海と空

天は高く、海は深し

3月29日(金)のTW:#自然哲学、#物理学、#内的必然、#外的必然、#概念

2013年03月30日 | Myenzklo

【自然の考察――ヘーゲルの自然観】私たち人間は自然の内に生き死にする存在であり動物である。空気(酸素)、日光、水などそれら自然物なくして片時も生存できない。肉、魚、米、野菜など自然界の有機物を食料として摂取しながら、外界の自然との新陳代謝を繰り返しながら生きてゆく。


ヘーゲルの自然観は彼のエンチュクロペディ-第二篇自然哲学§245以降に明らかにされている。その緒論の中で、自然の考察方法の違いとして、物理学と自然哲学の相違を述べる。要するに、物理学は、経験科学であって、もちろん、思考の働きによって、普遍性を、法則を認識する。


しかし、その法則性は原因結果の因果関係であり、外的法則性であり、物理学は内的法則性を認識しない。特に科学に置いて、法則性に内的と外的との二種を認めたことが、ヘーゲルの功績である。物理学も有限の経験科学として、ヘーゲルの哲学大系の中に取り入れられている。


自然哲学の論理は、普遍―特殊―個別であり、概念はこの論理に従って発展してゆく。有限の科学である物理学と、本質的に無限の科学である自然哲学との相違もここにある。自然哲学は「自然そのものに内在する概念を考察」するものである。(§245)


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3月27日(水)のTW:#国家、#立憲君主国家、#法の哲学、#西尾幹二、#ヘーゲル、#絶対的国家観

2013年03月28日 | Myenzklo

しかし、ヘーゲルは実体としての国家の客観的な実在を認めている。ヘーゲルの「国家」の体系的な位置は、第三篇、精神哲学の第二部、客観的精神のなかの人倫の項目である。ヘーゲル哲学の他に増して独自である点は、その哲学の体系性にあることは言うまでもない。ニーチェやショーペンハウエルなどの


愚劣な哲学に比して、ひときわ卓越せる点も又、この体系性とその論理的な完結性にあることは言うまでもない。そうした性格は科学哲学として、必然的なものである。そして、ヘーゲルは国家を論証し、それが近代においては具体的には「立憲君主国家」型態を取ることを論証したのである。


我が国の政治家や大衆は歴史的に、伝統的に我が国の国家体制が、皇室を中心とする「立憲君主国家」体制であることを承認し、又その優越性を理解しているようであるけれども、それはいわば、本能的な、あるいは直観的な、あるいは感性的な理解であって、決して哲学的な論理科学的な確証のある


理性的な理解にまでは立ち至ってはいない。私の知る限り東京大学の哲学教授でさえ、ヘーゲルが自身の哲学大系の中で論証した「立憲君主国家観」を理解していない。だから、日本の政治家の中でも誰一人として、哲学的確信をもって我が国の「立憲君主国家体制」を理解している者はいないとしても


おかしくはないのである。ただ、しかし彼らの国家観が哲学的でなく、感性的であり、直観的であることの欠陥や不完全性はやはり免れないのであって、それは、立憲君主国家を承認する者においても、その歴史観は「皇国史観」レベルに止まっていることに現れている。論理的な「絶対的国家観」として


の自覚を持ち得ないというところに現れている。評論家の西尾幹二氏らにしても、直観的に我が国の国家体制として、皇室を中心とする「立憲君主国家体制」の優越についての信念は持っている。しかし、ニーチェ学者でヘーゲルをやらない西尾幹二氏にとっては、


その国家体制の正当性についての確信は、決して論証された科学哲学的な信念であるというものではない。それはヘーゲルの『法の哲学』を通じて初めて獲得されるものだからである。


キリスト教国の王室は昔から庶子が排除されてたが、直ちに男系が断絶したなどという事実はない。フランスのカペー本家と、バロア家とブルボン家という二つの宮家で、フランス革命まで800年以上男系継承を続け、現在でもブルボン系のオルレアン家がカペーの男系を継承している。 #女性宮家

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3月26日(火)のTW:#国家、#人倫、#家族、#愛、#ケルゼン、#法実証主義

2013年03月27日 | Myenzklo

「国家は自己を自覚している人倫的な実体である。国家は家族の原理と市民的な利益社会の原理との統合である。この統一の原理は、家族においては愛の感情としてあるものだが、それは国家の本質でもある。a(ヘーゲル『哲学百科事典』§535)」


※これからヘーゲル哲学について研究してゆく場合の姿勢としては、まず、原典を出来うる限り忠実に翻訳してゆくとしても、それだけではどうしても、ドイツ語と日本語の言語体系の相違のために、ヘーゲルのドイツ語における認識や思考の展開が、どれだけ忠実に翻訳を心がけたとしても、a


本来的に両言語の持つ認識表現の差異のために、完全に日本語としての認識表現に転換するには限界がある。そこで、私は方法論として、まず第一に可能な限り、原文に忠実に日本語への翻訳を実行するけれども(これが翻訳の第一相)、第二に、その第一相翻訳を踏まえた上で、


認識の本質的同一性を保持したまま完全に自己の私自身の日本語に 転換するという作業を行なってゆく。(第二相翻訳)この段階は従来は「意訳」と呼ばれるものかも知れないが、少なくとも、ヘーゲルの原文の趣旨を、同一の事柄をどのように認識しているかを、


私自身が母語である日本語において表現し確定してゆこうというものである。だから、この第二相の記述においては、少なくとも、ヘーゲルの叙述の同一の事柄を、私自身がどのように解釈し、また、認識しているかを、事実として記録してゆくことになる。このことは、講壇学者のように、単にドイツ語の


横文字を日本語の縦書きに転換することをもって完了とするのではなく、ヘーゲルの哲学大系の現実的な意義を、私自身の哲学と思想の構築に生かし切るためにヘーゲル哲学大系の読解を目指す者にとっては、当然の姿勢であり方法論でもあるはずのものである。早速に、先述の翻訳個所について実行してみる。


「国家というのは、自己のことを自覚している人倫としての実体である。国家は家族と市民社会の二つの原理を統合する存在である。家族の原理は愛であるが、国家の本質も愛である。」※「人倫としての実体」の原文は、sittliche Substanz であるが、「Substanz」 は「主体」


とも訳せる。担い手、支える物、有体物などの意味で、ここでは原動力を内在させている物、ぐらいの意味にとっている。私たちが、日本やイギリスやドイツ、アメリカなどの言葉で具体的に表象する事柄や内容と考えてよい。日本であれ、イギリスであれ、これらの国家は、兵役の義務や納税の義務など、


それぞれの国家に所属する国民は、国家に対して倫理的な義務を担う。このように、ヘーゲルなどは国家を「実体」として捉えるのであるが、ケルゼンなどの立場は、国家を、ヘーゲルのように実体として「客観的観念的実在物」としては認めない。


ケルゼンが国家の現象として存在を承認するのは、実証できる制定法においてのみである。これは、哲学上の認識論から言えば、「概念」の客観的実在を認識しない不可知論、もしくは唯物論の立場に事実上立っている。従って、ケルゼンは「自然法」を認めない。この立場は法実証主義と呼ばれる。


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3月23日(土)のTW:#主体、#他者、#時、#永遠、#アウグスチヌス、#過去、#未来、#不可逆

2013年03月24日 | Myenzklo

実在する主体は実在する他者と直接的なる関係交渉において立つ。かくの如く生きるのが生の最も基本的な根源的姿である。この土台の上に文化的人間的生は建設される。・・・ここよりして時間性が人間性の地盤にいかに深く根を張っているか、い (続く) tl.gd/lcg45h


自然的生を生きる限り主体は存在を獲得しつつしかも同時に喪失する。ここでは生ずるは滅ぶるであり来るは去るである。・・・将来と現在との間に存するこの矛盾関係は畢竟主体と他者とが生及び存在の真の共同に達しおらぬことを指し示す。・・ (続く) tl.gd/lcg8s9


アウグスチヌスの「時」の論はこの題目について思索する何人も研究の出発点となし又終始指導者となさねば画期的業績である。・・「期待」は自然的時間における将来に対応するとして許されようが、「記憶」は、後に論じる如く、文化的歴史的生の段階に属する働きである。(ibid s 16 )


アウグスチヌスが永遠と時とを単に区別し対峙せしめるに止まって、それと活きた連関において真にそれの克服者として理解し得るに至らなかったのも、同一欠陥の発露である。(ibid s 16 )


アウグスチヌスは将来が、実在的他者との関係交渉において自己の存在を維持する人間的主体の生き方を示す、といふ真理を認識し得ずにをはった。彼がが永遠と時とを単に区別し対峙せしめるに止まってそれと活きた連関において真にそれの克服者として理解し得るに至らなかったのも同一欠陥の発露である。


過去の内容は現在のそれと融合浸透を遂げつつ持続換言すれば包括的現在を成立たしめる。過去の内容は記憶に俟つ外はない。かくては持続としての時は文化的時間より将来を取り除いたものに過ぎぬであらう。さてすべてこれらの事どもはいずこに源を有するであろうか。いふまでもなく、a


主体が単独孤立の立場に置かれたことが一切の誤謬の原因である。持続を体験する主体は、他者への生に没頭する本来の態度を置き棄て、自己の姿を自覚の鏡に写そうとする反省の位置に退いてゐる。認識の方法は直観と言われてゐるが、これは抽象 (続く) tl.gd/lciujk


以上述べ来たった時及び時間性の本質的構造よりして吾々は、永遠性との対立及び連関において観られる場合特に重要性を発揮する諸々の特徴、時間性の形式的特徴ともいふべきもの、を導き出しつつ理解し得るであらう。第一は時の方向である。時の方向は将来より現在を経て過去へ向かうとも、又反対に a


過去より将来へ向かうとも考へられる。この矛盾は時の観念の中に伏在する問題を示唆するとしての意義はあらうが、その問題は、後の論述の明らかにするであらう如く、時間性の異なった段階を区別することによってのみ解決を見る。自然的体験的時間即ち時間性の最も基本的根源的姿においては、b


方向は将来より過去へと向かふ。しかもこの方向は断然動かし得ぬものである。過去になったものは無に帰したものである。単純率直なる非存在である。無くなったものは取り返しのつかぬもの、主体の処理の手の届きかねるもの、この意味において絶対的なるものである。(ibid s 18 )


昔を今になす由もないのが時の本然の姿である。ここに時の「不可逆性」(Unumkehrbarkeit)は成立つ。要するに有より無へ存在より非存在へ向かうのが時の最も根源的方向時間性の最も本質的性格である。次に、時間性は無常性と可滅性とを意味する。時と時における存在とは、


絶え間なき流動推移の中に有より無への方向を取りつつ、息みもせず振返りもせず、ひたすらまっしぐらに壊滅の道を進む。以上と連関して第三に、時間性は断片性不完成性を意味する。時間的存在はいつも滅びつつある従っていつも欠乏に陥りつつ (続く) tl.gd/lcj5o2


第四、時間性は主体と実在的他者との直接的関係交渉において成立つものとして、一方まっしぐらの没頭を、他方主体性の本質を為す自己主張に加えられる拘束を意味する。これは主体が自己の任意なる自由なる決意や努力により取除かれ得る事態ではない。いかにとも致し方なきいはば宿命的事態である。a


第五、生ずるは滅ぶるであり、有は無に等しく、生の意味の実現も達成されず、一切が果無き幻にをはる處、しかも主体がこの事態を自らの力をもっていかにともなし得ぬ處には、生の意味の否定、幸福の喪失、空虚の感、不安哀愁落胆等は避け難き (続く) tl.gd/lcj8q2


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3月22日(金)のつぶやき

2013年03月23日 | Myenzklo

吉田松陰『東北遊日記』。 1852年嘉永5年2月閏廿四日 晴。本庄を発す。川あり。舟もて之れを済る。海浜に出で平沙を行き、道川に至りて午食す。是れ亀田候岩城伊予守領する所なり。本庄・道川の間に石脇・松崎の二駅あれども、海浜を行きしをもって経ず。道川を過ぐれば長浜あり、亦経ざりき。


塩越よりここに至るまで、本庄・亀田の二封地は皆四十八町を以て里と為すと云ふ。長村に至り海を離れて村に入る。是れより秋田の得する所に係る。新屋を経、舟もて御裳川を済る。川は雪水方に漲り、濶さ八町ばかり、渡処より川口に至るまで一里にして、大船泝りてここに至るべし。


久保田に宿す。是れ佐竹左京大夫二十万石の都城なり。行程十一里。久保田の地、最も斗出せるものを牡鹿と為し、二峯峙立せるを本山と為し、新山と為す。昨より之れを遠望して、二島と以為ひ、稍近づきて又一島と以為ひしに、長村に至りて初めて其の内地と連なれるを知りぬ。


土人云はく、「是の地五十三村、歳入二万石、港三、止賀・船川・船越と曰ふ」と。秋田の米価は三斗を以て苞と為すもの一貫七百銭なり。数日間、土人の往還する者を見るに、皆面を裏み頭を冒ひ、僅かに両目を露すのみ、比々皆然り、亦土風の笑ふべきものなり。


新潟よりここに至るまで、大抵海浜平沙、漫々浩々として行歩頗る困しむ。


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3月21日(木)のつぶやき

2013年03月22日 | Myenzklo

大正15年1926年4月26日(月)雨:雨 雷鳴り、雹降り、風暴れ凄い日であった。歯痛と疲労にて終日床に就いて休んだ。引き続き小問題にて悩まされる。然し乍ら我が心には大問題が横たわる。それは此の世の問題に非ず、人に関わる問題に非ず、神と宇宙と実在とに関わる問題である。#内村日記a


只斯かる問題について語る人なきを悲しむ。今の話題と云へば低いツマラナイ此の世の問題である。家計整理とか農村改良とか云ふのが其の最良の部分に属するのである。宗教問題と云へば会堂建築、教勢拡張位ゐが其の頂上である。「汝の住居は俗人の中に在り」である。願ふ今日と雖もソクラテス、b


プラトー、アリストテレス、カント、ヘーゲル、フィフィテ等と共に此の世の人等とは全然別の世界に棲息せんことを。#内村日記<<一日分の日記は平均ツィッター三個分くらいのようである。


昭和2年1927年12月7日(水)晴 札幌の孫へ長い手紙を書いた。後でグスタフ・クレーゲルGusutav Kreeger のインガーソル講演を読んだ。霊魂不滅論を哲学史的に述べた者である。教へらるゝところが多かった。哲学の目的は人の霊魂を教会の束縛より釈放つに在り #内村日記


との意見に全然同意せざるを得ない。教会を最善の物と思ふ位ゐ間違った考へはない。その点に於てブルノー、シャフツベリー候と全然同意である。哲学は教会の敵である。b#内村日記


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3月17日(日)のTW:#概念、#発展、#絶対者、#理念、#弁証法、#有機的生命

2013年03月18日 | Myenzklo

概念は手でつかめるものではないし、一般に概念を問題にするとき、眼や耳は用をなさないからである。にもかかわらず概念は、前にも述べたように、同時に絶対に具体的なものである。というのは、概念は有および本質を、したがってこれらの二つの領域の富全体を、観念的な統一において自己のうちに


含んでいるからである。・・・概念を単に形式的なものと考えて、内容と形式との対立を主張する態度について言えば、吾々はすでにこのような対立を、反省が固定するその他のあらゆる対立と同じく、弁証法的なものとして、すなわちそれ自身によって克服されたものとして、後にしてしまっているのである。


概念は形式と考えられないこともないが、しかし、その場合はそれはあらゆる豊かな内容を自己のうちに含み、また自己のうちから解放する、無限の、創造的な形式と考えなければならない。――――前に述べたように、論理的理念の諸段階は絶対者の定義と見ることができるのであるが、


そうすると今ここで吾々が見出す絶対者の定義は、絶対者は概念であるという定義である。・・・形式論理学でいう概念と思弁的論理学でいう概念との隔たりがどんなに大きかろうと、もっとよく吟味してみれば、概念という言葉のより深い意味は、一見そう見えるほど一般の用語に縁のないものではない。


吾々はある内容を概念から導き出すという。たとえば、財産にかんする諸法律を財産という概念から導き出すと言い、また逆にそうした内容を概念に還元するという。・・概念の運動はこれに反して発展である。他者への移行は有の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における


弁証法的過程である。概念の運動はこれに反して、発展である。発展はすでに潜在していたものを顕在させるにすぎない。自然においては、概念の段階に相当するものは、有機的生命である。かくして例えば、植物は胚から発展する。胚はそのうちにすでに植物全体を含んでいる。


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3月16日(土)のTW:#概念論、#絶対的観念論、#体系

2013年03月17日 | Myenzklo

第三部  概念論概念は独立的に存在する実体的な力として、自由なものである。そして、概念はまた体系的な全体であって、概念のその諸モメントの各々は、概念がそうであるような全体をなしており、概念との不可分の統一として定立されている。


したがって概念は自己のうちにありながら、即自かつ対自的に規定されているものである。【補遺】概念の立場は一般に絶対的観念論の立場であり、哲学は概念的認識である。というのは、哲学はその他の意識が存在するものとみ、またそのままで独立的なものと考えているものが、単に観念的なモメントに


すぎないことを知っているからである。悟性的論理学においては、概念は単なる思考の形式、あるいは一般的な表象と考えられている。概念は生命のない、空虚な、抽象的なものだという、感情や心情の側からしばしばなされる主張は、概念にかんするこうした低い理解にのみあたるのである。 s 121


実際においては事情はまさに逆であって、概念はむしろあらゆる生命の原理であり、したがって同時に絶対に具体的なものである。概念がそうしたものであるということは、これまでの論理的運動の全体の成果として明らかになっているのであるから、今さらここで証明するまでもないことである。


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3月14日(木)のTW:#時間、#永遠、#国家、#現在、#波多野精一

2013年03月15日 | Myenzklo

時と永遠の問題は古今を通じて哲学及び宗教の最も重大なる関心事に属する。それはまた最も困難なる問題の一つである。本書は旧著『宗教哲学』において展開されたる解決の試みに基づき、それを敷衍拡充を企図したものである。【波多野精一著『時と永遠』序】


国家が自給自足する体制が自立国家である証。小さな自給自足の単位を網の目のようにつなげて、分業体制や金融資本主義から離脱しよう、その後にそれを世界に広げて行こう、というのが目標です。あくまでも憲法の話はその手段でしかない。 wp.me/pKQj5-1eb

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「永遠」は種々の意味において時乃至時間性を超越乃至克服する何ものかと考えられ得るゆゑ、「時と永遠」の問題は種々の形において種々の観点よりして取り扱われうる。吾々は今これを宗教哲学の観点より取り扱はうと思ふ。波多野精一著『時と永遠』(s 5 )


「永遠」の観念が宗教においてはじめてそれの本来の力と深みと豊富さとを発揮し得ることによって実質的にも要求される。「永遠」は宗教に本来の郷土を有する観念である。このことによって「時」乃至「時間性」の取り扱い方も一定の方向を指し示される。(ibid s 5 )


※宗教のみならず、もちろん芸術においても、又哲学自身においても「時間と永遠」とは深く係わりをもつものである。だが確かに宗教においてこそ、この観念が深められ発達せしめられたのも事実だろう。私がここで学び取るべきことは、私にとっての「永遠」の概念を私自身に明確にしてゆくことにある。


※それによって、宗教や芸術や哲学やその他の一般的な事象についての私の視点を深め確立するためでもある。たとえば、「西行」の芸術の永遠性を問題にする場合にも、この「永遠」についての概念をどの程度の深さにおいて認識しているかによって、大いなる際を生じることになるだろう。


この波多野精一氏の『時と永遠』は氏の時間論であり永遠論である。時間と永遠の概念が、本書によって明らかにされている。本書に学ぶ意義は、それによって私自身の芸術論、哲学論、国家論、憲法論を深めてゆくためなのである。「国家と永遠」なども私が書かなければならない本である。


特に「永遠」の観念が宗教においてはじめてそれの本来の力と深みと豊富さとを発揮しうることによって実質的にも要求される。「永遠」は宗教に本来の郷土を有する観念である。このことによって「時」乃至「時間性」の取り扱い方も一定の方向性を指し示される。表象の内容をなすだけの又は単なる


客観的存在者としての理論的認識の対象をなすだけの永遠は、宗教においてはほとんど無用の長物である。このことに応じて、吾々の論及は時乃至時間性に関してもそれの特殊の形に重点を置かねばならぬであろう。これは時と永遠との相互の密なる連関よりして当然期待される事柄である。(ibid s5)


吾々は体験の世界に深く探り入って、吾々自らその中にあり又生きる「時」、すなわち生の「時間性」の本来の姿を見究めなければならぬ。二吾々は、主体は、「現在」において生きる。現に生きる即ち実在する主体にとっては「現在」と真実の存在とは同義語である。(ibid s 7 )


現在が延長をも内部的構造も欠く一点の点に過ぎぬならば、この帰結は避け難いであろう。点は存在する他の何ものかの限界としての意義しか有せず、しかもこの場合現在によって区画さるべき筈の「将来」も「過去」も実は存在せぬ以上、時は本質上全く虚無に等しくなければならぬであろう。a


しかしながらかくの如きは体験における時を無視して客観的時間のみを眼中に置く誤った態度より来る誤った結論に過ぎないのである。時を空間的に表象することは、客観的時間の場合には避け難き事であり、従って現在を点として表象する事も許される事、b


又特に時を数量的に取扱はうとする場合には避け難き事であらう。しかもかかる考え方の覇絆を脱すべく努めることが、時の真の理解に達しようとする者にとっては、何よりも肝要なる先決条件なのである。現在は決して単純なる点に等しきものではなく、一定の延長を有し又一定の内的構造を具えている。c


体験においては、時は一方現在に存するともいひ得るが、しかも他方において、その現在は過去と将来とを欠くべからざる契機として己のうちに包含する。現在は絶え間なく来たり絶え間なく去る。来るは「将来」よりであり、去るは「過去」へである。c


将に来たらんとするものが来たれば即ち存在に達すればそれは現在であるが、その現在は成立するや否や直ちに非存在へと過ぎ去り行く。この絶え間なき流動推移が時である。かくの如く将来も過去も現在を流動推移たらしめる契機としてそれのうちに内在する。d


ここでは生じるはいつも滅ぶるであり、来るはつねに去るである。動き生きるということが現在の、また従って時の、基本的な性格である。時のある限り流動は続き従って現在はいつも現在であるが、これを解して時そのものは不動の秩序乃至法則の如きものであり動くは単に内容のみと  d


考えるのは誤りである。内容に即して現在は絶えず更新されて行く。主体の生の充実・存在の所有として、現在は内容を離れて単独には成立ち得ない。むしろ内容に充ちた存在こそ現在なのである。内容と共に絶えず流れつついつも新たなのが現在である。(ibid s 8 )


 
 

 

 

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3月3日(日)のTW:#無、#場所、#西田幾多郎

2013年03月04日 | Myenzklo

RT @Nishida_Kitaro: 私が無の場所というのは、一般概念として限定せられないという意味に過ぎない。(「左右田博士に答う」)


春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に出で立つ少女         大伴家持(おおとものやかもち)         (万葉集・4139)フォレスタ - うれしいひなまつり: youtu.be/MhPe3AkjgKc @youtubeさんから


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