自由はその中に二種の規定を持つ。一つは自由の内容、自由の主観性―――つまり事柄そのものの面である。今一つは自由の形式の面であるが、そこでは主観が自分の活動についての意識を持たなければならない。と言うのも、自由は主体がその中で(darin)自己を知る内面的原理と、a
そこで自己のことを行うその場面(dabei)との二つを必要とするものだからである。そうして結局その事柄を成就するという主体の関心が問題でなければならない。以上の点から見て、現実の国家の持つ三つの要素(司法、立法、行政)または三つの力を考察しなければならない。詳細は法哲学による。b
悪を善に、善を悪にひらりひらりとひっくり返して、特殊なものを何もかもぐらつかせる弁証法において、結局最後に残るものといえば、内面性そのものの純粋な活動、精神の抽象的な要素、すなわち思考そのものい他ならない。【歴史哲学】(s 301)※この思考の原理が現実の政治に歴史的に a
はじめて貫かれたのが、「フランス革命」であり、また、その遺産を引き継いだのが「ロシア革命」であった。いずれも思想が政治革命の原理となったのであるが、同時に「思想」の、あるいは「思考」の持つ抽象性が、ちょうど核爆弾の閃光の抽象性のように、あらゆるものを殲滅し尽くそうとした。b
ヘーゲルはその生涯に青年時代に、隣国フランスで起きた「フランス革命」を体験したが、同時にこの革命の凶暴性についても、その論理的帰結を把握していた。その破壊的な論理的帰結は、「ロシア革命」においても、毛沢東中共の「文化大革命」においても、またカンボジアの「ポルポト革命」においてもc
繰り返された。「もともと思考は一切のものを普遍性の形式において考察するものであって、思考は普遍者(自我意識)の活動であり、普遍者が作り出す働きである。」「思考の中では自我は自己の眼前にありありと現れるのであり、思考の内容、思考の対象も全面的に現れる」(ibid s 301 )
「私が思考する場合、私は対象を普遍性にまで高めないではおかない。そしてこのことこそが絶対的な自由に他ならない。というのも、純粋な自我は、純粋な光と同様に、完全に自分自身のもとに(bei sich)あるものだからである。それゆえ純粋自我(思考)にとっては、対象が感性的なものか a
精神的なものかという区別は、もはや怖れるに足りない。なぜなら、純粋自我はこの場合でも、それ自身としては自由であり、自由な気持ちでこの区別に対処できるからである。実践的関心は対象を使用し、これを消費し尽くしてしまう。これに対して理論的な関心は、対象はもともと自分とは相異なる、
相容れない存在ではないという安心感を持って対象を考察する。それゆえに、内面性の究極的な頂点は思考である。人間は思考しない場合には自由ではない。なぜなら、その時には人間は他のものに関わっているからである。ところで、このような把握は、
すなわち、もっとも内的な自己確実性をもってする他者の把握は、そのまま宥和の意味を持っている。すなわち、そこには思考と他者との統一が即自的に、もともと(an sich)存在しているのである。というのも、理性こそが意識(自我)のみならず、また外的存在、自然的存在の両者の
実体的な根底をなすものだからである。この意味で、我々と対立するものも、もはや彼岸ではなく、我々と違った実体的性質を持つものではない。(ibid s 302 )※ここで述べられている「宥和」の境地は言うまでもなく、ヘーゲルの処女作「精神現象学」において到達した境地、
「絶対知」の立場である。ヘーゲルの全哲学はこの基礎の上に築かれる。彼の哲学の論理は一貫していて、芸術においても、歴史においても、宗教においても貫かれている。「思考」は深く傷つけるものであり、また癒すものでもある。そして哲学史において「思考の原理」の登場が、啓蒙と革命の時代である。