『日和下駄』の中に、「『大窪だより』に書いたのでここでは省略」と2・3回そのような記述があった。
それでついでに『大窪だより』を読もうと読み始めた。
この随筆らしき文章は、荷風さんが慶應義塾の教授として勤めていた時期の日記らしい。
否、日記と言うより候文で書かれた手紙形式になっている。
冒頭に、三田社中の友達へ「手紙の代わりにと日常の瑣事何くれとなく書留る事に致候」とあり、
この随筆は大正2年から3年の出来事を書き記している。
荷風さんの年譜を調べると、大正2年1月に父を亡くしている。その時、荷風さん34歳。
それで亡父とか父の形見などの表現があったのだ、と気づいた。
この『大窪だより』は『日和下駄』にも通ずるところはあるが、もしかしたら後年の『断腸亭日乗』に関連する部分があるかもしれない。
P238に「林園月令八月の件の中に(中略)斷腸始テ嬌ビ(省略)」と「断腸」の文字が並ぶ。
これは何を意味するのか? 或いは何の関係もないのか?
一般には、腸を病んでいたので、断腸亭とつけたと言われているが、
『断腸亭日乗』が書かれる3年前に「断腸」とあり、この記述と何か因果関係があるのでは、と深読みしてしまう。
いつ頃から「断腸亭」と号したのか、名乗ったかを知りたくなった。
まだ半分程度しか読んでいないが、美文・名文と感じる箇所がいくつもある。
つい読んでみたくなる作品だ。
追記
最後まで読んだ。
荷風研究や、論文で荷風を取り上げるのであれば、読んでおきたい作品である。
6月13日、最後の記述で、「大窪多與里これにて一先切上げ次號よりは又別案の六號文字掲載致すべき心組に御座候」と結んでいる。
次に続くのが『日和下駄』なのだ。
荷風さんの随筆は、結構面白い。『紅茶の後』もなかなか面白い。その頃の心境がよく表されている。