猪木正道氏が、下に引用した論考のなかでも主張されておられるように、国家と市民社会と家族のそれぞれの関係のあり方についてはまことにむずかしい面があると思う。 goo.gl/8tnaN
しかし、そうではない。がんらい物質について重さのないものは何もなく、物質とは重さそのものだからである。重さが物体を構成するものでありかつ物体なのである。自由と意思についても同様である。がんらい自由なものとは意思であるからである。自由のない意思とは空なる言葉に過ぎず、b
また、自由とは単に意思として、主観としてのみ現実的であるのである。しかし、意思と思考との関連については次のことが注意されなければならない。精神とは思考一般であり、かつ人間は思考によって動物から区別される。c
ところで第三の契機は、自我がその制限の内にありながら、すなわちこの他者のうちにありながら自己自身に安らっているということ、自我が自己を規定しつつしかもなお自己に安らい、かつ普遍者を確保することを止めないということであるが、この第三の契機はかくて、a
上に述べた二つの契機が徹頭徹尾抽象的かつ一面的なものと見られているのに反して、自由の具体的概念である。しかし、この意味の自由を我々はすでに、例えば友情や愛として、感覚の形式で持っている。友情や愛においては我々は本来一面的ではなく、むしろ喜んで他者に関して自己を制限するが、 b
しかもこの制限において、自己を自己自身として自覚する。この規定性においては人間は自己を規定されたものとして感じるはずもなく、かえって他者を他者として考察することによって、そこにはじめて自己感情を持つのである。(ibid §7補遺)
したがって自由とは無規定性のうちにも規定性のうちにも存せず、この両者なのである。一つのこのものというようなものにまったく制限されている意志は利己主義者の意志であり、利己主義者は自己がこのうような意志を有しないとき不自由だと考える。けれども意志はある制限されたものに拘束されず、a
さらにこれを越えて進むものでなければならない。“けだし意志の本性はこのような一面性や非拘束性にあるのではなく、自由とはある規定されたものを意欲すること、しかも、この規定の内に安らい、かつふたたび普遍性と還帰することであるからである。”b(法の哲学ibid s 7補遺 )
※ここにヘーゲルの言う「大人の自由」がどういうものであるかがよく示されてる。またこの個所を読んでも、ヘーゲルの言う、個別、普遍、特殊がどのような意味で用いられているかが明らかである。このように哲学のその現実的な意味を読解しながら読むことが大切だろう。
また同時に、ヘーゲルの叙述の仕方をよく学んでゆかなければならい。とくに概念の叙述の自己展開させて、それを観望するのみというのが哲学の立場であるはずである。「普遍」→「特殊」→「個別」という展開である。とくにこの§5と§6の個所は熟読吟味すべきところであろう。
思考と意志の関係を述べた§4も重要である。ヘーゲルは言う。「思考と意志との区別は単に理論的態度と実践的態度との区別にすぎない。」(ibid s 22)※とすれば、理論的態度と実戦的態度とはどのように違うのか。それは以下のように説明している。a
「しかし決して二つの能力があるのではなく、意志は思考の一種特殊な仕方、すなわち自己を定在へと移すものとしての思考、自己を具体化しようとする衝動としての思考である。」・・・がんらい思考においてはじめて私は私であることを体得するのであり、概念的把握にしてはじめてはじめて対象の b
洞見的把握であり、そのとき対象はもはや私に向かって存在しておらず、それが私に対して持っていた、対象だけに固有のものを私はそれから奪い取っているからである。アダムがエヴァに汝は我が肉中の肉、我が骨中の骨なり、というように、精神は、これ我が精神中の精神にして未知なるもの c
すでになし、というのである。すべて表象とは一個の普遍化であり、そしてこの普遍化とは思考に属するものである。あるものを普遍化するということは、あるものを思考するということである。“自我は思考であり、かつ同様に普遍者である。”に私が自我というとき、私はそこに性格、素質、識見、d
年齢という一切の特殊性を除去している。自我とは全く空な、点のような、単一なものであるが、しかも、この単一性において活動せるものである。(ibid s 22)※自我にについての研究は、今日に至るも最もヘーゲルが卓越しているように思われる。この哲学を研究するとは自我を研究すること。
世界の色とりどりの絵姿が私の前にある。私はそれに向かって立ち、この普遍化という態度によってその対立を破棄し、この内容を私のものとする。“自我は世界を知っているとき、世界に安らっている。が、世界を概念的に把握したとき、なおいっそう世界に安らうのである。ここまでが理論的態度である。”
意志は(α)純粋無規定性、換言すれば自我の純粋自己内反省という要素を含んでおり、一切の制限、すなわち欲求、欲望、衝動などのような自然的性質によって直接に存在する内容、もしくは、何によってであれ、与えられ規定された一切の内容は、この自己反省中で溶解してしまっている。a
それはいわば絶対的抽象、もしくは一般性という無制限な無限性であり、自己自身の純粋思考である。【法の哲学§5】この節に、フランス革命の結末のように、ルソーやマルクスの系譜にある革命が、往々にして、カンボジアや中国の文化大革命のような破壊的な結末に至るのか、その理由が論証されている。
哲学において概念が自己を自己自身から発展せしめる方法、また概念が単に自己の諸規定の内在的進展と産出にとにすぎないという方法――この進み行きは、種々の事情が“与えられている”という漫然たる主観的確信によっても、またさらに、このような他所から受け入れた素材に普遍的なものを a
“適用すること”によっても生じることなく、ここでもやはり論理学が前提されるのである。 >普遍的なものの特殊化を、単に解消するのみではなく、また産出するものとしての、概念の機動的原理を、私は弁証法と称する。――したがって弁証法とは、感情に、また、 b
一般に直接的に意識に与えられた対象や命題などを解消したり、もつれさせたり、あちこちを引き回して単にそれとは反対のことを引き出して来ることをするような意味のものではない。――このようなやり方は、弁証法の消極的な用い方で、たとえばプラトンにおいてもしばしば見るところのものである。c
・・・・概念のさらに高次の弁証法は、規定を単に制限や反対物として産出し理解するのではなく、この規定から積極的内容と成果とを産出し、把握しなければならない。このようにすることによってのみ弁証法は、発展であり内在的進展なのである。 d
この弁証法はその時、主観的思考の外的な所為ではなく、有機的に枝と果実とを産み出す内容独自の魂をなすのである。理念のこの発展は理念が持つ理性独自の活動であって、思考は主観的なものとしては自分の側からこれに何ものをも加えることなく、ただこれを注視するのみである。 e
あるものを理性的に考察するとは、対象に外から一つの理性というものを付け加えてこれを加工するの謂ではなく、対象がそれ自身で理性的であることをいうのである。ここにおいて、自己に現実性を与え自己を実存界として産出するのはその自由における精神、すなわち自覚された理性の最先端である。f
哲学の任務とするところはひとえに、事象が含む理性のこの独自の仕事を自覚にもたらすにある。【法の哲学§31】哲学の任務、概念の展開の自覚化と概念の機動的原理としての弁証法
かくてたとい概念がその具体化された形では相互に離ればなれのように見えても、そのような形はまさに仮象ににすぎず、これをその進展において見ればその仮象たる所以は明らかである。けだしすべての個別性は普遍者の概念中にふたたび帰るからである。経験的諸科学においては人々は通常、 a
表象中に見いだされるものを分析する。そして個別的なものが共通したものへと還元されると、そのときにこの共通したものを概念と称する。(これがマルクスのなどの概念観)我々の行うのはこのような方法ではない。がんらい我々の欲するところは単に、概念自身がいかに自己を規定するかを注視することb
にすぎず、我々の憶見や思考の何ものもそれに加えないように自制するのだからである。・・・・我々はまさに真なるものを成果の形において見ようとするが、そのためには本質上、まず抽象的概念自体を把握すること必要だからであると。現実に存在するもの、すなわち概念の実在形態はしたがって、c
それがいかに現実そのものにおいては第一のものであろうとも、我々にとってはまず次に来るべきものであり、後に取り上げるべきものである。我々の行き方は、抽象的な形態を独立自存的なものとして自証せしめるものではなく、真ならざるものとして自証せしめることにある。(ibid s 32 )
ヘーゲルの哲学の証明の方法。概念の自律的、弁証的展開。――――科学的な叙述としては、抽象から具体へ。しかし、思考としては、具体から抽象へとさかのぼる。
哲学的法学は法の理念、すなわち法の概念とそれの実現行程とを対象とする。哲学は理念に関わるべきであり、だから、人がふつうに単なる概念とよんでいるものと関わるものではない。むしろ哲学は単なる概念の一面性と非真理を指摘し、a
また、概念のみが現実性をもち、それも己にこの現実性を与えるものである。(ここでいう概念は、しかし、しばしば人が呼び聞きしているところの、ただの抽象的な悟性的な規定であるところのものではない)b
この概念そのものによって己を確立した現実性でないすべてのものは、過ぎ失せる物であり、外的な偶然性であり、思いこみであり、本質を失った現象であり、非真理であり、思い違い、等々である。【法の哲学§1】※したがって、真に従事し甲斐のある、永続的で永久的な仕事は哲学のみということになる。
哲学的認識においては概念の必然性が主要問題であり、生成された成果としての行程が概念の証明であり演繹である。・・・最初のいかにも形式的な方法はそれでもなお定義において概念の形式を要求し、証明において認識の必然性の形式を要求するが、直接的意識や感情のやり方は、 a
法は、(a)ある国家に適用される形式によって一般に実定的となる。そしてこの制定法としての権威が、法律知識にとっての、すなわち実証的法学にとっての原理である。(b)内容上から見れば、この実定法は次の三者よって実定的要素を得るのである。(ibid §3 )
法の地盤は一般は精神的なものである。そしてその立場および出発点はさらに精密には意志であり、これは自由なものである。a
したがって自由ということが法の実体と規定とをなすものであり、法の体系とは現実化された自由の王国、すなわち精神が自分自身から産み出した世界、いわばその意味で第二の自然である。(ibid §4 )
法の地盤は一般に精神的なものである。そしてその立場および出発点はさらに精密には意志であり、これは自由なものである。a
〔自由、実践的および理論的態度〕意思の自由は物理的自然と比較してみると最もよく説明される。すなわち、自由が意思の根本的規定であることは、重さが物体の根本的規定であることと同様である。我々が、物質は重い、というとき、この述語は、単に偶然的なものと思われるかもしれない。a
wissenschaftlich をどのように訳すべきか。従来のように「学問の、科学の、学術の」といった訳語の他に、「哲学的な、哲学の、」という用語法を加えるべきではないだろうか。>><< goo.gl/JazLs
>まことにこの方法という面から本書(法の哲学)が理解され評価されることを、私はとくに望みたい。“がんらい本書が眼目とするものは、“哲学”であり、哲学においては、内容は本質的に“形式”と直結しているからである。・・・さらにまた、著作家、とくに哲学上の著作家の任務は、真理を発見し、a
真理を語り、真理および正しい概念を広めることにあるとすることができる。・・・・さまざまな“真理”のこのような喧噪のうち、古いものでもなく、新しいものでもなく、つねに存在するものは何であるか。これら形式もないままに動揺しているだけのさまざまの考察から、このつねに存在するものが b
どのようにして取り出されるべきであろうか。―――“哲学”によるのでなくて、他にどのようにしてこれが区別され確証されるのであろうか。もとより法、倫理、国家に関して極めて古くからその真理が広く示され知られていることは、それが公共の法律や公共の道徳および宗教という形で c
広く示され知らされているのと同様である。けれども思考的精神が真理をこのような手近な仕方で所持することを以ては満足しない以上、“真理のさらに要求するところのものは、”真理がなお把捉されること、そしてすでにそれ自身において理性的な内容に“理性的な形式”をも得させ、d
以てこの内容が自由な思索の要求に適合したものとして現れること以外にありえない。・・・そして、このような自由な思考とは、・・・e
いずれにせよ与えられたものに止まっておらず、自らより発し、またまさにそうすることによって、最内奥において真理と一致した自覚に達することを要求するものなのである。【法の哲学 序(s3)】
wissenschaftlich をどのように訳すべきか。このテーマで考えてみたい。手元にある三修社の現代独和辞典では、wissenschaft は①学問、科学、②知識、学識 などの訳語が挙げられ, wissenshaftlich では学問の、科学の、学術の、などと訳されている。
wissen は①知識、学識、心得などの訳語が当てられている。-schaft と schaffenが語源的にどう関係しているのか、浅学にして不明だが、schaffen 意は①造り出す、創作する、②仕事する、成し遂げる、などの意味があるらしい。>b
とすれば、wissenschaft は「知識が創り出したもの」と解してよいのかもしれない。だから、単に wissenschaft を学問、知識、科学などと訳すだけでは、もとの原語の語源的な意味は捉えられない。-lich は形容語尾で使われる。単にwissentlich は
知っていながら、意識しながら、さらに、故意に、などの訳語が当てれているのに対し、wissenschaftlich は、学問の、科学の、学術のなどと訳され、とくに歴史的には、マルクスが der wissenschaftliche Sozialismus として、
従来の Sozialismus 社会主義 に wissenschaftlich を形容詞に付し、この語によって、彼自身の思想の独自性を主張したのである。しかし言うまでもなく,この wissenschaftlich こそ、ヘーゲルが自身の哲学の特色として打ち出したものであった。
従来のPhilosophie、哲学を、単に「愛智」というレベルではなく、wissenschaftlich の段階にまで高めたことがヘーゲルの功績であることは周知のことである。この wissenschaftlichは、しかし、単に学問とか学術とか科学と訳出するだけでは、
その真意は出てこない。ヘーゲルの wissenschaftlich の性格は、論理必然性を概念的に証明するものであること、体系的必然性を持つものであることである。とすれば、現代の日本語でいう「科学」には、必ずしもヘーゲル由来の意味は含意されてはいない。
とすれば、 wissenschaftlich の訳語として、哲学的 という用語を、科学的、学問的、学的、などと並んで、加えるべきではなかろうか。もちろん、多くの人々は、伝統的にも 「哲学的」 という用語で、ヘーゲルのwissenschaftlich が持つ、
概念的論理必然性や体系的完結性という理解はこれまでなかったかもしれない。しかし、たといそうであるとしても、これからの日本の哲学史の伝統の形成において、日本語の「哲学的」という用語に、ヘーゲルの wissenschaftlich の用語法の原意を含めて使用してゆくべきだと思う。
これまでのヘーゲルの作品の著作において、これまで実際にどのように訳されてきたかというと、「学的」「科学的」「学問的」などと訳されてきた。これらに加えてさらに、wissenshaftlich に「哲学的」という訳語を加えるとすれば、
従来の philosophische の訳語として確立している「哲学的」との区別をどうしてゆくかという問題が出てくるかもしれない。一つの提案としては、 philosophische の訳語としては、愛智学的、智学的などの訳語を当てればどうだろうか。
それとも、「科学的」という語に ヘーゲルの wissenschaftlich の原意を込めて使用してゆくという道もあるかもしれない。ただ、個人的な感想としては、日本の哲学史の試みとしても、wissenschaftlich の訳語として、「哲学的」の語を使いたいと思う。
したがって、philosophie、philosophisch の訳語として、愛智学、智学、愛智学的、智学的などの用語を使うようにしたいと思う。そうして、Wissenschaft、wissenschaftlich の訳語としては、「哲学」、「哲学的」の語を当てたい。
「法治国家」としての法体制の不備や、政治家や知識人や大衆ら国民の間の「法の支配」の文化や意識の未成熟を「空気」で説明するだけでは、まだ足りない。 blog.goo.ne.jp/aowls/e/294b54…
法は思考を通じて知られなければならず、それ自体は体系でなければならない。そして、このような体系としてのみ法は教養ある国民の間に通用するものである。無限に多い現行法について、これらを首尾一貫した体系にもたらす個々人の技能・・・・a【法の哲学§211】
哲学、特にヘーゲル哲学を何処まで完全に消化吸収し、自家薬籠中のものにできるかに、すべてがかかっている。特に、概念、判断、推理の三つの思考規定を必然的な発展過程として、認識の道具、武器として自由自在に活用できるか、また、科学研究における研究論文の展開として自覚的に駆使できるか。
とくに概念と言語の関係を明らかにする必要がある。人間は言語を通じて概念を獲得する。言語なくして概念はあり得ず、また、概念なくして言語は無意味である。言語は思考の肉体であり、概念は思考の精神である。言語の特質は、それが概念として個別と特殊と普遍を統一して内在させていることである。
すべての事物は個別と特殊と普遍の内在的統一である。言語も例外ではない。日本語も個別性と特殊性と普遍性の統一物として捉えなければならない。哲学が認識論の対象として言語を捉えるとき、もちろんそれは言語の普遍性を問題にするのであっ、個別性を対象とする言語論とは領域を異にしている。