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解説―1.「紫式部日記」筆者の揺れと成長

2024-05-29 15:44:40 | 紫式部日記を読む心構え
解説―1.「紫式部日記」筆者の揺れと成長

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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筆者の揺れと成長

  「紫式部日記」は、女房であることを強く意識した筆者によって書かれている。

  筆者の紫式部は、後宮女房という存在が、政治権力の中枢に関わっていかに重要な役割を担うものであるかを、はっきりと自覚している。それは摂関制の先端を担うキサキを支え、彩る女たちである。だがいっぽうでその生き方が、父や夫に守られて自邸の奥に生きるいわゆる「里の女」とは遠く異質なものであることをも、認識している。

  女房は一所に落ち着くことなく、露わに見られ、異性と渡り合わなくてはならない。二つの意識の間で紫式部はとまどい、しかしやがて女房として成長してゆく。

  女房が主家のためにその繁栄の様を記しとどめた記録を、総じて「女房日記」と言う。「紫式部日記」は、主人彰子の皇子出産とそれに続く祝い事を記事の中心に置く点、「女房日記」の性格を多分に有している。
  だが、その書き手である紫式部は、必ずしも常に心の底から女房であるとは限らなかった。ある時は女房の目で、またある時は女房になりきれない者の目で、彼女は記している。

  このことが「紫式部日記」に、「女房日記」とは異質の奥行きを与えている。「紫式部日記」を読み味わうためには、まずこうした筆者の状態を理解し、その心の過程に寄り添うことが必要だろう。

つづく

15-5.紫式部の育った環境 惟規(のぶのり) 客死 (紫式部ひとり語り)

2024-05-18 15:13:04 | 紫式部ひとり語り
15-5.紫式部の育った環境 惟規(のぶのり) 客死 (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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惟規(のぶのり) 客死

  一条院の御葬儀は七月八日。そして同じ秋に、越後で惟規が死んだ。帝とそう変わらぬ歳だから、男盛りの死だ。臨終の様子は、父から手紙で知らされた。実に胸に迫る、見事な死に様だったと私は思う。やがてその一部始終は、父自身の言葉に基づいて、世に語り伝えられることになる。

  惟規がいよいよ助からないと見た父は、もう往生を願うしかないと覚悟して、彼の地の高僧を呼んだ。惟規が心を鎮め、末期の念仏を唱えるように、導いてもらおうとしたのだ。僧は惟規の遠くなった耳に口を押し当て、死後の世界のことを説いた。

  死んで最初に行くのは「中有(ちゅうう)」という世界だ。生まれ変わる先が定まらぬ間は、そこにとどまらねばならない。鳥も獣もいない荒涼とした広野に一人ぼっちで置かれる心細さ、またこの世に遺してきた者たちへの恋しさが、どれほど耐えがたいか。すると惟規は、苦しい息の下で、ためらいながらも僧にこう聞いたのだという。

   「その中有の旅の空には、嵐に類(たぐ)ふ紅葉、風に随(したが)ふ尾花などのもとに、松虫などの声などは聞えぬにや」

   [「その「中有」という所の旅の空には、嵐に運ばれてくる紅葉や、風になびく薄の穂などはありますか。その根元で鳴く松虫などの声は、聞えてきたりしないのでしょうか」]
 (「今昔物語集」巻三十一第二十八話)

  なんと惟規らしい、間抜けな質問だろうか。神妙であるべき臨終の床でこんなことを聞かれるとは、僧は思ってもいなかった。むっとして「何のためにそんなことを聞く」と問い返した。すると惟規は、息を休めながら途切れ途切れに「もし、そうしたものがあれば、それらを見て、心を慰めながら参ります」と答えたという。僧は怒って帰ってしまった。

  だが、私には分かる。惟規は大真面目だった。本当に知りたかったのだ。自分が向かうという死後の世界に、大好きな歌の種はあるのだろうか。向こうでは、紅葉を愛で虫の音をいとおしみ、歌を詠むことはできないのだろうか。

  しばらくして、じっと見守る父の前で、惟規は朦朧としつつ両の手を持ち上げ、寄せ合うような仕草をした。何がしたいのか。父には分からなかった。だが傍らの者が思いついて、「もしや、何か書きたいのですか」と聞くと、惟規はかすかにうなずいた。父が筆を湿らせ、紙と共に持たせると、惟規は書いた。辞世の歌だ。

   都にも わびしき人の 数多(あまた)あれば なほこのたびは いかにとぞ思

   [ここで死ねば父上に看取ってもらえるけれど、都にも、僕が死んだら寂しがってくれる人が、たくさんいる。だから、今回はやっぱり生きて帰りたい。生きてこの旅を終えて、もう一度都に行こうと思う。]
 (「今昔物語集」巻三十一第二十八話)

  ここまで書いて、息が絶えた。惟規は歌の最後の文字、「思ふ」の「ふ」の字を書ききることができなかった。父は「「ふ」なんだろう、そうだろう」と言って、自ら弟の辞世に「ふ」の字を書き加えたという。

  惟規の遺筆を、父は形見としてずっと傍らに置いていた。出しては見て泣いて、ぼろぼろに破れて無くなるまで持っていたという。

この項、終わりです。

15-4.紫式部の育った環境 弟、 惟規(のぶのり) (紫式部ひとり語り)

2024-05-16 11:28:30 | 紫式部ひとり語り
15-4.紫式部の育った環境 弟、 惟規(のぶのり) (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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弟、 惟規(のぶのり) つづき

  都から東へほんのわずか下ったばかりの逢坂の関辺りで、もう都が恋しいとは、ふがいないところが惟規らしい。でも弟はきっと、歌枕を通ったのが嬉しくて、それを歌仲間に自慢したくてこの歌を詠んだのだと、私は思う。

  贈られた源為善は高名な歌人源信明(さねあきら)の孫で、時に歌壇でもてはやされていた源道済(みちなり)にとっても従兄弟にあたる人だ。道済らの一派はそれまでの宮廷歌人とは少し違い、日常生活よりも歌の世界のほうを重んじて、そこにのめり込むところがあるように感じられる。惟規もそうした風流歌人の一人を粋がっていたのかもしれない。

  だがそれはそれとして、今となれば私には、この為善が故源国盛の息子であることが、何かの因縁のように感じられてならない。国盛は長徳二年、除目で越前守に決定していたにもかかわらず、父が道長殿の肝いりで越前守となったために、その官をいわば奪われた形になった人だ。

  その後、播磨守に任ぜられたが、病を得て亡くなった。その人の息子と惟規がたまたま和歌の世界で出会い、気が合った。それだけではなく、父の任国である越後へ行く道中に、惟規が彼を恋しがり、挨拶を送った。これは何かの符合なのだろうか。それとも偶然なのだろうか。

  私がそのように思うのは、惟規が、こうして越後へ赴いたまま結局二度と都に戻らなかったからである。旅の間に重い病を得、越後へ辿り着くことはできたものの、その地で客死してしまったのだ。弟から逢坂の関の歌を受け取った為善は、返事を書いて越後へ送った。だがそれが届く頃には、惟規はもう返事が書けなくなっていた。

  為善は惟規に代わって父から、切々とした手紙を受け取ったという(「難後拾遺」)。かって父は、彼の父の国盛を、そのつもりは全くなかったとはいえ失意に追いやった人間だ。その挙句の国盛の死であったならば、父が国盛の死の原因を作ったと言われても否めない。その国盛の息子に、父は逆に息子を亡くして、失意の手紙を送ることになったのだ。

  だがそれは、少し季節が進んだ後のことだ。それ以前に私は、もう一つの大きなできごとに巻き込まれた。帝の代替わりである。

つづく

15-3.紫式部の育った環境 弟、 惟規(のぶのり) (紫式部ひとり語り)

2024-05-13 10:09:55 | 紫式部ひとり語り
15-3.紫式部の育った環境 弟、 惟規(のぶのり) (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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弟、 惟規(のぶのり) つづき

  そう案じていた矢先。何と惟規は唐突に職を辞し、散位になってしまった。二月一日の除目では父の為時に辞令が下り、越後守と決まった。惟規はその身を案じ、彼の地に下って側についていてやりたいというのだ。確かに父は老いている。前回の地方赴任は長徳二(996)年に越前守になった時で、それから数えても十五年の歳月が流れている。

  あの時は私も父と共に下向した。だが今度は、私は中宮様のもとで仕事を持つ身、下向することはできない。しかしだからといって、ようやく叙爵(じょしゃく)したばかりの惟規が行かなくてはならないものだろうか。今こそ自らの貴族人生に本腰を入れる時、都で仕事に励むのが当然だろう。親孝行は褒めてやりたいが、度が過ぎるのではないか。

  惟規のこうしたところは、たぶん父譲りなのだろうと、私は思う。父は矜持が高い割には地位に恋々としないところがある。高位の方に擦り寄り追従することも下手だ。 
  中宮様が二人目の御子をお産みになってすぐの正月だったろうか、初音の日(その月の最初の子 (ね) の日。特に、正月の最初の子の日)に帝の御前で催される管弦の演奏に、奏者として召されたにもかかわらず、なぜかさっさと家に帰ってしまった。

  あの時には私が父の代わりに道長殿からお𠮟りを受けた。「など、御てての、御前の御遊びに召しつるに、候はでいそぎまかでにける。ひがみたり (どうしてお前のお父さんは、帝御前での演奏会に呼んでやったのに、仕事もせずさっさと帰ってしまったのだ。偏屈だぞ)(「紫式部日記」寛弘七年正月二日)」。殿は父を偏屈だとおっしゃったが、私もそのとおりだと思う。そしてそんな偏屈者の血を、まさに惟規はうけているのだと思う。

  父が越後へと出発したのは、除目の後しばらく経た頃だった。惟規はそれには同道せず、少し間をおいて父を負った。すぐに里心がついたらしく、逢坂の関から都の歌仲間によこしてきた歌が伝わっている。

    父のもとに越後にまかりけるに、逢坂のほどより源為善朝臣のもとにつかはしける

   逢坂の 関うち越ゆる ほどもなく 今朝は都の 人ぞ恋しき

   [父のもとへと越後に下向した折、逢坂の関辺りから源為義朝臣に送った歌。

   逢坂の関を越えるやいなや、もう今朝は都人が恋しく思えてならないよ。]
   (「後拾遺和歌集」別466番)

つづく

15-2.紫式部の育った環境 弟、 惟規(のぶのり) (紫式部ひとり語り)

2024-05-11 13:36:30 | 紫式部ひとり語り
15-2.紫式部の育った環境 弟、 惟規(のぶのり) (紫式部ひとり語り)

山本淳子氏著作「紫式部ひとり語り」から抜粋再編集

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弟、 惟規(のぶのり) つづき

  肩書は男を恰好よく見せるものだ。惟規は六位蔵人になってから、私の気に食わない女と深い仲になり、手紙など交わし合っていた。賀茂の斎院に住む大斎院選子様のもとに仕える女房、斎院の中将だ。

  彼女が惟規によこした手紙を家の者がこっそり盗み出して私に見せてくれたことがあったが、実に鼻持ちならない内容だった。我こそは世の中で唯一ものの趣を理解する深い心の持ち主、誰とも比べ物にならぬ、すべて世の人は思慮の「思」も「慮」も無いとでも思っているようで、私は読みながら腹が立ってならなかった。
  おまけに自分の主人である選子様をほめちぎり、「素敵な和歌などは、わが院選子様以外にお分かりになる方など誰がいようか。世に素敵な女房が登場するとしたら、それを見抜けるのはわが院だけ」などという調子だ。

  なるほど選子様はご立派ですからそれももっともでしょうけれど、そんなに自慢する斎院女房集団の割には、あそこで詠まれた和歌に特に名歌らしきものもないのは、どうしたことでございましょうね(「紫式部日記」消息体)。

  惟規は彼女が住む斎院に夜な夜な通い、局(つぼね)にも潜り込んでいたようだ。ところがある夜、それを斎院の警備の者どもに見つかり、名前を聞かれても黙っていたのだまずかった。「怪しい奴」と門を閉められて、弟は外に出られなくなってしまった。  
  中将の君は途方に暮れ選子様にお願いして、ようやく惟規は解放されたのだという。その時惟規が詮子様にお礼を詠んだ歌が、世に流れて知られている。

   神垣は 木の丸殿に あらねども名乗りをせねば 人咎めけり
  神垣(神域を他と区別するための垣)

   [畏れ多くも神のまします斎院は、遥か昔にあの中大兄皇子が歌に詠んだ「木の丸殿」ではありませんか、名を聞かれても名乗らないとお咎めを受けるという点では、やはり同じだったのですね。]
   (「金葉和歌集」三奏本雑上540番)

  「木の丸殿」は、斉明天皇が朝鮮半島出兵で筑前国朝倉郡に滞在された、仮御所のことと伝えられている。急ごしらえなので、木材を丸太のまま組んで造ったのだろう。中大兄皇子は行幸に随行していた。

  そして、「朝倉や 木の丸殿に 我がをれば 名乗りをしつつ 行くは誰が子ぞ(朝倉の木の丸殿に私がいると、皆が次々名乗って通り過ぎてゆく、さて、どこの家の子たちかな)」と歌を詠まれたのだという(「新古今和歌集」雑歌中1686番 天智天皇御歌)。

  古代より、自分の名前を告げることは相手に従うことを意味した。戦地に向かう状況とあれば、なおのことである。弟はどこで仕入れたのかこの歌のことを知っていて、「あの話と一緒ですね」と、警備の指図に従わなかった自分を詫びたのだ。誰でも知っている歌ではないので、弟の博識は選子様をも驚かせたという(「今昔物語集」巻二十四第五十七話)。

  本当にあの子ときたら、こういう恋だの歌だのは一人前なのだが、五位ともなればもう、見かけ倒しの通用した六位蔵人とは訳が違う。これからは、位相当の仕事を着実にこなしてゆかなくてはならないのだ。いったいどうなることやら。

つづく