海と空

天は高く、海は深し

8月4日(日)のつぶやき その1、#歴史と教訓、#哲学と歴史

2013年08月05日 | Myenzklo

bb】反省的な歴史の第二種は、実用的歴史(die pragmatische Geschichte)である。我々が過去を問題にし、遠く離れた世界を研究する場合、精神に対して一つの現在が現われてくる。この現在は、精神が自分の努力の褒賞として、精神自身の活動によって獲得したものである。


それぞれの出来事はいろいろに異なっているが、そこに内在する普遍的なものと内的なもの、すなわち連関は一つである。そしてこれが過去を止揚し、出来事を現在のものとする。実用的反省はそれがどんなに抽象的であっても、実際は現在的なものであって、過去の物語に今日の生命を吹き込むものである。a


ところでこの種の反省が真実、興味のあるものであり、生気を吹き込むものであるかどうかということは、ひとえに作者自身の精神によるものである。だが、ここでは特に道徳的反省と、歴史を通じて獲得されるところの道徳的教訓とについて述べておかなければならない。実際、歴史はしばしば道徳的教訓のb


ために編纂されたのであった。しかし、善人が心情を高めること、また児童の道徳的教育に当たって立派なことを児童の頭に染み込ませておくために、善人の例を用いるべきだということは言いうるとしても、民族や国家の運命、それらの利害、それらの状態や葛藤などは道徳とは領分がちがうのである。c


人々は君主、政治家、民衆に向って、歴史の教訓から汲むべきだと説く。けれども経験と歴史の教えるところこそまさに、人民や政府がかって歴史から何ものをも学ばなかったということであり、また歴史から引っ張り出されるような教訓にしたがって行動したこともなかったというそのことなのである。d


各時代はそれぞれ特有の境遇を有し、それぞれ極めて個性的な状態にあるものであるから、各状態の中で各状態そのものによって決定されなければならないものであり、またそうしてのみ決定され得るものである。世界のいろいろな出来事の雑踏の下では、一般原則もいろいろな類似の関係への回想も


各時代はそれぞれ特有の境遇を有し、それぞれ極めて個性的な状態にあるものであるから、各状態の中で各状態そのものによって決定されなければならないものであり、またそうしてのみ決定され得るものである。世界のいろいろな出来事の雑踏の下では、一般原則もいろいろな類似の関係への回想もe


何の役にも立たない。なぜなら色褪せた回想などといったものは、現在の生命と自由に対しては何の力も持たないからである。この点から見ると、革命時代にフランス人の間でしきりに云われたところのあの合い言葉のように、ギリシャやローマの例を引き合いに出すことほど皮相なものはない。f


なぜならそれらの古代民族の本性と我々の時代の本性とほどに相違するものはないからである。ヨハンネス・ミュラーはその一般史においても、スイス史においても、君主、政府、および人民に対して、とくにスイス国民に対して、このような教訓を与えようという道徳的な企図を持っていたが、g


それが彼のやった仕事の中の最良のものに数えることは出来ない。これらの反省に真理を付与し、関心を起こさせるようにする所以は、それぞれの状況についての根本的で、自由な、視野の広い眼と、理念(イデー)についての深い感覚(例えばモンテスキューの「法の精神」におけるような)とだけである。h


だから、一つの反省的な歴史が他の反省的歴史に取って代わられることにもなる。史料はどの歴史家にも自由に解放されているから、各自はそれを整理し、構成する能力があると信じ、自分の精神を時代の精神として主張することになりやすい。そこで人々はそんな反省的歴史に嫌気がさして、i


あらゆる観点から書き直された出来事の原像へと帰って行くことになる。確かにこの種の歴史にも相当の価値はあるが、それはたいてい史料を提供するというにとどまる。我々ドイツ人はそれで満足している。これに反してフランス人は手際よく一個の現在を創り上げ、過去を現在の状態に関係づける。s 29


cc)批判的歴史
反省的歴史の第三種は批判的歴史(die kritische Geschichte)である。これはとくに現在のドイツで行われている歴史のやり方であるから、一言触れておく必要がある。この批判的歴史において講じられるものは、歴史そのものではなくて、歴史の歴史であり、a


歴史的叙述の評価であり、その真理と確実さとの吟味である。この場合、批判的歴史がもちまた殊にそれが持つべき特色は、それぞれの物語を評価するところの著者の炯眼にあるのであって、事柄そのものの中にあるのではない。だが我々ドイツ人の間では、いわゆる高等批評なるものが文芸学一般のみならずb


歴史書をも支配してしまった。すると今度は、この高等批評は勝手な想像力のやるどんな非歴史的な妄想をも許さざるを得なくなった。それは歴史的事実の代わりに主観的な思いつきを入れることによって歴史の中に現在を見出すという、歴史の中に現在を持ち込むというやり方、とは別の行き方である。c


dd)専門的歴史
反省的歴史の最後の種類は、専門史(die Spezialgeschichte)
といわれているものである。確かに、この歴史も抽象的ではあるが、しかし、一般的な観点(例えば芸術史、法律史、宗教史など)を取っている点において、哲学的世界史への橋渡しとなっている。a


現代では、概念史のこの面が却って発達し、重きを置かれるようになってきた。このような各部門(憲法の歴史、科学の歴史、所有権の歴史、航海の歴史など)は、その民族史の全体に関係をもつものである。その場合に大切なことは、その各部門の中に全体への連関が見られるか、b


それとも、全体の連関が内的ではなく、単に外的に並列されるものに過ぎないか、という点にある。後の場合には、各部門は諸々の民族のまったくに偶然的な個別性という形を取る。しかし、反省的な歴史が一般的な観点を追求するようになるとき、そこで注意すべきは、そうした一般的な観点が c


本物である限り、それは単に外的な導きの糸で、つまり、偶然的な秩序であるに留まらず、むしろ、諸々の出来事と行為との内的な指導的精神そのものであるということである。というのも、理念(イデー)は魂の指導者、神話のマーキュリーの神のように、真に民族と世界との指導者であって、この指導者のd


理性的で必然的な意志、すなわち精神こそ、これまで世界を導いてきた当のものであるとともに、また現に導いているものだからである。そして、この歴史における指導的な精神を認識することが、今や我々の目的である。(ibid s 30 )


(C)哲学的歴史、歴史哲学
ここに歴史の第三種が、すなわち哲学的歴史が登場する。先の二種の歴史(資料的歴史と反省的歴史)はその概念が自明であるから、とくに説明する必要もなかったが、この最後の哲学的歴史についてはちがう。といっても一般的に言うなら、歴史哲学とは、歴史の思考的考察をa


意味するに他ならない、と言うことに尽きる。元来我々は思考をお座なりにすることはできない。この点でこそ我々が動物と区別されるのであり、感覚の中であれ、知識と認識の中であれ、衝動や意思の中であれ、それが人間のものである以上は、それらの中には「思考」がある。b


確かに、ここで思考を引き合いに出すのは、奇妙で不審に思われるかもしれない。と言うのも次の理由に拠るのである。つまり、歴史においては思考は所与の事実と存在物に従属するものであり、思考はそれらを自己の根底とし、それらによって導かれるものだからである。それに反して、哲学の根本をなすのは


存在物を顧慮することなく、思弁が自分で作り出すような独自の思想だからである。だから、もし哲学がこのような思想を携えて歴史に向うことになれば、哲学は歴史を材料のように取扱い、歴史を在るがままにしておかないで、むしろ歴史を思想に合うように案配し、いわゆるアプリオリに歴史を


構成するということになるだろう。そもそも歴史は現にあるもの、また過去にあったもの、つまり、諸々の出来事と行為を、ただあるがままに把握すべきものであって、事実に即すれば即するほど、それだけ真実でありうるのだから、哲学の仕事というものは歴史の研究とは矛盾するようなものとも思われる。


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8月3日(土)のつぶやき

2013年08月04日 | Myenzklo

(aa)一般史
ここでは一般に、一民族または一国、または世界の全歴史の概観、要するに我々が一般史(allgemeine...


長い時代または世界史全体を概観しようとするこの種の歴史(一般史)は実際は現実的なものの個々の叙述を断念し、抽象によって短縮を行わなければならない。それは単に諸々の出来事や行為が切り捨てられるべきだという意味からだけではなく、むしろ思考こそがもっとも有力な「摘要の編纂者」だというa


別の意味においてである。戦闘、大勝利、包囲などはもはやあったままのものではなくて、単純な諸規定に要約される。リビィウスがヴォルスキ人との戦争について物語る場合、彼は往々にして至極あっさりと、例えば「この年にはヴォルスキ人との戦争が行われた」と片づけている。(ibid s  27)


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8月2日(金)のTW:歴史考察の種類

2013年08月03日 | Myenzklo

この講義の対象は哲学的世界史である。私たちは世界史から様々な認識を引き出したり、また世界史を例証に挙げて、その世界観を様々に説明しようとするのだが、この哲学的世界史の対象とするのはそんなものではなく、むしろ世界史そのものである。この哲学的世界史がどういうものであるかを a


明らかにするためには、他の歴史のやり方がどのようなものであるかを検討することが有効である。それによって「哲学的世界史」の特質が明らかになる。(歴史哲学上s21)


一、歴史考察の種類
一般に歴史考察には次の三種類がある。
a、資料的歴史。
b、反省的歴史。
c、哲学的歴史(歴史哲学)。(ibid s 22 )


これらの歴史家の記述は、自分で現に視、また自分自身も一役買った皇位、事件、情勢に限られている。彼らは自分の回りに起きたことを精神的な観念、表象の国に移し入れた人々である。外的な現象はこうして内的な観念の中に移される。詩人もまた、その感覚でとらえた材料を観念上のものに作り上げる。a


歴史家はこの儚く過ぎ去ってゆく材料を結び合わせて、この記憶の殿堂の中に安置し、それを不滅のものとするのである。しかし物語、民謡、伝記はこのような根本的な歴史からは除かれなければならない。なぜなら、それらは未だ混沌としたもので、その点で未だ未開民族の観念に属するものだからである。b


これに反して、我々がここに問題にするのは、自分の存在、自己のしようとしたことについて自覚を持った民族である。現実の地盤というのは、あの物語や民謡の育った儚い地盤よりもはるかに基盤のしっかりしたものである。だから、これらの物語や民謡はもはや確固とした個性にまで成長している民族の c


歴史的資料とされることはない。ただ、このような資料的な歴史家は、彼らの前に現存する事件、行為、情勢などを観念の作品に創り替えるのである。だから、この種の歴史の内容は広範囲にわたることは出来ない。それらの歴史家の周囲に転がっているもの、生々しいものがその当の資料である。d(s23)


つまり、作者の教養文化と、その作者がそれを作品に創り上げる事件の文化とは全く同一のものである。作者は多少でも自分が一緒にやったこと、少なくとも体験したことを記述する。それは短い期間であり、人間と事件とについての個人的な型態である。a


彼が描く絵それぞれの像は反省の加わっていないままのものである。それは彼が現に自分の眼で視、または自分の前に現にある生々しい物語にあるのと同じ明瞭さで、原像を後世の人々に伝えるためである。彼は事件の精神の中に生きており、未だその事件を乗り越えるところまで行っていないのだから、b


反省を加えることはしないのである。のみならず、作者がカエサルのように、自ら将軍または政治家の立場にある場合には、彼自身の目的こそ、すなわち歴史的目的として登場する当のものに他ならない。・・・けれども話というのは人間相互間の行為であり、それも極めて本質的な影響力をもつ行為である。c


・・だが民族の民族に対してやる談話、あるいは民族や君主に対して行う談話または演説は、歴史の重要な要素をなすものである。・・・これらの人々はこの演説の中で、彼らの民族の基本的な性格、彼ら自身の人格の根本、彼らの政治的関係に対する見解、ならびに彼らの人倫的な、d


また精神的な本性に関する意識、彼らの諸々の目的や行動や原則を言い現わしているのである。したがって歴史家が彼らの口を通して語らせているところのものは仮構の意識ではなくて、語っているその人の本音なのである。我々がどれかの国民と共に生き、その国民の中に深く這い入り込みたいとする場合、e


その歴史家に傾倒して、その歴史家に拠るしかないといった歴史家、あるいは単に博識ではなくて、深く純真な愉悦を求めることのできるような歴史家というものは、それほど多いものではない。歴史の父、すなわち歴史の創始者であるヘロドトスとタキディデュスとの名前はすでに挙げた。f


カエサルの『ガリア戦記』は偉大な精神の書いた簡潔な傑作である。古代においてはこれらの歴史家は必ず偉大な軍人または政治家であった。中世においては、国政の中心に立っていた司教などを除けば、修道僧が素朴な年代記作者としてこれに入るが、g


彼らは古代の歴史家が公共の舞台に立っていたのと対照的に全く孤独の中に留まっていた。近世になると事情は全く一変する。我々の文化の性格は本来的に解釈的であるから、総ての出来事をすぐに観念相手の報告書の形に変える。これらの報告書の中にもなかなか優れた簡潔なちゃんとしたものもある。h


特に戦争に関するものにはカエサルのそれに匹敵しうるのみでなく、内容の豊富さと、軍備や情勢についての記述の点ではずっとよいものもある。フランス人のメモアールもこの種の報告書のなかに入る。・・この種の人々は元来高い地位の人でなければならない。高所に立つ場合にのみ物事を正しく i


展望することができ、物事を良く見極めることができるのであって、低いところから狭い窓を通してのぞき見るようでは、そうはいかないのである。(ibid s 25 )


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7月3日(水)のTW:#「政権と教権との抗争の結果」

2013年07月04日 | Myenzklo

〔c、政権と教権との抗争の結果〕一方ではドイツ皇帝がイタリアにおいて神聖ローマ皇帝の称号を自分のものにしようとしたが、他方イタリアの政治の中心はドイツにあった。これら二つの国は繋がりあっていたが、決して一つになることはできなかった。ホーエンシュタウフェン家の盛時には、


フリードリッヒ・バルバロッサ Friedlich ・Barbarossa のような英傑が王位の威厳を保っていた。皇帝の権力は彼によって輝かしい光を放った。彼はその人格によって臣下の諸侯を心服させることができた。しかし、ホーエンシュタウフェン家の歴史がどんなに輝かしいものであっても


その歴史は結局のところ、この王家とドイツ帝国との悲劇に終わり、また教会との争いも精神的には何ら偉大な成果をも挙げることなく終わった。確かに、各都市は皇帝の権威の承認を強いられ、都市の代表者たちはロンカリア会議の決議の遵法を誓った。しかし、彼らがそれを守ったのも、


彼らに圧力が掛けられていた間だけだった。その義務はただ剥き出しの圧力によるものだった。話によると、皇帝フリードリッヒ1世(バルバロッサ)が都市の代表者に、君らは平和条約に誓いを立てたではないかと詰問したとき、彼らは「確かに、しかし我々はこれに遵うことを誓ったわけではない」と


答えたとのことである。その結果として、コストニッツの平和会議(1183年)においてフリードリッヒ1世は、彼らにドイツ帝国に対する臣下の義務だけは破らないという条項を認めさせることはできたが、都市住民たちに相当の独立を認めなければならなかった。――皇帝と法王との間の叙任権争いは、


1122年にハインリヒ5世(HeinrichⅤ)と法王カリクストス2世(CalixtusⅡ)との間に次のような妥協が成立した。すなわち、叙任については皇帝に王笏を、法王は指輪と法杖を持つことになったのである。また、司教の選挙には皇帝または皇帝の使節の臨席のもとに司教評議会の手で


行われることとなった。そしてまた、皇帝は司教を期限付きの世俗の封建領主に任命するが、僧籍上の位階の叙任については法王の手でこれを行った。こうして世俗の王と聖界の法王との長い間の抗争は終決したのである。(ibid s 236 )


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7月2日(火)のTW:#「教権と政権との矛盾」

2013年07月03日 | Myenzklo

この教会的権力そのものが今では世俗的権力になっていたが、ローマ皇帝がキリスト教世界の元首であること、すなわち、dominium mundi 〔世界の主権〕を握っているということ、したがってすべてのキリスト教の諸国家はローマ帝国に属するものであるから、正当で妥当な要求である以上、a


諸侯はみなローマ皇帝に服従すべきであるということは理論上も争う余地はなかった。歴代の皇帝も誰もこの権威に疑いを差し挟むようなことをしなかったが、だからといって、皇帝らも自らこの権威を振り回すほどに愚かでもなかった。そのれほど権威の実体は空しいものとなっていた。b


それでも、このローマ皇帝という虚名も彼らにとっては未だ、その権力を傾倒して、それもイタリアに出向いて行って獲得し名乗るだけの価値のあるものには思われた。特にdie Ottonen オットー諸帝は古代ローマ帝権の後継者として自覚していたから、ドイツの諸侯を糾合して、c


幾度となくローマ遠征を企てた。しかし、しばしば敗北して恥を忍んで退却しなければならなかったし、一方では、都市の賤民政治と豪族たちの横暴な統治からの救済をドイツ皇帝に期待していたイタリア人も、失望を味わうことになった。ドイツ皇帝をイタリアに誘い入れ、d


皇帝に援助を誓ったイタリアの諸侯もふたたび皇帝を見捨てたし、祖国の救済を先に期待した人達もやがては、自分たちの麗しい山河がゲルマンの野蛮人たちに荒らされ、自分たちのすぐれた風習が踏みにじられてしまったと罵り、自分たちの権利と自由も、皇帝が裏切ったからには総て失ってしまうと言ってe


非難を浴びせるように成った。なかでもダンテDanteが皇帝に加えた苦情と非難は感動的であり深く人の心を打つ。(ibid s 234 )※ヘーゲルの生きた時代からすでに200年を経過しようとしている。その間に二つの世界大戦があり、欧州は今では政治的統合を深めて、


彼の生きた時代と大きく様変わりしている。この歴史講義に見るように、彼の生きた時代には未だ神聖ローマ帝国の時代の刻印が全ヨーロッパに深く残されていた時代であり、それが彼の生きた「現代史」であった。私たちの生きる現代史は、欧州は世界史の舞台から一歩退き、一方で、20世紀において


ソビエト連邦との冷戦に勝利して、世界的な覇権を恣にしてきたアメリカ帝国にも、ベトナム戦争、イラク戦争、対テロ戦争を通じてようやく翳りが生じ、それを補うかのように、中華帝国が世界史の舞台に再登場して、退潮し始めたアメリカに代わって西太平洋を我がものとすべく食指を動かしはじめた。


そうした中華帝国にとって最大の障害になっているのは、ユーラシア大陸の周縁に中華を取り囲む塹壕のように位置する日本である。共産中華帝国はこの障害を取除くことなくしては太平洋に進出できず、アメリカ帝国と世界の覇権を分け合うことも出来ない。共産中華帝国にとっては21世紀はこうして、


ふたたび中華の覇権行使に最大の鬼門である日本をいかにして処分するか、が課題になる。共産中華帝国はかっての元寇の時代のように、高麗朝鮮を先兵に日本の攻略をたくらんでいる。かくして13世紀後半の鎌倉時代に起きた「元寇」の歴史がふたたび繰り返される。現在の尖閣諸島への


中国海鑑船の領海侵犯がその端初である。習 近平の専制君主国家中華にとっては、かってそうであったように今もなお日本は鬼門である。元寇で国力を消耗した元朝がやがて日本との抗争に破れ、元朝が国内の腐敗と堕落によって崩壊したように、共産中華帝国も、自壊の宿命を辿るのかもしれない。


それは未来の歴史に属する。
〔b、この抗争の含む矛盾――法王権に対するホーエンシュタウフェン家の抗争〕このドイツのイタリアに対する第一の関係と時代を同じくしたのは、偉大なシュワーベン人であるホーエンシュタウフェン家(die Hohenstaufen)によって戦われた


イタリアに対する戦争である。それはすでに独立したものとなった教会の世俗的権力を、ふたたび国家の支配下に置こうとするものであった。法王の椅子も今や一つの世俗的権力であり、世俗的支配権にすぎなかった。だから皇帝は法王の選挙権と世俗的支配権への介入に対して、a


自分にはもう一つの高い権利があると主張した。これまでの皇帝たちが戦ったのも、この国家の権力のためであった。しかし、彼らは法王の持つ世俗的権力を宗教的権力とも見なし混同して、他方でこれに屈服していた。したがってこの戦いは永久の矛盾でもあった。ちょうど仲裁人の登場する復讐劇のようにb


仲裁人そのものが敵になった。だから復讐劇はいつまでも終わらなかったのである。皇帝が法王と戦うための武器であった権力、それは皇帝の臣下である諸侯であったが、この諸侯は皇帝の敵である法王にも二股を掛けていた。それに諸侯の第一の関心は国家からの独立という野心であったから、c


皇帝が諸侯に味方して都市市民に対抗してくれるという特別の利益がある限り皇帝に味方したが、教会の世俗権力が権威をのさばらせたり、皇帝が諸侯に対して自らの権威を主張するような場合は、この諸侯たちは皇帝を見限ったからである。 d(ibid s 235 )


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7月1日(月)のTW:#「教権と政権との抗争」

2013年07月02日 | Myenzklo

主は輸出入品にことごとく高い関税を課し、道路通行の安全保障の代金として通行税を課した。ところがやがて、これらの自治体が強力になるに連れて、自治体はこれらの一切の権利を領主から買い取るか、あるいは強引に奪い取った。都市はこうして自分の裁判権を手に入れ、また租税、関税その他の


課税から解放された。しかし、皇帝や地方の諸侯のために接遇のための費用を負担するという制度は長く続いた。商工業者たちは様々に異なる権利義務を持つ同業組合に分かれていった。また司教選挙の際にはそうして組織された様々な党派が諸権利を獲得するのに役だった。しかし後には市民と教会の間に、


つまり司教や修道院長との間に多くの争いが起きた。いくつかの都市では僧侶が主権を握り、他の都市では市民が主権者となって自由を獲得した。ケルンでは司教の支配から解放されたが、マインツでは未だ司教の支配を受けていた。しかし多くの都市は次第にその勢力を増して、ついには自由共和国となった。


こうしてこれらの都市は貴族に対して独自の関係に立つことになった。貴族たちははじめは都市の団体に加入し、例えばベルンの場合のように自分たちも組合に入っていた。そうして貴族たちはこれらの都市のなかで特権を主張し、その支配権を握ることになった。これに対し市民たちはそれに反抗して


統治を自分たちの手中にしてしまった。今では富裕な市民たちが貴族たちを押しのけてそれに代わった。しかし貴族の間にも党派の分裂があり、特に皇帝に属するギベリン党と法王に味方するグェルフ党との分裂があったように市民の間にも分裂が起きた。勝利を得た党派は破れた党を政権から追い出した。


また門閥貴族に対して現われた都市貴族も一般民衆の参政権を奪ったし、民衆の福祉を考えることの無かった点では本来の貴族と何ら変わらなかった。都市の歴史は政権を担った党派が市民のどの部分を代表しているかによって、政治組織の絶え間ない変更の歴史となった。


はじめの間は市民からなる委員会が市の役人を選挙したが、このやり方では選挙に勝った方の勢力が強大であったから、不偏不党の役人人事を実現するためには他の土地の者を裁判官や行政官に選ぶしかなかった。時には他国の諸侯を市の主権者に選んでこれに統治権を託するということもあった。


しかしこうした制度も長くは続かなかった。それらの諸侯はやがてその主権を自己の野望や情欲の満足のために乱用し、またその権力何年も経たないうちにも剥奪されてしまう。このように都市の歴史は、一方では悪らつな人物や実に公明正大な人物が入れ替わり立ち替わり現われて、尽きない興味を与えるが、


他方ではあまりにも定石通りの年代記にも成りすぎて退屈な面もある。こうして都市にはその内部にそうした不安と転変萬化の波乱があり、党派の間に抗争がありながら、他方では産業と海洋貿易の隆盛を見るとき、我々は驚かざるをえない。ここにあるものは実に、


ともに同じ一つの生き生きとした生命の原理であり、こうした内部の争乱に揉まれ養われてこそ、都市のそうした繁栄も外に現れ来るのである。
(ibid s 233 )


〔7、教権と政権との抗争〕a、教会と都市とに対する諸侯の抗争―神聖ローマ帝国:今我々はすべての国々の上にその権力を拡した教会と、合法的な組織をようやく手に入れはじめたばかりの都市とを、諸侯と豪族に対する反動勢力と見た。そして今度は、この二つの新興勢力に対して諸侯の反抗が起きた。


すなわち、皇帝が法王と都市との闘いに参戦するようになったのである。皇帝はキリスト教世界の元首ということになっていたが、それに対して法王は教会的権力の元首と見られていた。(ibid s233 )


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6月29日(土)のTW:「自由財産の原理」

2013年06月30日 | Myenzklo

その耕地の点で互いに密接な関係を持つようになった人々は手を結んで一種の団結、すなわち、連合または同盟を結成した。b(ibid s 230 )第二次世界大戦の終結。ナチスドイツの滅亡と大日本帝国の敗北。ソ連邦の崩壊と冷戦の終決。社会主義政権倒壊の根本要因。中華人民共和国の台頭。


彼らは団結して、前にはただ領主のために果たしていたに過ぎなかったものを自分のものとし、また自分でやることにした。その最初の共同事業は鐘を吊した塔を建てることであった。鐘が鳴ると皆は集らなければならない。こうした団結の目的は一種の民兵を作ることにあった。それに続いて、c


参議員、陪審員、市会議員などからなる自治体が設けられた。また、共同金庫の設置、租税、関税などの徴収も行われた。また共同の防衛手段として堀や城壁が造られた。しかし個人が自分のために特別な防塞を作ることは禁じられた。このような自治体は商工業の方が向いていて農業とは異なっていた。d


そうしてやがて商工業者は農民よりも優越する地位を占めるようになった。それは農民たちが強制的に労働をやらされたのに対して、商工業者らは自分自身から活動し、自分自身から進んで努力するものであり、自分の労働の結果に自分の利害が掛かっていたからである。c


それまでは商工業者らも、その生産品を売って利益を得ようとする場合には領主の許可を得なければならなかったが、彼らはこの市場の自由を得たことの代償として、領主に一定額を納入しなければならなかった。また領主はその他に彼ら商工業者らの収益の一部を徴収した。d(ibid s231 )


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6月27日(木)のTW:「都市の勃興」

2013年06月28日 | Myenzklo

イタリア、イスパニア、フランドルの沿海都市では活発な海上交通が営まれ、その関係からそれらの地に商工業が盛んに勃興した。学問もだんだんに復興し始めた。スコラ哲学が盛んになり、ボロニアその他の地に法律学校が設けられ、医学校も建てられた。これらすべてのものの創設の基礎となり、a


その主たる条件になっているものは都市の勃興とその意義の増大である。これらは最近になって史学に特愛のテーマとなっている。この都市の勃興には当時の切実な要求があった。すなわち、多くの都市は教会と同じく、封建制度による圧迫に対する反動として、はじめて合法的に組織された権力として b


立ち現われたのである。権力者たちが他の者らをして権力者たちの下に保護を求めざるをえないように立ち至らしめた事情については先に述べておいた。こうした保護の中心になったものが城郭(都市Burg)であり、教会であり、修道院であった。保護を求める人々はこれらを中心にして集まり、c


彼らもいまや市民(Brüger)となって、城主または修道院に対して庇護民の関係に立つことになった。こうして各所に固い団結が生まれた。イタリア、南フランス、ライン河沿岸のドイツにはローマ時代の昔からすでに多くの都市や城塞(Kastell)が建設されていた。それらははじめの間こそ d


自治権を持っていたが、後になって代官の下に置かれてそれを失った。要するに、都市の住民も地方民と同じく隷民と化した。(ibid s 230 )
c、自由財産の原理――帝国都市、自由都市の発達:
この保護関係の中から、今や自由財産の原理が生まれてきた。a


言い換えれば、この不自由の中から自由が生まれたのである。門閥(Dynasten)または門閥領主(adelige Herren)も本当は自由な所有というものは持たなかった。彼らはその臣下に対してはあらゆる権力を持ってはいたが、しかし彼らまた同じく自身よりも上の者、もう一つ上の b


権力者に対しては臣下であり、それに対して多くの義務を負っていた。>>古代ゲルマン人は自由財産の他は知らなかったが、この自由財産の原理はまったく不自由の原理に転倒してしまっていた。だが、それが今になってようやく自由の精神が微かながらも、次第に目覚めはじめて来たのである。a


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6月26日(水)のTW:#〔6、都市〕

2013年06月27日 | Myenzklo

しかし、その真の意味を理解し、それに正当な位置づけを与えうるのはただ哲学があるだけである。というのも、これも一つの必然的な過程だからである。それは、神聖なものについての意識がまだ幼稚で素朴である場合には、どうしても一度はその意識の中に現れて来なければならない必然的な対立である。


精神がまだ自分の現在の姿を深く捉えることが出来ておらず、真理に対して精神が未熟な態度しか取り得ないような場合には、その真理が深いものであればあるほど、精神はその段階においては、自分自身が疎外された、背馳したものとして現れる。しかし、この疎外された型態を経ることによってはじめて、


精神は真実の宥和に至りうるのである。
(ibid s 228 )


〔6、都市〕a、序―世俗界の躍進と免罪符:我々は教会を現存の世界に対する精神の反動と見た。しかし、この反動はその相手を屈服させるだけで、これを改革しようとするものではなかった。そして精神的なもの(キリスト教)はそれ自身の内容の転倒という原理によって権力を獲得することになったが、


一方の世俗的権力もまた自分を強固なものに作り上げて、封建制度という組織的なものにまで発達してゆくことになる。人間はそこで孤立とともに個人的な力量と権力に頼むこととなった。そのために人間がこの世に占めるどのような土地も活力に充ち満ちたものとなった。個人はまだ法律によって保護される


ものではなく、ただ自己の努力に頼るしかなかった。そうして一般に活気が生じ、勤勉と努力の気風が生まれることになる。しかもその一方で、人間は教会を通じて永遠の祝福が保障せられのだが、そのためにはただ精神的に教会に服従さえすればよかったのである。だから世俗的な享楽に対する欲望が、


精神的な救済の障害にさえならなければ、その享楽への欲求が益々激しくならざるをえない。それに教会はどんなに勝手な振る舞いにも、どんなに非道な罪悪に対しても、求めに応じて免罪符を売ってくれたのであるから。b、都市の勃興:十一世紀から十三世紀にかけて一つの衝動が起こり、それが様々な


形で現われた。教団は広大な寺院を、教団の人々を全部を収容するに足る会堂を建造し始めた。いつでも建築は最初の芸術であって、それは先ず神の住居という非有機的な境界を造る。その後にはじめて芸術は教団の対象である神そのものを表現するという仕事に取り掛かる。(ibid s329 )


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6月25日(火)のTW:〔5、中世国家の矛盾〕

2013年06月26日 | Myenzklo

〔5、中世国家の矛盾〕a、帝権の矛盾:教会の味方となり、教会の世俗における片腕になった帝権については、教会の世俗化として明らかにした。しかし、この帝国権力もその中に矛盾を抱えている。それはこの帝権がもはや空虚な尊称にすぎず、皇帝自身にとっても、a


また皇帝を利用して自分の野心を遂げようとしている者にとっても、もはや本気になって相手にされるものではなくなっているという矛盾である。というのも、今や野心や暴力が一本立ちしており、もはや単なる普遍にすぎないような観念(帝国)によって押込められることもなくなっているからである。b


b、忠誠の矛盾:第二にまた、中世国家の要であるところの忠誠(Treue)と呼ばれるものが、心情の浮薄に魂を売り渡してしまって、もはや客観的な義務などというものを一向に承認しないようになってしまったことである。そのために、この忠誠こそがもっとも不忠なものとなってしまったことである。


中世期におけるドイツ人の誠実(Ehrlichkeit)は諺にまでなっている。しかし、これも歴史にてらしてよく調べると、本当はカルタゴ人やギリシャ人の忠誠と同じものだったと言わねばならない。というのも、諸侯も皇帝の臣下も、ただ自分の我欲、


自分の利益と野心にのみ忠誠であり誠実だったからである。国家とか皇帝とかに対しては全く不忠であった。それは、忠誠そのもの中には彼らの主観や気まぐれに対する考慮はあるが、国家はまだ忠誠を基礎に人倫全体として組織されてはいなかったからである。
c、個人の矛盾:第三の矛盾は個人自身の中に


潜む矛盾である。すなわち、個人は一方では敬虔であり、極めて麗しい熱心な信仰を持つが、しかしその他面において粗野な意志と知性をもつという矛盾である。普遍的真理に関する知識もあるが、それにも拘わらず、世俗においても、教会のいずれにおいても甚だ粗野な観念が見られる。


荒々しい情欲の狂騒乱舞が見られる一方で、一切の地上的なものを断念して、一身を聖なるもののに捧げ尽くすキリスト教的神聖も存在した。中世というものはこれほどに矛盾に充ちたものであり欺瞞の巣窟だった。それにもかかわらず、今日において中世を卓越したものと見る者の存在するのは奇怪である。


剥き出しの野蛮、山猿の不作法、幼稚な空想などを見ると腹が立つよりもむしろ、却って哀れみを催す。(ibid s228 )


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6月24日(月)のTW:【中世教会が含む三つの矛盾】

2013年06月25日 | Myenzklo

【中世教会が含む三つの矛盾】1)主観的精神の矛盾「主観的精神は絶対者の証をするものであるが、同時にそれは有限で現実的な精神でもあり、知性と意志とに分かれて現れる。精神の有限性はこの知性と意志の区別に踏み込むところから始まり、またそこに矛盾と疎外の現象が現れる。a


というのも、ここでは知性と意志が真理によって貫かれているものではなく、真理はこれら両者にとっては単に与えられてあるものだからである。絶対的内容の外面的な性格は、その絶対的な内容が感性的で外的なものとしてある、という意識になって現れる。日常的な外的存在物が同時に絶対者として現れ、b


また、そう見られなければならないことが絶対的な要求として中世期の精神に課せられたことである。2)僧侶の矛盾:矛盾のもう一つの型態は、教会そのものの中の関係にある。真の精神は人間の中にあるものであり、人間の精神である。個人は礼拝によってこの絶対者との同一性の確証を得るのであって、c


教会はただこの礼拝の教師であり、指導者であるという役目を受持つに過ぎない。ところが中世においては、インドのバラモンと同じく、僧侶階級が真理の保有者となる。真理は学問、教養、修行によって得られるものであるが、それらだけでは十分とはされないで、全く外面的な方法、非精神的な称号が d


真理の所有を裏付けすることになる。この外面的な方法が僧職叙任式である。その結果、僧職が個人の身体に貼り付けられ、個人の内心というものはどうでもよいものとされるようになる。どの点から見ても信仰とは縁がなく、非道徳的で、どんな愚物であっても一向に差し支えないということになる。e


3)僧侶の財産:第三の矛盾は、教会が外的存在として領地をもち、莫大な財産を所有する点である。しかし、教会はもともと、富を軽蔑するものであり、また富を軽蔑すべきはずのものであるから、ここに教会は虚偽に陥ることになる。」(ibid s 226 )


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6月23日(日)のTW:「思考の原理の出現」

2013年06月24日 | Myenzklo

自由はその中に二種の規定を持つ。一つは自由の内容、自由の主観性―――つまり事柄そのものの面である。今一つは自由の形式の面であるが、そこでは主観が自分の活動についての意識を持たなければならない。と言うのも、自由は主体がその中で(darin)自己を知る内面的原理と、a


そこで自己のことを行うその場面(dabei)との二つを必要とするものだからである。そうして結局その事柄を成就するという主体の関心が問題でなければならない。以上の点から見て、現実の国家の持つ三つの要素(司法、立法、行政)または三つの力を考察しなければならない。詳細は法哲学による。b


悪を善に、善を悪にひらりひらりとひっくり返して、特殊なものを何もかもぐらつかせる弁証法において、結局最後に残るものといえば、内面性そのものの純粋な活動、精神の抽象的な要素、すなわち思考そのものい他ならない。【歴史哲学】(s 301)※この思考の原理が現実の政治に歴史的に a


はじめて貫かれたのが、「フランス革命」であり、また、その遺産を引き継いだのが「ロシア革命」であった。いずれも思想が政治革命の原理となったのであるが、同時に「思想」の、あるいは「思考」の持つ抽象性が、ちょうど核爆弾の閃光の抽象性のように、あらゆるものを殲滅し尽くそうとした。b


ヘーゲルはその生涯に青年時代に、隣国フランスで起きた「フランス革命」を体験したが、同時にこの革命の凶暴性についても、その論理的帰結を把握していた。その破壊的な論理的帰結は、「ロシア革命」においても、毛沢東中共の「文化大革命」においても、またカンボジアの「ポルポト革命」においてもc


繰り返された。「もともと思考は一切のものを普遍性の形式において考察するものであって、思考は普遍者(自我意識)の活動であり、普遍者が作り出す働きである。」「思考の中では自我は自己の眼前にありありと現れるのであり、思考の内容、思考の対象も全面的に現れる」(ibid s 301 )


「私が思考する場合、私は対象を普遍性にまで高めないではおかない。そしてこのことこそが絶対的な自由に他ならない。というのも、純粋な自我は、純粋な光と同様に、完全に自分自身のもとに(bei sich)あるものだからである。それゆえ純粋自我(思考)にとっては、対象が感性的なものか a


精神的なものかという区別は、もはや怖れるに足りない。なぜなら、純粋自我はこの場合でも、それ自身としては自由であり、自由な気持ちでこの区別に対処できるからである。実践的関心は対象を使用し、これを消費し尽くしてしまう。これに対して理論的な関心は、対象はもともと自分とは相異なる、


相容れない存在ではないという安心感を持って対象を考察する。それゆえに、内面性の究極的な頂点は思考である。人間は思考しない場合には自由ではない。なぜなら、その時には人間は他のものに関わっているからである。ところで、このような把握は、


すなわち、もっとも内的な自己確実性をもってする他者の把握は、そのまま宥和の意味を持っている。すなわち、そこには思考と他者との統一が即自的に、もともと(an sich)存在しているのである。というのも、理性こそが意識(自我)のみならず、また外的存在、自然的存在の両者の


実体的な根底をなすものだからである。この意味で、我々と対立するものも、もはや彼岸ではなく、我々と違った実体的性質を持つものではない。(ibid s 302 )※ここで述べられている「宥和」の境地は言うまでもなく、ヘーゲルの処女作「精神現象学」において到達した境地、


「絶対知」の立場である。ヘーゲルの全哲学はこの基礎の上に築かれる。彼の哲学の論理は一貫していて、芸術においても、歴史においても、宗教においても貫かれている。「思考」は深く傷つけるものであり、また癒すものでもある。そして哲学史において「思考の原理」の登場が、啓蒙と革命の時代である。


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6月20日(木)のTW:「内面性と思考」

2013年06月21日 | Myenzklo

ギリシャの場合のように思考が積極的に自分を意識するようになると、思考はいろいろの原理を持ち出すようになり、そうするとこれらの原理が現存の世界の中に深く食い込むことになる。元来ギリシャ人特有の具体的生命というのは人倫であり、すなわち宗教と国家とに捧げられた生活であって、a


それ以上につっこんで反省をせず、一般的な諸規定にまで分析を進めないところにある。そういう一般的な規定となると、それは早速に具体的な型態を毀すことになり、具体的な型態に真っ向から対立することにならざるをえない。法律は直接に現存するものであるが、しかもその中には精神が宿っている。b


ところが、思考が登場するや否や、その思想は早速、種々の政治組織の吟味をやり出す。そして「もっとよいもの」を見付けだしてきて、その自分がよいと認めたものを現存のものに置き換えようとし始める。(ibid s 63 )


【内面性と思考】ギリシャ世界の堕落を深い意味から理解して、その原理が自立自由となりつつ内面性にある点を明らかにしなければならない。今や内面性が種々の形で現れてくるのが眼に映る。思想、すなわち内面的普遍はギリシャの美的宗教を脅かし、個人の情熱と恣意は、a


その国家組織と法律とを脅かし、要するに一切の中に自分を見て、自分を挙げつらう主観性というものは全直接存在(無垢、素朴、単純)にとって一大脅威となる。それ故に思考こそが堕落の原理となり、実体的人倫性(無反省の習俗)の堕落の原理となる。なぜなら思考は対立を引き起こすものであり、b


理性の弁証法を駆使するものだからである。無対立ということを根本とする東洋の国家においては、最高原理が〔無反省、無媒介の〕抽象性にあったから、道徳的な自由は出番がなかった。※ここでも、自我に分裂をもたらす思考の驚くべき破壊的威力についてヘーゲルは語っている。意識、自我の自己内分裂。


※歴史哲学講義のなかでも弁証法的理性の原則が貫徹されていることが分かる。しかし、講義のなかにその事例をしっかりと把握するだけではまだ足りない。講義の中に論旨の展開の必然性を学ばなければならない。さらに大切なことは、現実の中にしっかりと弁証法理性を認識し、定式化して行く能力である。


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6月18日(火)のTW:「主観的芸術品」

2013年06月19日 | Myenzklo

第二篇 美的個性の諸形態〔ギリシャ精神の第一期〕第一章主観的芸術品〔人間自身の諸型態〕〔1.道具〕いろいろの欲求を持つ人間は外的自然と実践的な交渉をするが、その場合には人間は外的自然によって自分自身の欲求を充たし、それを使い減らすのであって、その点でそれを手段として扱う。


だが自然の対象はなかなか頑固で種々に抵抗する。そこで人間は自然を征服するために多の自然物を持ちだしてきて、それによって自然を自然そのものに当たらせる。つまり、この目的のために道具を発明するのである。ところで、この人間の発明は精神に属するところだから、道具は自然という対象よりもa


高次のものと見られなければならない。我々はまたギリシャ人が特に道具を重んじた事実をも知っている。というのは、ホメロスの中に道具の発明に対する人々の歓びが実に躍如として描かれているからである。アガメムノンの王笏について語る個所では、王笏の起源がくどくど語られている。b


また蝶番で開く扉のことだの、武具のこと、器具類のことなどが悦ばしげな口調で述べられている。そしてこの自然制服のための発明の名誉は神々に帰せられている。(ibid s26 )


〔2.装飾〕ところが人間は他面ではまた自然を装飾として使用する。装飾は元来はただ富裕の印であるとか、人間が自分で作り出した業績を表わす印というくらいの意味しか持たない。ところが、この装飾に対する関心がホメロスの描くギリシャ人ではもうずいぶん発達している。a


装飾は野蛮人も文明人も共に付けるが、野蛮人はただ自分を装うにとどまる。すなわち、その身体が外物によって飾り立てられてただ喜んでいるという程度を出ない。しかし、この飾りは他のものの飾りだとは云っても、人間の身体という他のものの飾りに他ならない。b


しかも人間はこの身体と離れがたく結び付いているものであるから、自然一般と同様に身体をも同様に改造しなければならない。だから真っ先に起る精神的な関心は、身体を意思に相応しい立派な器官とすることである。もっともそうすることが一面では他の目的に対知る手段となることもあるが、c


しかし他面ではそれ自身が目的となることもあり得る。ところがギリシャ人にあっては各人が自分を他人に示し、それによって楽しもうとする無限の衝動が見られる。この感性的な享楽は彼らの平静な気持ちの元とはならないが、また感性的享楽に付き物の迷信、迷信の馬鹿らしさに陥ることもない。(s27)


人間はここでは、恰も空に舞う小鳥のように自由に、そのわだかまりのない、純な人間的性質の中にある一切をさらけ出すが、それはその自分をさらけ出すことによって、自分の良さを証明すると共に、自分を承認してもらうようにするのである。(ibid s 28 )


〔3.競技〕以上がギリシャ芸術の主観的な始まりである。人間はそこでは自由な美しい運動と力のこもった技、熟練とによって肉体を一個の芸術品にまで作りあげた。ギリシャ人はその麗しい姿態を大理石や絵画の中に客観的に表現するに先立って、まず自分自身をこの麗しい姿態に作り上げたのである。a


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6月17日(月)のTW:「芸術品について」

2013年06月18日 | Myenzklo

ギリシャ的性格の中心点のなすところのものは、まさに美的個性である。そこで次に、この概念を実現している個々の光線の面に立ち入って考察しなければならない。この光線はいずれも芸術品を形成している。我々はそれを三つの形象に要約することができる。主観的芸術品、すなわち人間自身の形成と、


客観的芸術品、すなわち神々の世界の型態(像)と、最後に政治的芸術品、すなわち国家組織(憲法)の様式とその中にある個人との在り方、がこれである。【歴史哲学下(s 25 )】


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