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2. 身捨つるほどの 和泉式部の恋の歌

2021-12-09 09:27:06 | 和泉式部の恋と歌
2. 身捨つるほどの 和泉式部の恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

*******本篇は特に難解です

  「和泉式部集」を繙(ひもと)いてはじめにまとめられた「恋」の部をみれば、代表作としての「恋」の名歌はかなり出揃っている。何首かを見てみる。

  いたづらに身をぞ捨てつる人を思ふ心や深き谷となるらん  「和泉式部集上」

  (人を思う心は、たとえば深い谷となってゆくのだろうか。その谷に私は、ついに身を捨ててしまったようだ)

  「人を思う心」を「深き谷」だといっている。これは言葉のあやとしての比喩ではない。式部が多くの「恋」の場を通して得た実感といった方がふさわしい。その心づくしの谷は深く、暗く、恐ろしいような空隙である。いったん身を投げればその人の人生を狂わせるような「谷」の自覚が式部の恋なのである。命がけのような真摯な眼がそこにはある。本物の心と出会おうとする冒険が式部の恋の一つ一つにあったかと思わせるような恋の部の冒頭歌である。この歌には本歌と見なされる歌がある。

  世の中の うきたびごとに 身を投げば 深き谷こそ あさくなりなめ  「古今集」雑躰 よみ人しらず

  世の中の うきたびごとに 身を投げば 一日(ひとひ)に千たび 我や死にせん  「和歌九品(藤原公任著)」

  「古今集」の歌は第三句を順接の「ば」でつないでいるので少し理屈っぽい仕上りになったいる。公任が引用した歌は下句が少し異なるものだが、同じ順接の「ば」をつなぎとしながら下句は異想性のある展開で面白味が生まれている。

(以下略)

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」

1. 心から心へ 和泉式部の恋の歌

2021-12-08 09:09:03 | 和泉式部の恋と歌
1. 心から心へ 和泉式部の恋の歌

  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」一部引用再編集

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  和泉式部の恋の歌はどれも切実な実感をたたえていた。「後拾遺集」に収録された歌はほとんどがその歌が詠まれた現場を詞書としてもっている。歌人たちは表現の巧緻による称賛を求める反面では、心から心に伝わる言葉の秘密がどこにあるかを、和泉式部の歌にみていたにちがいない。

夜ごとに来むといひて夜がれ(通ってこなくなること)し侍りける男のもとにつかはしける

  こよひさへ あらばかくこそ 思ほえめ けふ暮れぬまの いのちともがな  「後拾遺集」恋三

  (今宵という今宵もまた、あなたのことを思って待ち過ごすなら、どんなにつらく、苦しく堪えがたいでしょう。いっそ、夕暮が来ぬまに、この命、消えてしまいたいものです)

  毎夜必ず通ってくると言った男の言葉を信じて待っていたのに、男は約束を守らなくなってしまった。その不実な男に向けて、「けふ暮れぬまのいのちともがな」と言い送っている。この歌につづけて収録されている赤染衛門の歌もいい歌で、やはり結句に「いのちともがな」を据えている。

  あすならば 忘らるる 身になりぬべし 今日を過ぐさぬ いのちともがな  「後拾遺集」恋三 赤染衛門

  「いのちともがな」は、当時すでに恋の情熱をうたう時の常套句であったかもしれないが、それならなお、この一句をうたい据えることにはかなりの自負と言葉のちからが必要である。赤染衛門の場合は、何か言い争いでもしたのか、最愛の夫として知られるようになる大江匡衡(まさひら)が「もう二度と来ないから」と出て行ったあと、昼頃にまた機嫌をなおして再訪、仲直りした時のものだ。「いのちともがな」に高揚した愛情があふれている。

  「百人一首」にも「いのちともがな」が一首ある。制作時代はもう少し前になる儀同三司母の歌だ。

  忘れじの 行末までは かたければ けふをかぎりの 命ともがな  儀同三司母

  儀同三司は、身分の格式を太政大臣、左右大臣に同じくするという意味で、ここでは藤原伊周(これちか:一条天皇の皇后だった定子の兄)のこと。叔父道長との政争に敗れ、一旦太宰権師に左遷されたのち(中宮彰子が道長に懇願して)召喚されてこの待遇を受けることになった。その母は高内侍(こうのないし)とよばれた才媛、高階貴子である。若い日に中関白(なかのかんぱく)道隆(道長の長兄)が通いそめた頃の歌。一夜歓を尽したあとの幸福感に、その愛が長つづきしないのではないかという恐れを内攻しつつうたっている。

  この歌や、赤染衛門の歌に比べると和泉式部の歌は暗い。来るといってこない男を待ちつつける不安に耐えかねて、待つ宵より早く死んだ方がましだといっている。

  和泉式部はその恋の場の多さによって多恨多情の人とされている。しかし、その恋の求めは好色な風流ではなく、疑似恋愛のの遊戯性ももたない。どこかに求めて求め得ぬ哀しみの情があり、本音のひびきがつたわるものだ。

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~恋する黒髪~」

3-5 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 3ホ トインビーが日本に与えた歴史的評価 」

2021-12-07 09:04:35 | 3なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
3-5 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 3ホ トインビーが日本に与えた歴史的評価 」

 第3章 都合により今回で休止します。
 日本人が知らない日本の歴史的功績 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
3イ 盧溝橋事件は日本の仕掛けではなかった
3ロ 東京裁判で裁かれた「平和に対する罪」とは
3ハ 日米戦争の原因の一つは人種差別
3ニ トルーマンもマッカーサーも人種差別主義者だった
3ホ トインビーが日本に与えた歴史的評価
3ヘ 軍人としては無能だったマッカーサー
3ト マッカーサーの日本非武装中立論
3チ 日本の”宗教改革”を企んだマッカーサー
3リ アメリカの日本に対する戦後処理の愚
3ヌ ルーズベルト(FDR)を「狂人」と呼んだフーバー元大統領

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3ホ トインビーが日本に与えた歴史的評価

  世界的に著名な歴史家のアーノルド・トインビーは、1956(昭和31)年にイギリスの高級新聞「オブザーバー」紙(
10月28日)に、次のように寄稿している。

 「日本は第二次世界大戦において、自国ではなく、大東亜共栄圏の他の国々に思いがけない恵みをもたらした。
  それまでアジア・アフリカを200年の長きにわたって支配してきた西洋人は、無敵で、あたかも神のような存在だと信じられてきたが、日本人は実際にはそうではなかったことを、人類の面前で証明してしまった。
  これは、まさに歴史的な偉業であった」

 「日本は白人のアジア侵略を止めるどころか、帝国主義、植民地主義、人種差別に終止符を打つことをなしとげた」

  アメリカは1898(明治38)年の米西戦争で、スペインの植民地だったフィリピンとグアム島を奪った。
  アメリカは同じ年に、ハワイに海兵隊を奇襲上陸させて、アメリカ領に組み込んだ。
  アメリカにハワイ、フィリピンを支配する何の権利が、あったのだろうか。

  十五世紀に大航海時代の幕が上がってから、白人キリスト教徒は自分たちが神の選民であると思いあがり、アジア・アフリカを侵略してキリスト教化する使命があるとして、その行為を正当化した。キリスト教は、剣を隠し持った宗教だった。支配を全世界にひろげていったのは、香料や、胡椒、黄金、銀、奴隷を求めたものだったが、蛮地をキリスト教化するという大義名分によって、卑しい欲望を隠した。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

3-4 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 3ニ トルーマンもマッカーサーも人種差別主義者だった 」

2021-12-06 09:04:14 | 3なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
3-4 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 3ニ トルーマンもマッカーサーも人種差別主義者だった 」

 第3章
 日本人が知らない日本の歴史的功績 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
3イ 盧溝橋事件は日本の仕掛けではなかった
3ロ 東京裁判で裁かれた「平和に対する罪」とは
3ハ 日米戦争の原因の一つは人種差別
3ニ トルーマンもマッカーサーも人種差別主義者だった
3ホ トインビーが日本に与えた歴史的評価
3ヘ 軍人としては無能だったマッカーサー
3ト マッカーサーの日本非武装中立論
3チ 日本の”宗教改革”を企んだマッカーサー
3リ アメリカの日本に対する戦後処理の愚
3ヌ ルーズベルト(FDR)を「狂人」と呼んだフーバー元大統領

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3ニ トルーマンもマッカーサーも人種差別主義者だった

  ルーズベルト(FDR)が死去したのを受けて、大統領となったハリー・トルーマンも、激しい人種差別主義者だった。

  ルーズベルト(FDR)はミズーリ州選出上院議員のトルーマンを軽蔑していた。1944(昭和19)年の大統領選挙に当たって、政治的な必要から、トルーマンを副大統領候補として組んだ。しかし、ルーズベルト(FDR)はトルーマンを無視して、民主党大会で正副大統領候補として指名を受けた時と、大統領就任式以外に、死去するまで、トルーマンと一度も顔を合わせたことがなかった。

  トルーマンはミズーリ州の貧しい家の出身で、大学教育も受けていなかったから、朴訥で口汚かった。日本が降伏した直後に、日本人は「悪辣で、残忍な野蛮人だ」と言っている。

  トルーマンは、ユダヤ人も嫌った。トルーマンはミズーリ州の自宅に、ユダヤ人を一度もいれたことがなかった。

  1946(昭和21)年に閣議の席上で、「イエス・キリストが彼ら(ユダヤ人)を満足させることができなかったのに、どうして私がそうできようか」と、発言している。ユダヤ人が後にパレスチナにイスラエルとして独立する、新しいユダヤ人国家を建設しようとしていたのにも、反対していた。

  マッカーサー元帥も、人種差別主義者だった。

  東京時代を通じて高級副官として側近だったファビアン・パワーズ少佐が、元帥と専用車に同乗していた時に、外に雨がしのついていた。
  マッカーサーはパワーズに、「昔、東京に来た時も、このように雨が降っていた。ジャップは、おぞましい悪そのものだ」と、言った。

  マッカーサーは日露戦争末期に、観戦武官として満州を訪れた父親に連れられて、日本にごく短期間、滞在したことがあった。
  マッカーサーはルーズベルト(FDR)のさまざまなお蔭を被り、ルーズベルト(FDR)の生前、諂っていたのにもかかわらず、いつも側近に彼のことを悪し様に言った。

  マッカーサーも、同じようにユダヤ人を蔑視していた。
  側近とルーズベルト(FDR)を話題にする時には、わざと「ローゼンフェルド」と名前を間違えてみせた。ローゼンフェルドは、典型的なユダヤ人の姓である。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長

3-3 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 3ハ 日米戦争の原因の一つは人種差別 」

2021-12-05 09:09:40 | 3なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか
3-3 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 3ハ 日米戦争の原因の一つは人種差別 」

 第3章
 日本人が知らない日本の歴史的功績 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
3イ 盧溝橋事件は日本の仕掛けではなかった
3ロ 東京裁判で裁かれた「平和に対する罪」とは
3ハ 日米戦争の原因の一つは人種差別
3ニ トルーマンもマッカーサーも人種差別主義者だった
3ホ トインビーが日本に与えた歴史的評価
3ヘ 軍人としては無能だったマッカーサー
3ト マッカーサーの日本非武装中立論
3チ 日本の”宗教改革”を企んだマッカーサー
3リ アメリカの日本に対する戦後処理の愚
3ヌ ルーズベルト(FDR)を「狂人」と呼んだフーバー元大統領

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3ハ 日米戦争の原因の一つは人種差別

  東京裁判は司法的に見せかけて、体裁をつくろったリンチ(私刑)だった。

  日本では今日に至るまで、「東京裁判史観」という言葉が定着している。だが、とうてい史観とすらいえるものではないから、滑稽なことだ。

  東京で連合軍が日本の指導者たちを「侵略戦争」を計画して、実行した罪によって裁いていたあいだ、イギリス軍、フランス軍、オランダ軍が、大戦中に日本が解放したインドネシアや、ベトナム、ビルマ、マレーを再び植民地としようとして、これらの諸国や、地域に対して侵略を働いていた。

  アメリカが日本に戦争を強いた大きな原因の一つが、人種差別だった。

  昭和天皇は1946(昭和21)年4月に、戦争の原因として、「白色人種の有色人種に対する優越感によって、日本人種が嫌われたことがある」と、側近に語られた。

  東京裁判の判事の11人のなかで、ラダビノド・パル判事、オランダのバート・V・A・レーリンク判事と、フランスのアンリ・ベルナール判事の三人が、判決に反対する少数意見を提出した。もちろん、占領下で三人の反対意見は、公表が禁じられた。

  パル博士は「連合国は極東軍事裁判で、日本が侵略戦争を行なったことを歴史にとどめることによって、欧米列強による侵略を正当化し、日本に過去の罪悪の烙印を押すことが目的だった」と、断じている。
  レーリンクは、後に著書のなかで、次のように述べている。

 「私たちは滞日中、東京をはじめとする都市を爆撃して市民を大量に焼殺したことが、念頭を離れなかった。私たちは国際法を擁護するために裁判をしていたはずなのに、連合国が国際法を徹底的に踏み躙ったことを、毎日、見せつけられていたから、それはひどいものだった。もちろん、勝者が敗者を捌くことは不可能だった。まさに復讐劇だった」
 「日本はアジアをアジア人の手に取り戻すために戦ったが、日本は軍事力を用いてアジアから西洋の植民地勢力を駆逐する意図は持たなかった。日本の当時の軍事力は、防衛的な性格のものだった」

  といって、日本がアメリカによって追い詰められて、開戦を強いられた経緯を、詳しく説明している。

  レーリンクは「人種差別が、太平洋戦争の主因の一つだった。連合国の国民は、日本人を人間以下と見なすように教育されていた。広島、長崎で数十万人を、一瞬のうちに焼殺したのも、人間ではないと感じたから、できたのだった」と、述べている。

  日本では人種によって差別することが、歴史を通じてまったくなかったから、キリスト教圏において常に行われてきた、厳しい人種差別を理解することが難しい。

  アメリカにおける日系人に対する差別は、ひどいものだった。日米戦争が始まると、12万人以上のアメリカ国籍を持っていた日系人が、全財産を没収されたうえで、有刺鉄線によって囲まれた強制収容所に、送られた。
  収容所の衛星も、環境も、劣悪だった。監視塔のうえに、銃を構えた兵士が見張っていた。

  これは、アメリカ憲法の重大な違反だった。それにもかかわらず、日本人によって442部隊が編成されると、ヨーロッパ戦線へ送られて奮闘し、アメリカ軍の最高殊勲部隊となった。

  1944年に行われたギャラップ社の世論調査では、回答者の13%が、「日本民族を絶滅させる」ことを、支持していた。はじめから、「日本民族を絶滅させるべきか」という質問が、用意されていたのだった。

  このころに、ルーズベルト(FDR)大統領はスミソニアン研究所で働く、文化人類学者のアールス・ヒルデリカをホワイトハウスに招いて「日本人全員を、温和な南太平洋の原住民と強制的に交配させて、無害な、やる気がない民族につくり替える計画をたてたい」と、語った。
  しかし、さすがにこの計画について、研究が行われることはなかった。

参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
 加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長