海と空

天は高く、海は深し

4月12日(金)のつぶやき

2013年04月13日 | Myenzklo

(承前)心中天網島は、この世の倫理規範が成立している世界と、その向こう側の地獄の美世界の両方を描いていて、主人公(とくに男)がそのもう戻れない境界線を渡るところが素晴らしく美的に描かれていた。かつどっちの世界が良いとも言ってない。この踏み越えの感覚を近松は描きたかったに違いない。

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それは独立の個体性が先ず脱却しなければならない内容で、当初の形式としては単に形式的で皮相な擬人という形式をとっている。この単なる自然力を退け、対立と抗争を通じてこれを超克することこそ、古典的な芸術がそれによって実現されうべき重要な点である。(ibid s 1137 )


崇高の芸術の根底にある世界観では、またある程度はインドの場合にさえも、それ自身独立に完成した、感覚性を超越した神が万物の始元であったが、今吾々の問題とする段階では、諸々の自然神、しかもなによりも先ず自然の普遍的な諸力が発端になっている。・・・これらが先ずあってそこからはじめて a


ヘリオスなどのような、より明確な諸力が生成し、それが後の精神的に個体化された神々の自然的な基礎となる。ここに想像によって案出され、芸術によって型態化された神統系譜論と宇宙生成論が出てくる。然し、そこに登場する最初の神々は、一方では直観の対象としてはっきりと規定されるに至らない。b


それらの諸力は、第一には大地や精神に関する威力であって、精神的・人倫的な内容を欠き、従って無拘束であり、奇形で粗野猥雑ものである。・・・自然の生命は実際に「時」の力に従っており、ただ刻々に移ろいゆくものを生じせしめるだけだからである。c美学vol.Ⅱs1139


一つの民族も歴史以前の時代にはただ一つの自然発生的・血族的共同体であって、国家を成すに至らず、何らの確然とした目的を追究せず、「時」の没歴史的な威力に委ねられている。【掟が出来、人倫が定まり、国家が成立するに至って、はじめて人類の消滅流転の内に存続する、aする】以前にも


確固たる基礎が定立されるようになる。古典的芸術形式の初段階の本質をなすものとしておいた変形の否定的な関係が、この芸術形式の本来の中心点となる。ここでは一般に擬人という形で神々が表象され、その前進の運動は人間的で精神的な個体性に向って押し進められる。b


しかし、本質的な進展は自然から精神へ、――古典的芸術にとって真の内容であり、本来の形式である精神へと向うものである。この進展と、その成り行きを認めるよすがとなる種々の闘争は、新しい神々が古い神々に対する永続的支配を確立するための闘いの場において展開される。ibid s 1147


※ヘーゲル哲学の論理的な進展の核心は、自然から精神へ、とおいう移行であるが、それは、法哲学においては、家族から市民社会へ、さらに国家への移行として現れる。家族は、感情や血縁や愛であるが、国家は、自覚的な法律的な公共生活であり、人倫生活である。国家の本質が中心的なテーマである。


※現代の一般的な憲法の本質論は、国家権力の制約説として認識されている。しかし、憲法の本質はそのような低い理解の段階に止まるものではない。憲法は、以前に考察したように、自然憲法と実定憲法の差違を、別な観点から言うなら、理性憲法と悟性憲法の差違としても捉えられなければならない。


※ここでの論考の課題も、悟性的な憲法の典型でもある現行の日本国憲法をアウフヘーベンして、理性的憲法へと憲法改正を図ることが課題であることは言うまでもない。絶対を課題とする哲学は、理性としての国家、ヌースとしての国家に到達するまでは終息することはない。この課題を追究するのは法律家


ではなく哲学者である。確かに現在の安倍内閣は従来の凡庸な歴代内閣の総理大臣に比して、戦後の日本国の国家体制の悟性的な性格を誰よりもよく認識している。しかし、まともな哲学者をブレインとしても持たない、自民党政府が構想した改正日本国憲法草案は、明治憲法の足許にも及ばない。


なぜ、こういうことになるのか。現代日本の政治家一般の思想的な貧困、哲学の貧困が根本原因である。戦後の日本国憲法の三大原理の、平和主義、国民主権(民主主義)、基本的人権、個人主義などの法思想の背景をなす根本的原理である、「法実証主義」を克服する論理を誰一人として持たないからだ。


現実的歴史において、ソ連邦、東ドイツ、アルバニアその他共産主義諸国の消滅によって、マルクス主義諸国家の歴史的な崩壊と破綻は、現実によって証明されている。しかし、その哲学的な論証は未だなされているとは言い難い。現実によって証明されたものを論理で確証することが哲学の仕事である。


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4月10日(水)のつぶやき

2013年04月11日 | Myenzklo

神託の本質的な点は、ただ次の一事にある。即ち古典芸術においては・・・自然現象がそれ自身としてあがめられることは、もはや無くなり、神々自身が知と意志の主体として、自然現象を通じて人間にその叡智を告示するのである。(ibid s1134)※ヘーゲルはやはり深い。「神託」の概念をa


もっとも良く説明している。¥神々が神意を啓示するために使った表徴は、おおむね至極単純なものであった。・・デロスでは月桂樹がざわめくのも、同様の意味をもっていた。が、かような直接の自然音の外に人間自身も、正気を失ったり激しい興奮に駆られたりして、悟性の冷静な思慮をそなえた状態からb


神懸かり的熱狂の自然的状況へ移る限りでは、神託を語るものとなる。デルポイの巫女ピュティアが靄のために気が遠くなって、神託の言葉を語ったとか、トロポロニオスの洞穴の中で、神託を問い求める人が幻影を見て、その解釈から答えを得たとかいうのはその例である。(ibid s1135 )


(ロ)神託の外的表徴にはもう一つ付け加えるべき第二の面がある。神託においては神は全知者であると信じられ、従って知の神アポロンの神託がいとも霊験あらかたなものとされるのであるが、然し、この神がその意志を告知するのは、所詮、自然の声とか、言葉の脈絡無き音とかいうような、全く無限定のa


自然的形式においてである。このように型態が不明確であれば、これに込められた精神的内容そのものも曖昧であり、従って解釈と説明を必要とする。(ハ)この説明は、はじめは単に自然的形式において与えられた神の告示を精神的に解して意識にもたらすものであるが、それにも拘わらず、やはり曖昧で b


二重の意味をもっている。なぜなら神の知と意志の向うところは具体的普遍性であり、神託によって啓示される勧告や命令も同様のものでなければならないが、普遍者は一面に偏した抽象的なものではなく、ある一つの面とそれとは別の面をあわせ含んでいるからである。神託が古典的芸術の内容の一面をなしb


重要性を持ったものとなるのは、彫刻においてでは無く、詩、とくに劇詩においてである。然し、古典的芸術では人間の個体性がまだ最高度の内面性を達成するにいたらず、主体が純粋に自発的に行為への決断を下すに至らないので、神託がやはり一つの本質的要素としての地位を保持している。1137


1137注**周知の如く「良心」は『精神現象学』や『法哲学』における一つの基本概念であるが、『哲学史』においてもヘーゲルは「何が正しいものであるかを知ること(Wissen)」が「良心(Gewissen)」と呼ばれると規定し、ギリシャ人がなおこの「良心」をもっていなかったことを a


指摘している。けだし彼等はまだ純粋に自己の確信に基づいて決意する精神の域に達しなかったのである。b1244※やはりヘーゲルは理論的能力の研鑽には不可欠の対象ある。すべからく、この目的のもとに行なわれるべきものである。これは西行の和歌やバッハの音楽の解釈の基礎を得るのに有効である。


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4月9日(火)のつぶやき

2013年04月10日 | Myenzklo

彫刻は神々をその真の型態において感覚的直観に呈示する点で、古典的芸術の本来固有の中心をなすものであるからだ。もっとも詩は、彫刻が神々のその安らかに自足した客観性に於て表現するのとはちがって、神々と人間について感じるところを語り、a〔美学Vol.Ⅱ1133〕


あるいは神々の世界と人間の世界をその活動と運動の相において描き出す点で、芸術的表現を一層完全にすることになる。b (ibid s 1133 )


吾々もここでは、まだ形式を備えていない、蕪雑な自然力の場合から考察を始め、それがいくつもの段階を経て個体的な精神性に達し、確固たる型態に凝結するにいたる経過を示さなければならぬ。・・・神託は、神々の知と意志を、なお無型態のまま自然の存在物を通じて告示する物である。 s.1133


※ギリシャ神話からキリスト教の神への人間の神に関する思想の深化、発展の過程を、抽象的普遍から具体的個別への進展として捉える。これは、ヘーゲルの発展の論理の基本的な定式である。この基本的な論理は、次のようにも説明されている。「理想への本来全く必然的な進展は、自然のごく抽象的な a


精神的諸関係の、はじめは皮相的であった擬人が、それ自体においては従属的な消極的なものとして克服され、抑圧され、この貶めを通じて独立の精神的な個体性とその人間的な型態や行為が揺るぎなき支配権を得るようになることにある。(s1134)※新約聖書の福音書に於けるイエスキリストの生涯とb


ギリシャ神話や古事記などに於ける神の描写を比べてみれば、キリスト教が神を人間として、精神として明確な個別的具体的な普遍として捉えている点に、大きな差異のあること、そこに認識の深化と発展を見ることは難くない。こうしてヘーゲルは美術の歴史の中に、人類の宗教思想の発展を確認している。c


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4月2日(火)のTW:#肉体、#精神、#芸術、#哲学、#詩

2013年04月03日 | Myenzklo

人間の肉体は、その全ての形状から見て、精神の栖であり、しかも精神の唯一の可能な自然的存在相であるという点にある。それ故、精神も肉体においてのみ他者に対して直接にあたえられている。・・単に自然的な面と精神的な面との相違を消去して、肉体の外形を美しい型態と化せしめ、b


徹底的に完成された、有心化された、精神的生命に充ちた型態に転化させることこそ、芸術の課題なのである。1100 哲学が自由な思考の形式における絶対者の意識であるのに対して、芸術は感性的直観の形式における絶対者の意識である。1224注


円熟の域に達した芸術はその表現のために必然的に人間の外面的現象という形式を採らなければならなかったのであって、それというのも、精神はこの形式においてのみそれに房わしい存在相で自然の感覚的素材の内に実現され得るからである。以上、人間の肉体とその表現についてのべたと同様の関係が a


人間の感情や衝動や所為や出来事や行動についても認められる。これらの人間的な現象の外面も古典的芸術においては、単に自然の生命相に属するものとしてではなく、精神的なものとして特徴づけられ、内容の面が外面と十分に相通じるものとして一体化されるのである。1101


ギリシャ神話の多種多様な諸観念の歴史的な研究は吾々の当面の課題ではないということである。ここでは吾々はただ上述の改造の本質的契機を、それが実際に芸術的形成とその内容との一般的諸契機となっている限りにおいて、問題とするのである。これに対して、限りなく夥しい特殊の神話や物語や史伝、a


一定地域や象徴的表現に関する諸事項は、それらも皆新しい神々の世界でもなおその存在権を保持し、芸術的諸形象の上に付随的に現れては来るけれども、吾々が我々の方針に従って到達しようとする本来の中心点に属するものではない。(ibid s 1133 )


本来の中心点とは、美の理想が純粋に完成された形で実現される場合をさす。芸術形式の「」形成過程を辿るにあたっても、これが究極的な目標となる。1242注


彫刻は神々をその真の型態において感覚的直観に呈示する点で、古典的芸術の本来固有の中心をなすものである。もっとも、詩は、彫刻が神々をその安らかに自足した客観性において表現するのとは違って、神々と人間について感ずるところを語り、あるいは神々の世界と人間の世界を  a


その活動と運動の相において描き出す点で、芸術的表現を一層完全にすることになる。※ここでもヘーゲルは芸術様式として、彫刻よりも詩を高い段階に位置づけている。――吾々もここでは、まだ形式を備えていない、蕪雑な自然力の場合から考察を始め、それが幾つもの段階をへて個体的な精神性に達し、b


確固たる型態に凝結するに至る経過を示さなければならぬ。第一に吾々の注意を要求するものは神託で、これは神々の智恵と意志をばなお無形態のままに自然の存在物を通じて告示するものである。第二の主要点はは普遍的な自然力に関係するものであり同時に又真の精神的な個体としての神々の根底に c


その母胎として存し、神々の生成と活動の必須の前提条件となっている正義その他の抽象的観念に関わるものである。最後に第三点としてあげるべき、理想への本来全く必然的な進展は、自然の活動やごく抽象的な精神的諸関係の、はじめは皮相的であった擬人が、それ自体においては従属的な、 d


消極的なものとして克服され抑圧され、この貶めを通じ独立の精神的個体性とその人間的な型態や行為が揺るぎなき支配権を得るようになる。この変化が古典的な神々の成立史における本来の中心点をなすもので、それはギリシャ神話では新旧両神族の闘争という形で素朴に、明白に表現されている。1134


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4月1日(月)のTW:#自然、#精神、#人間、#肉体、#動物

2013年04月02日 | Myenzklo

こうして全く本然的に自立する自由絶対の意味をもつものは、絶対者をもって内容とし、精神的主観性をもって形式とする自己意識である。この自己規定的な、思考し意欲する意識の力に比べれば、他の全てのものはただ相対的で一時的な自立性を有するにすぎない。美学Ⅱ中(s1090 )


自然の感覚的現象、太陽、天空、星辰、植物、動物、岩石、河川、海岸などはただ抽象的に自己自身に関わっているだけで、たえず他の存在物と共に移ろいすぎてゆくことを免れず、従って有限の表象にとってしか自立性を有するものとはみなされない。それらにはまだ絶対者の真の意味は現れていない。a


自然はもとより外に現れてはいるが、実は外的存在の相においてであるに過ぎない。その内面は内面それ自身として自存しているのではなく、多彩多様な現象へ放散されており、従って自立性を欠いている。具体性と自由性と無限性とをもって自己自身に関わっている b


精神においてはじめて真実絶対の意味が本当に開示され、その現実的存在の内に独立自存しているのである。このように絶対的意味が直接的感覚に与えられたものから脱却して独立自存するものと成るところの道程において、吾々が出会うのは、想像が崇高性を帯び神聖化の作用をなす場合である。c


一体、絶対的意味を持つものは、何よりも先ず。感覚性を超絶して思考する絶対の一者である。この一者はひたすら絶対者としての自己にかかわり合い、従ってその創造した他者である自然や有限者一般を、確たるよりどころを内具していない。(ibid s 1092 )


それは全て存在物を超越し支配する客観的な力として表象された普遍者それ自体である。この一者が被造物に対してこれを空しいものと観ずることもあれば、汎神論的意味でそれ自身積極的に被造物に内在するものとして意識され表現されることもある。これらの見方には二通りの欠陥がある。1093


第一に、本来の意味で個体性と人格性を持つに至っていない。従って、精神として把握されない。・・・精神だけをその内面として現出せしめ、それ自身精神の外化や実在相に成っている。第二に、絶対者が抽象的で、本当の意味で具体的な型態として現出させることが出来ない。1098


ひとり人間の型態のみが精神的な内容を感覚的なかたちで啓示することができるからである。・・人間の外形は動物のようにただ自然の、生命を持っているものであるに止まらず、それ自身のうちに精神を反映する肉体なのである。・・一般に人間のすべての型態を通じてその人の精神的性格が表現される。a


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