海と空

天は高く、海は深し

1月25日(土)のつぶやき

2014年01月26日 | Myenzklo

第ニ篇  哲学的エンチクロペディー

緒論

エンチクロペディーはもの諸学の全範囲に互って、おのおのの各々の学問の対象とその対象の根本概念とを考察するものである。

一般的対象についての経験の多様が綜合されて、一般的諸表象の統一になったものと、対象の本質の考察から作り出された


諸々の思想とが結合して、ある特殊の学問が生ずる。
§3
経験的素材がこの結合の根拠となる場合には、経験的素材の結合は単なる、綜合的一般性に過ぎないから、その学問はどちらかと言うと記録的な性質(historische Art)をおびる。ところが、普遍的なものが根本規定と


概念の形式で先行し、七特殊的なものがその普遍的なものから導き出されることになると、その学問は本当の意味で学問的性質(Wissenshaftliche Art)をもつことになる。

§四
それぞれの学問の特殊性を構成する諸々の認識の分野には絶対的な限界というものはない。


なぜなら、各々の一般的または具体的な対象はその種または部分に分けられることができ、その種がそれぞれ特殊な学問の対象として考察されるものだからである。
§五
普通のエンチクロペディーでは、現存の諸学がありのままに経験的に取り上げられる。いろいろの学問がその中に網羅されるべきである。


さらにまた類似のものや共通の規定の点で一致するものは、それぞれ類縁に従って括って、秩序づけることが必要である。
§六
けれども。哲学的エンチクロペディーは、概念によって規定された必然的な関連を問題にする学問であり、諸学の根本概念と原則の哲学的由来について論ずる学問である。


§七
哲学的エンチクロペディーは元来、哲学の一般的内容の叙述である。というのは、諸々の学問にあっては理性に基づくものは哲学に依存するものだからである。これに反して任意な、外的な諸規定を問題とするような学問、言い換えるといわゆる実証的な、あるいは制定的な学問や単なる経験的な学問は


哲学の圏外にある。※ここで、ヘーゲルは「制定的な」という言い回しで彼が何を言わんとしてるかと言うならば、要するに哲学的認識というのは概念から演繹的に論じられなければならないということを言おうとしている。ただ問題は事柄を演繹的に論じる方法と能力を獲得することである。それが科学だ。


§8
諸々の学問はその認識方法から言えば経験的であるか、純粋に合理的であるかである。しかし、絶対的に見れば、両者は同一の内容を持つべきものである。単に経験的に知られたものを止揚して真なるものに、すなわち概念にすること、それを合理化し、それによってそれを合理的な学問に合一すること、


これが学問的努力の目標である。 ※ここでヘーゲルは「概念にすること」と言ってるけれども、こうした言い換えの箇所は、彼が「概念」という用語にどのような意味合いを持たせているのか、ということを理解する上で参考になる。要するに「純粋に合理的に」認識することが概念的認識ということである。


§九
諸々の学問は一方では経験的な面で、また一方では合理的な面で広がって行く。ところが、後者は、本質的なものをますます取り入れ、それを普遍的観点の下でみて、単なる経験的なものを概念とすることである。したがって、諸学の合理的拡張同時に哲学そのものの拡張ではある。


※ここでも実証的科学と哲学との違いが述べられている。形式的な面から言うならば、実証的科学が相当と対象を広げるのに対して、哲学は内へその対象を広げていくものだということが言える。つまり、前者は量的広がりであり、後者は質的な深まりを示すものである。(こうしたコメント


を加えていくことによって確かに哲学的修練の役に立つように思われる。 )
§十
学(哲学的学問)の全体は三大部門に分かれる。(1)論理学(Logik)。(2)自然の学(Wissenshaft des Natur)。(3)精神の学(Wissenshaft des Geistes)。


※以前に、この日本語の「学」、ヘーゲルのいわゆる「Wissenschaft」をどのように訳すべきか、を論じたことがある。この「Wissenschaft」「wissenschaftlich」こそへーゲル哲学の根本的特性を示す概念であるということである。概念からの演繹的展開こそが、


へーゲル哲学の方法、科学することそのものである。晩年のマルクスも資本論の研究においてこの方法によって、つまり資本の概念を演繹的に展開てゆくことによって、その概念を明らかにしようとした。真に科学を目指すものは、まず、この「Wissenschaft」の方法論を修得しなければならない。


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1月17日(金)のつぶやき

2014年01月18日 | Myenzklo

先日にツィートでたまたま【焼野のきぎす @kuzukazura】というツィートを読んでいた時、このツイッター主が「「みことのり」を読む」というサイトをもっていて、そこで明らかにされている憲法論や戦後民主主義観が私に近いように思った。また、そこで展開されている国家研究や


明治憲法研究などの論考も非常に優れていると思った。私自身はこれまでの経緯から、ヘーゲルの「法の哲学」の立場を支持しているけれども、またそこから、現行日本国憲法よりも大日本帝国憲法の優越性を、実定憲法に対する自然憲法の優越性と認めているが、この私の憲法観と佐藤雉鳴氏のそれと一致する


点は多いように観じた。サイト「「みことのり」を読む」で展開されている論考にも優れたものが多く、これからも学んでゆこうと思っている。もちろん、私の立場はこれまでの経緯から言っても、哲学の観点から、とくに、ヘーゲル哲学の研究の一環としての憲法研究、国家学と自然法の研究を目的として


いるので、もちろん「「みことのり」を読む」での憲法観や歴史認識がすべて一致するとは思わない。たといそうであるとしても、私の知る限りにおいては、私の憲法観、国家観にもっとも近い立場であることは推察できる。昭和初期から敗戦に至る国家主義国体論が、従来の伝統的な正統な、


井上毅や伊藤博文によって継承され、大日本帝国憲法として結実した国家観からの逸脱として捉える立場もほぼ同じである。また、論考を瞥見しただけで本格的な検証はまだ行なってはいないにしても、そこに示されている、例えば丸山真男の思想に対する評価なども、殆ど同意できるものである。


これからも、このツィートで、ヘーゲルの各種の文献の抜粋と並行して、この佐藤雉鳴氏のサイト『「みことのり」を読む』からも必要な抜粋をツィートしながら、勉強して行きたいと考えている。とくに、この立場からは全体主義や共産主義は両立しないものと思われる。ここにこれからも国家論や憲法論を


確立して行く上で、多くのものを学びうることが期待できる。とくに過去の経緯からも、西洋哲学に極めて偏ったまま、日本の皇室や民族宗教でもある神道や国学関連の知識や認識が貧弱で不足している現状を、改善してゆく上で大きな意義をもつだろうと思っている。


「政治に対する宗教の使命」では「立憲政治の美果は国民の宗教心の発露によりて結ばるるもの」だが、「余の云ふ宗教が基督教」を指すものであり、「断じて神道や仏教が主張する処の能力を政治の上に貢献するものとは思はない」と(吉野作造は)語っている。1 ※異聞草紙:新渡戸稲造の項


吉野作造の国典について述べた価値ある論文は見当たらない。国典理解が十分でないからこんな乱暴な言葉が出てくるのではないか。

新渡戸稲造が「尊ぶべき伝統の宝庫として、また太古の伝説の最高の解釈者として、神道は保守主義の砦である」と語ったことと比較すれば、 2


同じ基督者でもずい分ちがうものだと思わざるを得ない。吉野作造には井上毅のような天皇統治を正確に語った論文も見当たらない。

興味があるのは我が国基督者の国典理解である。そんな研究をしている人はいるのだろうか。 ibid


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1月16日(木)のつぶやき

2014年01月17日 | Myenzklo

「本居宣長の発見した我が国の道は、井上毅を通して帝国憲法に表現されている。それを蹂躙したのが矢内原忠雄のいう昭和戦前の国体論である。矢内原はこのからくりを、本居宣長を中心としてどう説明できるだろう。」佐藤雉鳴:皇国の基督者 p.tl/injT


・・・・迷路に入り込むだけではないか。本居宣長から井上毅、そして帝国憲法を理解せず、昭和戦前の憲法蹂躙という深刻な事態を分析もせず、「日本精神への反省」を語って自家撞着に陥っている。」佐藤雉鳴:皇国の基督者 p.tl/injT


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1月11日(土)のつぶやき

2014年01月12日 | Myenzklo

『入門』2014年平成26年1月11日(土)晴
§2我々の認識の第一の源泉は経験である。一般に経験にとって必須なことは、我々が或るものを自身で知覚したということである。しかし、知覚と経験とはまた区別されなければならない。まず第一に知覚は、今は偶然にこういう状態にあるが、(S23)


他の場合には異なった状態にあり得るところのただ一つの対象をもっている。ところが私が知覚を繰返し、その繰り返した知覚の中に、これらのすべての知覚の中で同じにあるところのものを認め、それをはっきりとつかむとき、これは一つの経験である。経験はまたいろいろの法則をもつ。


それはすなわち、一方が存在する時には何時でもまた他方が継起するというような二つの現象の結合を意味する。しかし、経験はただこういう現象の一般性を表わすにとどまり、関連の必然性は示さない。経験はただ、或るものがこうあること、またそれがどんな風にして起るか、またどんな形で存在しているか


ということを教えはするが、しかしまだ根拠(Gründe)または何故に(Warum)ということを教えない。そこで、例えば過去というような、我々がそれについて自分で経験することのできない非慈雨に多くの対象があるから、我々は他人の権威(Autorität)に


頼らなければならないことにもなる。我々が他人の権威に基づいて本当だと考えるような対象もまた経験対象である。我々は真らしい(wahrsheinlich)ところのものを他人の権威に基づいて信じる。我々は事実真らしくないものを、しばしば真らしいものと考える。しかし、


まさに真らしくないもの(das Unwahrsheinliche)こそが、しばしば、真なるもの(das Wahre)である。――とくに或る出来事は、我々がそれらについて自分で経験したいろいろの事情の帰結から、またそれらの事情の多様の関を通して証明される。だから、(S 24)


何かを物語る人々は信ずるに足るだけのもの(Glaubewürdigkeit)をもたなければならない。すなわち、事柄(Sache)についての知識をもち得るような事情にあったことが必要である。我々はその人の調子から、彼らの誠実さ、すなわち彼ら真面目なのか、それとも何かそれに


利害関係をもつのかを推定することができる。著作家が或る暴君の統治の下で執筆し、暴君に賛辞を呈するときには我々はこれがヘツライであることを知る。誰かがその中に自分を織り込んだ何事かを物語るのを聞くときは、我々はもとより彼が自分の利益のために物語っていることを知るだろう。


しかし、誰かが敵の良い性質とか行為を非常にほめている場合には、我々は言われたことをむしろ信ずるにちがいない。(S 24)


経験はそれ故に諸々の対象が如何なる状態にあるかと言うことだけを教えて、それらが如何にあらねばならないかということも、如何にあるべきかということも教えはしない。後者の認識はただ事物の本質または概念からのみ生じる。だが、この認識のみが真実なものである。我々は概念からして


対象の諸々の根拠を認識するのだから、法律的、道徳的、宗教的諸規定についても、概念を認識しなければならない。(S 25  )


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1月7日(火)のつぶやき

2014年01月08日 | Myenzklo

経験的な世界を思考するとは、本質的にその経験的形式を改めて、それを一つの普遍的なものに変えることを意味する。思考は同時にかの基礎に否定的な働きをなし、知覚された素材は、普遍によって規定される場合、最初の経験的型態にとどまっていない。殻が取り除かれ否定されて、知覚されたものの


中身が明らかにされるのである。神の存在の形而上学的な証明が、世界から神への精神の上昇の不完全な解釈であり記述である理由は、それがこの上昇のうちに含まれている否定のモメントを明白に述べていないからである。もし世界が偶然的なものであるとすれば、それは当然に無常なものであり、


現象であり、それ自身空無なものにすぎない。精神が神にまで上昇して行くということは、絶対の真理は現象の彼方、神のうちにのみあり、神のみが真の存在であることを意味する。この上昇は移行であり、媒介ではあるが、神を媒介するように見える世界はむしろ空しいものとされるのであるから、


それは同時に移行および媒介の揚棄でもある。世界の存在の空しさのみが我々を神へと引き上げる綱であり、したがって媒介者として存在していたものは消失して、媒介そのもののうちで媒介は揚棄されているのである。【小論理学§50(S192 )】


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1月6日(月)のつぶやき

2014年01月07日 | Myenzklo

その現存在がその概念と異なっているということが、しかもただこのことのみが、実際にあらゆる有限なものの本質なのである。これに反して神は明らかに「存在するものとしてのみ考えられるもの」でなければならず、神においては概念が存在をそのもののうちに含んでいる。小論理学§51


概念と存在との統一こそ、神の概念を構成する。――このような規定はもちろんまだ神の形式的な規定にすぎず、したがって概念そのものの本性を言い表しているにすぎない。しかし、概念が、まったく抽象的な意味においてもすでに、その内に存在を含んでいるということは極めて明らかである。a


なぜなら、概念は、その他どう規定されるにせよ、少なくとも媒介の揚棄によって生じるところの、したがってそれ自身直接的な、自己関係であるが、存在とはまさにこうした自己関係であるからである。――精神のもっとも内奥のものである概念が、存在というような貧しい規定、否、もっとも貧しい、 b


もっとも抽象的な規定すらその内に含まないほど貧しいとしたら、それは全く不思議と言わなければならない。(このことは自我についても言えるし、まして神のような具体的な統体についてはなおさら言えることである。)思想にとっては、内容から言えば、存在という概念ほど貧弱なものはない。 c


もっとも、もっと貧しいものがあるにはある。それは、存在と言うときまず思いうかべられるもの、すなわち私の目の前にある紙のような外的な感覚的存在である。しかし、有限で消滅しうる事物の感覚的存在というようなものを、この場合問題にしようという人はあるまい。(ibid s 197 )


―――とにかく、思想と存在とは別なものだというようなつまらぬ批判は、人間の精神が神の思想から出発して神が存在するという確信に到達する道を妨げることはできるかもしれないが、それを奪い去ることはできないのである。直接知あるいは信仰の見地は、a


この移行、すなわち神の思考とその存在との不可分を回復したものであるが、それについては後に述べることにする。b
(ibid s 197 )


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