海と空

天は高く、海は深し

7月3日(水)のTW:#「政権と教権との抗争の結果」

2013年07月04日 | Myenzklo

〔c、政権と教権との抗争の結果〕一方ではドイツ皇帝がイタリアにおいて神聖ローマ皇帝の称号を自分のものにしようとしたが、他方イタリアの政治の中心はドイツにあった。これら二つの国は繋がりあっていたが、決して一つになることはできなかった。ホーエンシュタウフェン家の盛時には、


フリードリッヒ・バルバロッサ Friedlich ・Barbarossa のような英傑が王位の威厳を保っていた。皇帝の権力は彼によって輝かしい光を放った。彼はその人格によって臣下の諸侯を心服させることができた。しかし、ホーエンシュタウフェン家の歴史がどんなに輝かしいものであっても


その歴史は結局のところ、この王家とドイツ帝国との悲劇に終わり、また教会との争いも精神的には何ら偉大な成果をも挙げることなく終わった。確かに、各都市は皇帝の権威の承認を強いられ、都市の代表者たちはロンカリア会議の決議の遵法を誓った。しかし、彼らがそれを守ったのも、


彼らに圧力が掛けられていた間だけだった。その義務はただ剥き出しの圧力によるものだった。話によると、皇帝フリードリッヒ1世(バルバロッサ)が都市の代表者に、君らは平和条約に誓いを立てたではないかと詰問したとき、彼らは「確かに、しかし我々はこれに遵うことを誓ったわけではない」と


答えたとのことである。その結果として、コストニッツの平和会議(1183年)においてフリードリッヒ1世は、彼らにドイツ帝国に対する臣下の義務だけは破らないという条項を認めさせることはできたが、都市住民たちに相当の独立を認めなければならなかった。――皇帝と法王との間の叙任権争いは、


1122年にハインリヒ5世(HeinrichⅤ)と法王カリクストス2世(CalixtusⅡ)との間に次のような妥協が成立した。すなわち、叙任については皇帝に王笏を、法王は指輪と法杖を持つことになったのである。また、司教の選挙には皇帝または皇帝の使節の臨席のもとに司教評議会の手で


行われることとなった。そしてまた、皇帝は司教を期限付きの世俗の封建領主に任命するが、僧籍上の位階の叙任については法王の手でこれを行った。こうして世俗の王と聖界の法王との長い間の抗争は終決したのである。(ibid s 236 )


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7月2日(火)のTW:#「教権と政権との矛盾」

2013年07月03日 | Myenzklo

この教会的権力そのものが今では世俗的権力になっていたが、ローマ皇帝がキリスト教世界の元首であること、すなわち、dominium mundi 〔世界の主権〕を握っているということ、したがってすべてのキリスト教の諸国家はローマ帝国に属するものであるから、正当で妥当な要求である以上、a


諸侯はみなローマ皇帝に服従すべきであるということは理論上も争う余地はなかった。歴代の皇帝も誰もこの権威に疑いを差し挟むようなことをしなかったが、だからといって、皇帝らも自らこの権威を振り回すほどに愚かでもなかった。そのれほど権威の実体は空しいものとなっていた。b


それでも、このローマ皇帝という虚名も彼らにとっては未だ、その権力を傾倒して、それもイタリアに出向いて行って獲得し名乗るだけの価値のあるものには思われた。特にdie Ottonen オットー諸帝は古代ローマ帝権の後継者として自覚していたから、ドイツの諸侯を糾合して、c


幾度となくローマ遠征を企てた。しかし、しばしば敗北して恥を忍んで退却しなければならなかったし、一方では、都市の賤民政治と豪族たちの横暴な統治からの救済をドイツ皇帝に期待していたイタリア人も、失望を味わうことになった。ドイツ皇帝をイタリアに誘い入れ、d


皇帝に援助を誓ったイタリアの諸侯もふたたび皇帝を見捨てたし、祖国の救済を先に期待した人達もやがては、自分たちの麗しい山河がゲルマンの野蛮人たちに荒らされ、自分たちのすぐれた風習が踏みにじられてしまったと罵り、自分たちの権利と自由も、皇帝が裏切ったからには総て失ってしまうと言ってe


非難を浴びせるように成った。なかでもダンテDanteが皇帝に加えた苦情と非難は感動的であり深く人の心を打つ。(ibid s 234 )※ヘーゲルの生きた時代からすでに200年を経過しようとしている。その間に二つの世界大戦があり、欧州は今では政治的統合を深めて、


彼の生きた時代と大きく様変わりしている。この歴史講義に見るように、彼の生きた時代には未だ神聖ローマ帝国の時代の刻印が全ヨーロッパに深く残されていた時代であり、それが彼の生きた「現代史」であった。私たちの生きる現代史は、欧州は世界史の舞台から一歩退き、一方で、20世紀において


ソビエト連邦との冷戦に勝利して、世界的な覇権を恣にしてきたアメリカ帝国にも、ベトナム戦争、イラク戦争、対テロ戦争を通じてようやく翳りが生じ、それを補うかのように、中華帝国が世界史の舞台に再登場して、退潮し始めたアメリカに代わって西太平洋を我がものとすべく食指を動かしはじめた。


そうした中華帝国にとって最大の障害になっているのは、ユーラシア大陸の周縁に中華を取り囲む塹壕のように位置する日本である。共産中華帝国はこの障害を取除くことなくしては太平洋に進出できず、アメリカ帝国と世界の覇権を分け合うことも出来ない。共産中華帝国にとっては21世紀はこうして、


ふたたび中華の覇権行使に最大の鬼門である日本をいかにして処分するか、が課題になる。共産中華帝国はかっての元寇の時代のように、高麗朝鮮を先兵に日本の攻略をたくらんでいる。かくして13世紀後半の鎌倉時代に起きた「元寇」の歴史がふたたび繰り返される。現在の尖閣諸島への


中国海鑑船の領海侵犯がその端初である。習 近平の専制君主国家中華にとっては、かってそうであったように今もなお日本は鬼門である。元寇で国力を消耗した元朝がやがて日本との抗争に破れ、元朝が国内の腐敗と堕落によって崩壊したように、共産中華帝国も、自壊の宿命を辿るのかもしれない。


それは未来の歴史に属する。
〔b、この抗争の含む矛盾――法王権に対するホーエンシュタウフェン家の抗争〕このドイツのイタリアに対する第一の関係と時代を同じくしたのは、偉大なシュワーベン人であるホーエンシュタウフェン家(die Hohenstaufen)によって戦われた


イタリアに対する戦争である。それはすでに独立したものとなった教会の世俗的権力を、ふたたび国家の支配下に置こうとするものであった。法王の椅子も今や一つの世俗的権力であり、世俗的支配権にすぎなかった。だから皇帝は法王の選挙権と世俗的支配権への介入に対して、a


自分にはもう一つの高い権利があると主張した。これまでの皇帝たちが戦ったのも、この国家の権力のためであった。しかし、彼らは法王の持つ世俗的権力を宗教的権力とも見なし混同して、他方でこれに屈服していた。したがってこの戦いは永久の矛盾でもあった。ちょうど仲裁人の登場する復讐劇のようにb


仲裁人そのものが敵になった。だから復讐劇はいつまでも終わらなかったのである。皇帝が法王と戦うための武器であった権力、それは皇帝の臣下である諸侯であったが、この諸侯は皇帝の敵である法王にも二股を掛けていた。それに諸侯の第一の関心は国家からの独立という野心であったから、c


皇帝が諸侯に味方して都市市民に対抗してくれるという特別の利益がある限り皇帝に味方したが、教会の世俗権力が権威をのさばらせたり、皇帝が諸侯に対して自らの権威を主張するような場合は、この諸侯たちは皇帝を見限ったからである。 d(ibid s 235 )


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7月1日(月)のTW:#「教権と政権との抗争」

2013年07月02日 | Myenzklo

主は輸出入品にことごとく高い関税を課し、道路通行の安全保障の代金として通行税を課した。ところがやがて、これらの自治体が強力になるに連れて、自治体はこれらの一切の権利を領主から買い取るか、あるいは強引に奪い取った。都市はこうして自分の裁判権を手に入れ、また租税、関税その他の


課税から解放された。しかし、皇帝や地方の諸侯のために接遇のための費用を負担するという制度は長く続いた。商工業者たちは様々に異なる権利義務を持つ同業組合に分かれていった。また司教選挙の際にはそうして組織された様々な党派が諸権利を獲得するのに役だった。しかし後には市民と教会の間に、


つまり司教や修道院長との間に多くの争いが起きた。いくつかの都市では僧侶が主権を握り、他の都市では市民が主権者となって自由を獲得した。ケルンでは司教の支配から解放されたが、マインツでは未だ司教の支配を受けていた。しかし多くの都市は次第にその勢力を増して、ついには自由共和国となった。


こうしてこれらの都市は貴族に対して独自の関係に立つことになった。貴族たちははじめは都市の団体に加入し、例えばベルンの場合のように自分たちも組合に入っていた。そうして貴族たちはこれらの都市のなかで特権を主張し、その支配権を握ることになった。これに対し市民たちはそれに反抗して


統治を自分たちの手中にしてしまった。今では富裕な市民たちが貴族たちを押しのけてそれに代わった。しかし貴族の間にも党派の分裂があり、特に皇帝に属するギベリン党と法王に味方するグェルフ党との分裂があったように市民の間にも分裂が起きた。勝利を得た党派は破れた党を政権から追い出した。


また門閥貴族に対して現われた都市貴族も一般民衆の参政権を奪ったし、民衆の福祉を考えることの無かった点では本来の貴族と何ら変わらなかった。都市の歴史は政権を担った党派が市民のどの部分を代表しているかによって、政治組織の絶え間ない変更の歴史となった。


はじめの間は市民からなる委員会が市の役人を選挙したが、このやり方では選挙に勝った方の勢力が強大であったから、不偏不党の役人人事を実現するためには他の土地の者を裁判官や行政官に選ぶしかなかった。時には他国の諸侯を市の主権者に選んでこれに統治権を託するということもあった。


しかしこうした制度も長くは続かなかった。それらの諸侯はやがてその主権を自己の野望や情欲の満足のために乱用し、またその権力何年も経たないうちにも剥奪されてしまう。このように都市の歴史は、一方では悪らつな人物や実に公明正大な人物が入れ替わり立ち替わり現われて、尽きない興味を与えるが、


他方ではあまりにも定石通りの年代記にも成りすぎて退屈な面もある。こうして都市にはその内部にそうした不安と転変萬化の波乱があり、党派の間に抗争がありながら、他方では産業と海洋貿易の隆盛を見るとき、我々は驚かざるをえない。ここにあるものは実に、


ともに同じ一つの生き生きとした生命の原理であり、こうした内部の争乱に揉まれ養われてこそ、都市のそうした繁栄も外に現れ来るのである。
(ibid s 233 )


〔7、教権と政権との抗争〕a、教会と都市とに対する諸侯の抗争―神聖ローマ帝国:今我々はすべての国々の上にその権力を拡した教会と、合法的な組織をようやく手に入れはじめたばかりの都市とを、諸侯と豪族に対する反動勢力と見た。そして今度は、この二つの新興勢力に対して諸侯の反抗が起きた。


すなわち、皇帝が法王と都市との闘いに参戦するようになったのである。皇帝はキリスト教世界の元首ということになっていたが、それに対して法王は教会的権力の元首と見られていた。(ibid s233 )


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