永遠なものであり、神的なものだからである。道徳(Moralität)、人倫(Sittlichkeit)、信仰(Religiosität)がそれである。s62 ※よく言われることだけれども、ヘーゲル哲学には「個人」がないなどと言った、とくに実存主義からする批判がどれだけ的はずれの
ものであるかが、この個所のヘーゲルの論述からも良く分かる。ヘーゲルは続けて言う。「個人を通じての理性目的の実現ということを述べた際にも、その個人の主観的な側面、個人の関心、すなわち欲望、衝動、主張、洞察というようなものの関心は、たとえ形式的な面ではあるとしても、それ自身は
充たされなければならない無限の権利を持つものである事は述べておいた。」「普通に手段という時には、それはさしあたって目的に対して本質的な関係を持たないところの、目的に対しては単に外面的なものと考えられている。けれども実際は、手段として利用されるものは自然的な事物一般でも、
否、最下等の無生物さえも、目的に適合するという性質を持ち、目的と共通な何かを中に持っているのでなければならない。人間がこういうような全く外面的な意味で理性目的の手段になるということはまずない。人間は理性目的を充たすと同時に、またこの理性目的を切っ掛けに、内容上は理性目的とは異なる
市民の私的関心が国家の一般的な目的と一致し、一方が他方の中に自分の満足と実現とを見いだす場合に、国家は自己の目的の歴史的実現から見て繁栄し、国家自身としても強力になる。―――このことは極めて重要な命題である。けれども国家が合目的的なものを意識するに至るまでには、a
合目的的な施設と長期にわたる悟性の闘争とを伴う多くの準備と画策とが必要であり、その一致が実現されるまでには個別的な利益と情熱(Leidenschaft)とに対する多くの闘争、困難な長い間の教育が必要である。そのような一致は国家の全盛期であり、その徳その力幸福を謳歌する時代である。
世界史は人間の個々の集団の場合のように、ある意識的な目的に基づいて起こり始めるのではない。人間の単純な共存の衝動でさえ、人間の生存と所有との保全という意識的な目的を持っている。そして、この共存が実現されるとともに、その目的はさらに拡張される。a
・・・・この目的は内的な衝動であり、もっとも無意識的な衝動であって、世界史の全事業はこの衝動を意識にまで高めようとする努力に他ならない。【歴史哲学上 s52】
そこには我々が主観的な面と呼んだもの、すなわち欲望、衝動、情熱、個別的関心、ならびに意見と主観的観念が自然存在の型態、自然意志の型態をとって現われるが、それらは自立的なもの、個別的なものとしてある。これらの無数の意欲、関心、活動性は世界精神がその目的を達成し、a
この目的を意識に上せて実現するための道具であり手段である。この目的はただ自分を発見し、自分を自覚し、自分を現実性として直観する事に他ならない。(ibid s 52 )
個人と民族との生命は各自自身の目的を追求し、その満足を求めながら、同時により高いもの、より以上のものの手段と道具になっているが、彼等はこのより高いものについては何も知らず、無意識にそれを実現している。(ibid s 52 )
我々の信念は、理性が世界を支配するのであり、したがってまた世界史をも支配してきたという主張に立っている。他の一切のものはこの絶対的な普遍と実体に従属するものであり、それに奉仕するものであり、その手段である。またこの理性は歴史的な存在の中で、またその存在を通じて自分を完成する。a
これらの欲望や関心がこの目的に関して無意識であるとしても、普遍は特殊的な目的の中に内在するのであり、これらを通して自分を完成させているのである。今若し精神の内的な、即自向自的にある行程を必然的なものと見、これに対して人間の意識的な意思の中に、
人間の諸々の関心として現われるものを自由の領域にあるものとすれば、上の問題は自由と必然との合一という形式を採ることにもなる。この二規定の形而上的な連関、言い換えると概念の中における連関は論理学に属するものだからここでは詳論できない。(ibid s 53 )
【理念】理念が無限の対立に進展する過程は哲学の中で示される。対立とは、自由な普遍的型態の理念、すなわちあくまでも自分の許に存在するという型態の理念と、形式的な向自有、自立的な個々の存在であるところの全く抽象的な自分への反省としての理念、すなわち精神に属してはいるが、 a
形式的自由に過ぎず、自我であるところの、全く抽象的な自分への反省としての理念との間の対立である。それゆえに普遍的な理念は一面では実体的な充実としてあるが、他面では自由な恣意という抽象としてある。この自分への反省(自由な恣意)は個別的な自意識であり、
一般に理念に対立する理念の他者であって、そのために全くの有限性の形を取る。まさにそれ故にこの他者は普遍的絶対者に対しては有限性、規定性である。それは絶対者の定有の面であり、その形式的実在性であり、また神の栄光のための土壌である。この有限性から一般にあらゆる個別的なものが出て来る。
※ここでヘーゲルが念頭に置いているのは、言うまでもなく、普遍的絶対的な存在としての神と個別的具体的な存在としての人間との関係である。個別的な個人は神の栄光のための土壌である。この個人は神の理念に反する、特殊的な存在でもある他者でもある。だからそれは現象のレベルにある。
自分の現前に現われる存在を自分の特殊的な性格、意欲、恣意にうまく適合するように持ってゆき、その現前の存在の中で自分自身を享楽するものは幸福である。けれども世界史は必ずしも幸福の地盤ではない。活動性は普遍的なもの、内的なものを客観性の中に移し入れるところの媒介者である。s54
普遍的理念の直接的な現実性への実現と、個別性の普遍性への高揚は、最初は両面相互の差別と無関心という前提のもとで行われる。行為者の活動は有限目的、特殊的な関心に由って動く。しかし、行為者は知識を持つ者であり、思考する者である。従って彼等の目的の内容は、法、善、義務などの a
普遍的な本質的な使命と結び付いている。というのは、単なる貪欲、粗野な意欲、生の意欲は世界史の舞台の外に、世界史の圏外にあるものだからである。この目的であると同時に行為の指針であるところの普遍的な原理は一定の具体的な内容を持っているものである。個々個人はその身分を持っていて、b
一般に正当で、身分相応の行儀作法というものは心得ている。日常の私生活の場合には、国家の法律と風習に由って決定されている。(ibid s 56 )※ここでの議論を具体的に述べれば、現在の国家の普遍的な理念として掲げられる代表的なものは、自由や民主主義、平等、と言ったものが c
すぐに思い浮かぶ。それは、具体的には「憲法」に由って、具体的に規定されているものである。例えば、現行日本国憲法の基本的な理念としては、自由主義、民主主義、国民主権、平和主義、などとして明らかにされている。もちろん、改正憲法もこうした基本的な理念を受け継ぎ、深化させるものである。
問題は、現行日本国憲法がその欠陥故に、その国家概念の歪みとしてどのように現象しているかを、証明し論証してゆく仕事が残されているという事である。とくに、国家の真の在り方としては、「核武装、自主防衛」の憲法的な立場が必然的に帰結する。現行日本国憲法は、属国主義の帰結として存在する。
【理性の狡知】情熱の特殊的関心と普遍的なものの実現とは不可分のものである。というのは、普遍的なものは特殊的な、特定の関心とそれの否定の結果として生じるものだからである。特殊的なものは、互いに闘争して、一方が没落してゆくものに他ならない。対立と闘争に巻き込まれ、a
危険にさらされるのは普遍的な理念(イデー)ではない。普遍的理念は侵されることなく、奪われることなく、闘争の背後にきちんと控えている。そしてこの理性が情熱(Leidenschaft)を勝手に働かせながら、その際に損害を被り、痛手を受けるのはこの情熱に由って創り出されるそのものだと、
言うことを、我々は理性の狡知(List der Vernunft)と呼ぶ。とういのも、それは一面では空しいものでありながら、他面では肯定的であるという現象に他ならないからである。特殊的なものはたいてい普遍的なものと比べると極めて価値の低いものである。だから、個人は犠牲に供せられ、
捨てられる。つまり、理念はこの生存と無常との貢ぎ物を自分では納めることはしないで、個人の情熱に納めさせるのである。【個人の価値】我々は個人の目的とその満足が、こんなにも犠牲に供せられ、その個人の幸福が一般に偶然性の王国――幸福はこの王国に属するものである――の支配に
委ねられているのを見て、諸々の個人を一般に手段のカテゴリーの下に考察して満足するとしても、個人の中には最高の存在に対する場合と同様に、このような手段の観点だけから見ることを躊躇させる一面がある。何故なら、それは絶対に従属の位置に立たないものであり、個人の中における
けれども、この上に述べたような自由という言葉はそのままでは不明確で、極めて多義的な言葉であるということ、自由は至上のものであるのに、実にいろいろな誤解や混乱や誤謬を伴い、またあらゆる逸脱の可能性を含んでいると言うこと、――この事が今日ほどよく知られ経験された時代はなかった。s45
※この個所の記述からも分かるように、自由がヘーゲル哲学の核心的概念であることは明らかである。ただ問題は、この自由をヘーゲルの概念として、正確に把握し得ているかが問題である。ヘーゲル哲学の読解の目的は、この自由の概念の的確な把握にあるといってもいい。歴史の目的としての国家も、
もちろん、自由を目的としている。ヘーゲルに言わせれば、全歴史が自由を目的とし、宗教的に言えば、神の究極の意志という事になる。>><<
自由はそれ自身、まさに自分を意識し、――というのも、自由はその概念上自分についての意識であるから、――それによって自分を実現するという無限の
必然性を含んでいるものである。すなわち、自由は自由が実現する当の目的であって、また、精神の唯一の目的である。事実またこの究極の目的は、世界史の営みの目標となったのであり、地上の広大な祭壇の上で、また長い時間の経過の中で、この目的の前に、あらゆる犠牲が捧げられたものである。s45
自由が世界に実現するための手段の問題は、我々の歴史の現象そのものの中に導く。自由そのものはさしあたって内的概念であるが、これに対して手段は外的なものであり、現実的なものであって、歴史の中で直接我々の眼前に立ち現れるものである。歴史を一瞥して直ちに感じられることは、a
人間の行動が欲望、情熱、興味のみがその推進力として現われ、主役として活躍するものだということである。なるほど、そこでは一般的目的、善の意志、崇高な愛国心というようなものもあるにはある。けれども、これらの徳や一般的目的は世界と世界が創り出すものに比べると言うに足りないものである。b
確かに、我々はこれらの個人自身の中に、またその活動の分野の中に理性の使命が実現されているのを見ることもできる。しかし、それらは人類の大多数に比べると言うに足りない。またそれらの徳の占める範囲も比較的に小さな部分に限られる。これに反して、諸々の情熱、特殊な関心の目的、c
利己心の満足は強力なものである。それらは、法や道徳が加えようとするどんな制限も眼中に置かないこと、またこれらの自然力の方が人為的な、退屈な秩序や節制、法や道徳の訓育よりもずっと人間に身近いものである点で力を持っている。我々がこの情熱の演劇を見物し、その情熱の暴行の成り行きを d
単に情熱に結び付くだけではなく、善良な意図、合法的な目的をさえ伴っているような無分別の成り行きを眼の当たりに眺め、そのような情熱から災害や罪悪が生まれ、人間精神の創り出したもっとも華やかな帝国の没落がそこから来るのを見るとき、我々はこの有為転変にただ哀愁の情を感ぜざるをえない。e
そこで我々の民族と国家型態、ならびに個人の徳行のもっとも立派なものが被った不運をそのまま集め集合して、これらの情熱の結果を世にも怖ろしい画面に描きあげるのであるが、それによって我々の感情は何とも深刻な、やるせない悲嘆のどん底に沈めさせられる。実際このような悲嘆に対しては f
どんな結果も我々を宥めてくれる力を持たない。・・・けれども、我々が歴史を諸々の民族の幸福、国家の智慧、個人の徳が挙げて犠牲に供せられる屠殺台であると見るときにも、この膨大な犠牲は一体何者のため、如何なる究極的な目的のために捧げられたのであるかという疑問が必然的に頭に上ってくる。g
ここで我々はこの観点からして、あの世にも怖ろしい画面を展開して我々に憂鬱な感情を起こさせ、それについての瞑想的な反省を起こさせた諸々の出来事をひとえに手段の世界と見たのである。我々はここに歴史の絶対的な究極的目的、世界史の真の成果に対する手段を見ようとするのである。h
※こうしたヘーゲルの歴史観をどう考えるか。彼は世界の目的に「自由」を見いだし、実際の世界史の展開を、諸々の国家、民族の荒涼悲惨たる歴史を、理念実現のための「手段」として見る。しかし、こうした歴史の見方をどう考えるか、単純に承認できるものではないだろう。とすれば、それに代えて、i
どのような歴史観があるのかを明らかにする必要があるだろう。まあ、もう少しヘーゲルの主張するところの歴史観を検討してゆくことに主眼を置こう。批判はそれからである。j【理念実現ための手段】
※現在の個人的な見解としては、共産主義の「階級闘争史観」には当然同意できるはずもない。それは私が共産主義者ではないからであり、また同時に、共産主義の必然的な帰結として生じる反日主義が、また歴史の一面しか見ていない虚偽の歴史観であるからである。課題は全面的で客観的な歴史観である。
我々が原理、究極目的、使命、または精神の本性、精神の概念と呼んだものが、単に一般的なもの、抽象的なものに過ぎないということである。原理、原則、法則は内的なものであって、たといそれ自身において如何に真なものであっても、それ自身としては本当に現実的なものではない。(s48)
※ここにもヘーゲル哲学の特色が現われている。単なる抽象は真実ではない。それが現実化され具体的に展開されてこそはじめて真実なものであるという認識である。単なる可能性、sollen は無力であり、真実なものではない。この認識はヘーゲルにおいては一貫している。
目的、原則などは我々の思想の中にあるものであって、まだ現実の中にあるのではない。即自的なものは一個の可能性、単なる能力にすぎず、内面から出てまだ現実存在になっていない。それらが現実のものとなるためには、第二の契機が加わらなければならない。それは、実行と実現であり、その原理は a
意志であり人間の活動である。概念、まだ潜在的な使命が実現され、現実化されるのはじつにこの人間の活動に由るのである。それら概念を活動させ、それに存在を与える働きをするのは、人間の欲望、衝動、性向であり情熱である。私が在る物を働かせを、それを存在させることは、私の大切な役目である。b
私はその努力をしなければならない。私はそれを成し遂げることによって満足を得ようとする。主観がその活動と仕事によって自分自身に満足を与えることこそ、主観の無限の権利である。人間は何かに関与すべき場合には、それに没頭し、そこに自分自身の自己感情の満足を見出さなければならない。c
或る事のために働くものは、単に抽象的に関わるのではなく、個別具体的な物に関わるのである。或る事に関わって活動している個人が同時に自分をも満足させるのでなければ、何事も起らず、何事も遂行されない。それらの個人は具体的で個別的特殊な人間である。彼等は彼等特有の、特殊な欲望、衝動、d
関心をもつものである。これらの欲望の中には利己的な欲望や意志の欲望のみではなく、また自身の洞察、確信、或いは見識、意見に基づく欲望もあるのであって、そこにすでに分別、悟性、理性の欲望の兆しが見られるのである。人間が或る事のために活動する必要のある場合には、そのことが気に入り、e
善い物だ、正しい物だ、利益があり、有用な物だという意見を持ってそのことに当たることを要求する。それは人間が信頼や権威とかによってほとんど動かされる事がなくなり、自身の悟性、自立的な確信と見解によって自己の活動の役目を果たし、事柄に寄与するようになった現代の本質的な特徴である。50
世の中のどんな偉業も情熱無しには成就されなかった。ここに二つの契機が我々の対象になってくる。その一つは理念で、他は人間の情熱である。一方は我々の眼前に拡がっている世界史という大きな敷物の縦糸であり、情熱はその横糸である。そしてこの両者の具体的な中間であり結合であるものは、a
国家の中の人倫的自由(die sittliche Freiheit im Staate)である。(ibid p 50 s 38)