粟屋活輔さんが明治17年に家塾「如不及堂」を開いたと、山陽町史に記述されています。
「如不及堂」の言葉の意味は、町史には記されていません。
塾名の「如不及堂」を不思議に思ったので、
どんな意味があるのか、自分なりに考察しました。
学生時代、教科書として使用した「論語集註」を詳細に見ていました。
出典は、きっと論語か中国の古典ではないかと推測していたので。
すると、ありました!
『泰伯第八の17』
「子曰。學如不及。猶恐失之。」
以下、注釈は漢字で説明されています。
書き下し文にすると、
子日く。學は及ばざるが如く。猶これを失わんことを恐る。
と、なるのでしょうか。
ネット検索していたら、有難いことにこんなページに出会いました!
こちら です。
粟屋活輔さんが
塾名を『如不及堂』としたのは、
塾生たちに、学問の奥深さを、学問を一心に努めなさい、
と言いたかったのではないでしょうか。
粟屋さんのお気持ちが忖度できた気がしました!
「如不及堂」の言葉の意味は、町史には記されていません。
塾名の「如不及堂」を不思議に思ったので、
どんな意味があるのか、自分なりに考察しました。
学生時代、教科書として使用した「論語集註」を詳細に見ていました。
出典は、きっと論語か中国の古典ではないかと推測していたので。
すると、ありました!
『泰伯第八の17』
「子曰。學如不及。猶恐失之。」
以下、注釈は漢字で説明されています。
書き下し文にすると、
子日く。學は及ばざるが如く。猶これを失わんことを恐る。
と、なるのでしょうか。
ネット検索していたら、有難いことにこんなページに出会いました!
こちら です。
粟屋活輔さんが
塾名を『如不及堂』としたのは、
塾生たちに、学問の奥深さを、学問を一心に努めなさい、
と言いたかったのではないでしょうか。
粟屋さんのお気持ちが忖度できた気がしました!