも協議している。当時は新国際通貨制度(後の国際通貨基金:IMF)にソビエトが参加することが前提で協議されていた。
  ホワイトは、まだ結論が出ていないにもかかわらず、新体制は金(為替)本位制がベースになると説明していた。

  ホワイトの発言にはソビエトを喜ばせる意図があった。金の産出国であるソビエトにとっては、金本位制度に基づく新通貨システムは、(たとえドルだけにリンクする仕組みであったとしても)好都合だった。
  その意味で、ホワイトの動きはソビエトの意向にかなうものであった。「このことをケインズが知ったなら機嫌を損ねたに違いなかった」。

32 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い 」

2021-11-27 09:07:14 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
32 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い 」

  第2章のシリーズ終了です。第3,4章は省略します。次のテーマは未定です。
 第2章
 米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

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2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

  1944(昭和19)年12月に、今度はドイツと日本を戦後どのようにして処理するか、計画するために、国務省のSR(スペシャル・リサーチ・ディビジョン)に、陸海軍三省が加わって、調整委員会が発足した。
  日本はそのもとに置かれた極東小委員会によって、扱われることになった。

  国務省では、ヒュー・ボートン(1930~1995年)が中心になって、対日平和条約を作成する作業が始まった。

  ヒュー・ボートンは、代々、敬虔なクエーカー教徒の家庭に生まれ、1929(昭和3)年に二十五歳で、クエーカー教団のアメリカ友情奉仕委員会によって、日本の調査を目的として派遣され、夫人のエリザベスを伴って来日、三年間にわたって東京に滞在した。

  その後、1935(昭和10)年に、妻と一人娘のアンを連れて、再び日本に戻り、東京帝国大学大学院に編入、日本史を学んで、翌年、帰米した

  その後ボートンは、1942(昭和17)年10月に、乞われて国務省に入省すると、SRの一員となった。
  戦後、1935(昭和23)年に国務省を退官した後に、ニューヨークのコロンビア大学教授となり、日本専門家として教鞭をとった。
  著者はボートン教授のもとに通って、対日講和条約案を作った経緯について、質した。

  1946(昭和21)年に、国務省の対日講和条約案が完成した。その内容は、きわめて過酷なものだった。
  この対日講和条約第一次案では、日本が永久にいっさいの軍事力を持つことを禁じていた。そのうえ、日本の軍事力が将来万が一にも復活することがないように、入念な予防処置が組み込まれた。

  航空機は軍用期はもちろん、民間機も一機すら保有することを禁じられ、戦略物質の貯蔵から、軍事目的を持つ研究、核平和利用に関する研究まで許されなかった。
  公職追放は一定の水準以上の者については、講和条約が結ばれた後も、永久に続くことになっていた。

  そのうえ、日本を条約で縛っただけでは、安心できず、日本が軍備、軍需品の生産能力を持つことがないように、講和条約を結んだ後に25年間にわたって、極東委員会ーー連合国の対日占領政策の結締機関ーーを構成する11ヶ国からなる国際監視団によって、監視されることになっていた。

  対日講和条約の第一次案は、第一次大戦後にドイツに課せられたベルサイユ条約よりも、はるかに過酷なものだった。
  マッカーサー元帥の総司令部は、この講和条約第一次案を下敷きにして、日本国憲法を押しつけるように、指示された。

  現行の日本国憲法は、とうてい憲法と、呼ぶことができない。憲法を装った不平等条約である。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

31 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画 」

2021-11-26 08:57:09 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
31 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画 」

 第2章
 米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

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2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画

  日本は1945(昭和20)年8月15日に、力尽きて敗れた。開戦の年の9月7日の御前会議で、永野軍令部総長が「戦うも亡国を免れない」と発言したのが、現実となった。

  9月2日に、東京湾に浮かぶ戦艦「ミズーリ」の上甲板で、降伏文書調印式が行われた。
  ペリーが1853(嘉永6)年に江戸湾に黒船を率いて侵入して、幕府を威圧した時に、旗艦「サスケハナ」が投錨したのも、やはり同じ場所だった。

  その四年十一ヵ月前に、東京湾で帝国海軍の最後の観艦式となった「紀元二千六百年特別観艦式」が催され、「ミズーリ」が停泊したほぼ同じ場所から、天皇がお召艦「比叡」の艦橋に立たれて、連合艦隊の艦列を観閲されていた。
  戦艦「比叡」は1914(大正3)年に建造され、1942(昭和17)年11月12日に、ガダルカナル沖で空襲を受けて大破したうえで、自沈した。

  日本がアメリカに対して決起して戦ったことが、賢明だったのか、愚かであったのか、大いに論じなければならない。
  だが、日本国民をあげて善戦敢闘した武勇は、永く称えなければならない。武徳を称えない国は、かならず滅びる。

  天皇は戦時下を通して、つねに平和を念じられた。
  軍は開戦とともに、つぎつぎと赫々(かくかく:赤く熱気を発するさま)たる勝利を、あげていった。

  1942(昭和17)年1月26日に、宮城(きゅうじょう:当時、皇居がそう呼ばれた)で宮中歌会始が催されるまでに、大英帝国が誇る戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパレス」をマレー半島沖において撃沈し、香港とフィリピンのマニラを占領した。

  新年歌会始の御題は、「連峯雲」だった。
  天皇は「峯つづきおほふむら雲ふく風の はやくはらへとたゝ(ただ)いのるなり」と、詠まれた。
  昭和天皇は大戦中を通じて、数多くの御歌をつくられたが、戦争を称えたり、好戦的なものが、一つツしてなかった。

  著者は1950年代から70年代にかけて、対日占領に当たった連合軍総司令部や、大戦中の政権の幹部の多くとアメリカで会って、当時を回想してもらった。
  日本国憲法の制定の過程にについて質したなかで、先の特別研究部(SR)に行きついた。

  日米開戦後に、国務省の特別研究部(SR)に、陸軍が加わって、戦後計画委員会となった。1944(昭和19)年3月に報告書が、まとめられた。
  その骨子は、日本をアメリカによる単独占領下に置いて、日本の徹底的な非武装化と、「民主化」を行ない、後になって日本が講和条約によって独立を回復しても、名目的なものとして、実質上はアメリカの管理下に置くというものだった。

  天皇を占領下で在位させて利用し、日本政府を存続させて、間接統治することが盛り込まれた。
  二十カ月後に始まった対日占領は、戦後計画委員会による筋書きに、沿ったものとなった。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

30 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相 」

2021-11-25 08:20:26 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
30 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相 」

 第2章
 米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

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2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相

  アメリカでは、ノックス海軍長官が真珠湾攻撃から間もなく、調査のために現地を訪れて、ルーズベルト(FDR)大統領に報告書を提出した。

  当時、極秘にされた報告書は、「ショートも、キンメルも、ワシントンにおいて日本政府から野村大使に送られた指示を傍受することによって明らかだった奇襲についてのはっきりした兆しについて、何も知らされていなかった。
  傍受した日本の機密電報は、野村大使が日本の最終覚書を、ハル国務長官に日曜日午後一時に手渡すことを、厳密に指示しており、何らかの形で奇襲が行われることを、意味していた」と、述べていた。

  12月16日に、キンメル太平洋艦隊司令官とショート陸軍司令官は、ルーズベルト(FDR)大統領によって、「職務怠慢(ディレリクション・オブ・デューティ)」のかどで罷免された。同時に、キンメルとショートは、それぞれ大将と中将から、少将に降格された。

  キンメルの後任に、ウィリアム・パイ中将が太平洋艦隊司令長官として、任命された。ワシントンは、パイがキンメルと交替してから、「マジック」情報をはじめてホノルルに送るようになった。

  日本によって真珠湾が奇襲され、アメリカ海軍が甚大な大損害を被ったことから、アメリカ議会がその週のうちに、未曾有の惨禍の原因と、その責任について調査を始めた。

  しかし、究明しようとしても、「マジック」情報が、その鍵だった。
  戦時下だったから、アメリカが日本の外交暗号すべてと、日本の海軍暗号を一部解読していることを、公にすることはできなかった。

  アメリカ海軍は開戦に至るまでの「マジック」情報を、すべて金庫のなかに収めて、封印してしまった。

  キンメルは1946(昭和21)年に、議会において行われた真珠湾奇襲の真相を調査する委員会に出席して、「もし、自分に十分な情報が与えられていさえすれば、ハワイを防衛するのに必要な措置をとることができた」と、訴えた。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

29 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本 」

2021-11-24 09:15:52 | 1-2なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
29 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本 」

 第2章
 米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い

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2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本

  杉山参謀総長が「神風の助けを借りなくて済むように」祈った2年11ヵ月後の1944(昭和19)年10月20日に、フィリピンのルソン島から、はじめての特攻隊が出撃した。関行男海軍中尉が「本攻撃隊を、神風(しんぷう)特別攻撃隊と呼称す」という編成命令を受け、ルソン島のマニラから80キロ北にあるマバラカット基地から、最初の特攻隊として、8機の僚機を率いて飛び立った。

  今日、マバラカットの基地の跡に、フィリピンの人々の手によって、「ここから、世界最初の公式人間爆弾となった関行男海軍中尉が、飛び立った」と刻まれた碑が、設置されている。

  石清水八幡宮は、京都の南西を守護する神社として、平安時代の860(貞観(じょうがん)2)年に建立され、「徒然草」にも登場するが、社格が伊勢神宮と並ぶとされてきた。

  東條首相は清水の舞台から飛び降りるといって、国家と個人を混同していた。京都の清水寺では、高い舞台が本堂から深い谷に面した山の斜面にせりだすように、地面から高く設けられている。

  日露戦争に当たっては、国家指導者が終戦の方策について、熟慮したうえで開戦したが、対米戦に踏み切った時には、どのようにしたら、戦争を終結することができるのか、だれ一人考えていなかった。
  それよりも、考えることができないところまで、追い詰められていた。

  明治の指導者たちは戦争を始めることよりも、終わらせる方が難しいことを、よく承知していた。1941(昭和16)年の日本には、そのような余裕がなかった。

  昭和天皇は開戦前の11月2日に、東條首相、杉山、永野両総長に対して、周旋をはかるのに当たって、「収拾に(バチカンの)ローマ法皇を考えてみては、いかがかと思う」と、述べられた。
  天皇の御意志によって、開戦後にローマ法王庁に、はじめて公使が派遣された。

  もっとも、主敵であるアメリカでは新教(プロテスタント)、イギリスではイギリス国教会が支配的であり、カトリック(旧教)はともに少数派であるために、差別を被っていた。天皇は両国において、ローマ法王の影響力が限られていることを、御存じなかった。

  ヒトラー総統は、日本が真珠湾を攻撃した12月7日に、モスクワ正面まで迫っていたドイツ軍に対して、独ソ開戦後、はじめて退却命令を発した。
  この時点で、ドイツ軍は尖兵が、倍率の高い双眼鏡によってモスクワのクレムリンの塔を望める地点まで、進出していた。

  だが、この年は、ロシアに例年より早く、冬が訪れた。ヒトラーは冬将軍が到来するまでに、対ソ戦争を終結するつもりだったから、ドイツ軍は冬服を準備していなかった。そのために、ドイツ軍は限界まで疲労困憊して、戦闘を続けることは不可能だった。
  ソ連は度重なる五ヵ年計画経済計画にもかかわらず、道路がまったく舗装されていなかったために、ドイツ軍の車輛や、重装備が泥濘(ぬかるみ)にはまって難渋したのも、大きな原因となった。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長