第ニ篇 哲学的エンチクロペディー
緒論
一
エンチクロペディーはもの諸学の全範囲に互って、おのおのの各々の学問の対象とその対象の根本概念とを考察するものである。
二
一般的対象についての経験の多様が綜合されて、一般的諸表象の統一になったものと、対象の本質の考察から作り出された
諸々の思想とが結合して、ある特殊の学問が生ずる。
§3
経験的素材がこの結合の根拠となる場合には、経験的素材の結合は単なる、綜合的一般性に過ぎないから、その学問はどちらかと言うと記録的な性質(historische Art)をおびる。ところが、普遍的なものが根本規定と
概念の形式で先行し、七特殊的なものがその普遍的なものから導き出されることになると、その学問は本当の意味で学問的性質(Wissenshaftliche Art)をもつことになる。
§四
それぞれの学問の特殊性を構成する諸々の認識の分野には絶対的な限界というものはない。
なぜなら、各々の一般的または具体的な対象はその種または部分に分けられることができ、その種がそれぞれ特殊な学問の対象として考察されるものだからである。
§五
普通のエンチクロペディーでは、現存の諸学がありのままに経験的に取り上げられる。いろいろの学問がその中に網羅されるべきである。
さらにまた類似のものや共通の規定の点で一致するものは、それぞれ類縁に従って括って、秩序づけることが必要である。
§六
けれども。哲学的エンチクロペディーは、概念によって規定された必然的な関連を問題にする学問であり、諸学の根本概念と原則の哲学的由来について論ずる学問である。
§七
哲学的エンチクロペディーは元来、哲学の一般的内容の叙述である。というのは、諸々の学問にあっては理性に基づくものは哲学に依存するものだからである。これに反して任意な、外的な諸規定を問題とするような学問、言い換えるといわゆる実証的な、あるいは制定的な学問や単なる経験的な学問は
哲学の圏外にある。※ここで、ヘーゲルは「制定的な」という言い回しで彼が何を言わんとしてるかと言うならば、要するに哲学的認識というのは概念から演繹的に論じられなければならないということを言おうとしている。ただ問題は事柄を演繹的に論じる方法と能力を獲得することである。それが科学だ。
§8
諸々の学問はその認識方法から言えば経験的であるか、純粋に合理的であるかである。しかし、絶対的に見れば、両者は同一の内容を持つべきものである。単に経験的に知られたものを止揚して真なるものに、すなわち概念にすること、それを合理化し、それによってそれを合理的な学問に合一すること、
これが学問的努力の目標である。 ※ここでヘーゲルは「概念にすること」と言ってるけれども、こうした言い換えの箇所は、彼が「概念」という用語にどのような意味合いを持たせているのか、ということを理解する上で参考になる。要するに「純粋に合理的に」認識することが概念的認識ということである。
§九
諸々の学問は一方では経験的な面で、また一方では合理的な面で広がって行く。ところが、後者は、本質的なものをますます取り入れ、それを普遍的観点の下でみて、単なる経験的なものを概念とすることである。したがって、諸学の合理的拡張同時に哲学そのものの拡張ではある。
※ここでも実証的科学と哲学との違いが述べられている。形式的な面から言うならば、実証的科学が相当と対象を広げるのに対して、哲学は内へその対象を広げていくものだということが言える。つまり、前者は量的広がりであり、後者は質的な深まりを示すものである。(こうしたコメント
を加えていくことによって確かに哲学的修練の役に立つように思われる。 )
§十
学(哲学的学問)の全体は三大部門に分かれる。(1)論理学(Logik)。(2)自然の学(Wissenshaft des Natur)。(3)精神の学(Wissenshaft des Geistes)。
※以前に、この日本語の「学」、ヘーゲルのいわゆる「Wissenschaft」をどのように訳すべきか、を論じたことがある。この「Wissenschaft」「wissenschaftlich」こそへーゲル哲学の根本的特性を示す概念であるということである。概念からの演繹的展開こそが、
へーゲル哲学の方法、科学することそのものである。晩年のマルクスも資本論の研究においてこの方法によって、つまり資本の概念を演繹的に展開てゆくことによって、その概念を明らかにしようとした。真に科学を目指すものは、まず、この「Wissenschaft」の方法論を修得しなければならない。