海と空

天は高く、海は深し

11月28日(木)のつぶやき

2013年11月29日 | Myenzklo

第二章『イギリス選挙法改正案』
刻々変転してゆく現実の事態に関する政論であるから、執筆の期間を正確に決めておくことがそれを正当に評価するためにも、評価するためにも必要なことである。・・・この論文に直接の材料を提供したのは、右の官職に記載されている外国通信であるが、


その内時期的に比較的新しいのは、3月28日にウェリントンが議会で行なった演説である。・・以上の事実によって主要部分が書かれたのは、4月7日から14日であることになる。・・ヘーゲルがこの政論を書かざるを得なかった原因としては、(1)ヴェルテンベルグ人たる彼が若い頃から


イギリスの政治に多大の関心を抱いていたこと。(2)イギリスの選挙法改正案の直接の動因はフランスにおける1930年の所謂「7月革命」であったが、これはそれ自身一大転換期であって、彼自身もその重要性を認めていたこと。(3)法案の問題が政論二以降彼の苦慮を要した選挙法であり、


かつ議会の論議が団体主義か個人主義かという彼の関心をそそらざるを得ぬような経過をとったことである。ヘーゲルは当時のドイツにおける知英派の一人であるが、この事が彼の郷国ヴェルテンベルグの憲法にはイギリスのそれに似たものがあり、18世紀の90年代にフォックスが有名な賛辞を呈してから


チュンビンゲン契約をマグナカルタのなぞらえるのが郷国の人々のお題目になていたこと。チュンビンゲン大学の先輩で影響を及ぼしたピュターやシュピトラーはゲッチンゲン学派に属するが、ゲッチンゲン大学はハノバー選挙候国の大学であり、そのハノバアー選挙候は1714年以降ha同時に


イングランド王でもあったために、ゲッチンゲン学派には知英派の多かったことはすでに叙べたごとくである。また政論1の註解がすでに当面の政論のイギリス観の基本的な方向を示していたこと、政論二もヴェルテンベルグ地方議会をしばしばフランスの議会及びイギリスになぞらえて論じ、かつ前者より


後者を重んじ、ことに選挙法については「フランス的抽象」を斥けたこともベルリンに移ってからも、イギリスの新聞や雑誌などからの丹念な抜粋を残しており、これが当面の政論に対してはその予稿と同じ意義をもっている。ベルリン時代著作集:『イギリスの国家的法的生活について』


重要であるにもかかわらず、右に名をあげなかったのは、『ドイツ憲法論』とすでにベルリン時代に属する『法哲学』とである。確かに「ドイツ憲法論」では、イギリスについて言及されることは、むしろ希れであって、時折の言及も積極的なものではない。しかし、そこで国家にとって必要欠くべからざる


ものとそうでないものとが区別せられるとき、後者は国家にとって偶然的なものではあっても、民衆の「社会的結合」にとっては必要欠くべからざるものであり、これに関してはできるだけ自由主義が取られるべきであったが、この「社会的結合」が「法哲学」における市民社会に当たるものであり、


これについてはフランクフルト時代に丹念に研究したスチュアートの『国民経済学』の活かされていることすでに言ったごとくである。だからドイツ憲法論でも「社会的結合」に関してはイギリス観が働いているのである。ソシテ、イエナに移ってからは、さらにスミスの経済学を研究し、これが「人倫の体系」


や当時の「精神哲学講義」に現われている。かくして漸次精緻となっていったイギリス観が「」法哲学で市民社会の直観的規定をなすものである。(ibid s 327 )


ポリzは意この市民社会は「欲望の体系」をもって基底とするものでありするものであり、したがって基本的には経済社会である。第二段階は司法であり、第三段階はポリツァイと職業団体であるが、このポリツァイも先にも言ったごとくはなはだ包括的なる意味におけるものであって、日常必要品の品質の保証


その公価決定、道路や運河の開発、教育などを含むものであり、さらには資本の集中と大衆の貧窮化から来る救貧問題を担当し、そのためには一方では世界的通商と海外植民とを、他方では社会のギルド的再編成を行なうものである。『法哲学』はむろん正式には「イデーの自己展開」の立場よりされるものに


相違ないけれども、しかし、実際にはイギリス国家のイメージを活用したものであることは、例えば世界通商とか海外植民とかという当時のドイツには未だ見られない政策(ポリツアイ)によって疑うべくもない。だからイギリス国家はヘーゲルにとっては市民社会なのである。(ibid s 328 )


ところで『法哲学』は市民社会に外的国家とか必要国家とか悟性国家とかいう消極的規定を与え、はては人倫の喪失態と罵倒している。ここに政治国家が優位に立つ所以がある。しかし、市民社会の司法や独特の意味におけるポリツアイのことを考えると、国民生活の実質はほとんど市民社会に属しているから


むしろ市民社会こそ実質国家であって、政治国家はただ形式国家たるの観が深いことになる。のみならず、『ドイツ憲法論』における国家にとって必要欠くべからざるものと社会的結合のために必要欠くべからざるものとは権力と自由との関係にあり、そうしてこの関係は、所謂、弁証法的関係であるがゆえに


権力にたいする自由、普遍性の原理に対する特殊性の原理の高調せられるときには、市民社会は政治国家の枠を破って、むしろそれを自己のうちに包含し、首位に立つの観梨ともしない。むろん自由に対して権力、特殊性の原理に対して普遍性の原理も高調せられるのであるから、この点からすると、


ふたたび政治国家が市民社会を抑えて優位に立つことになるのは事実である。政治国家と市民社会とのこのような微妙な関係が同時に当面の政論における、ヘーゲルのイギリスに対する態度でもあって、ここで彼は一面で殆どイギリスを賛美するかに見えながら、すなわち具体的に言えば例えば


ウェリントンと同意見であるかに見えながら、やはりイギリスを非難し、フランスにおけると同じく当時のドイツにもあった「イギリス心酔」(アングロマニア)を抑え、王権の無力や「実質的自由」の組織的実現の欠如などを非難しようとするのである。そうしてイギリスに対する、このような微妙な態度は、


イギリスに選挙改正を惹起した直接の動因であるところの」フランスの七月革命と彼との関係に通ずるものをもっている。(ibid s 329 )


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11月27日(水)のつぶやき

2013年11月28日 | Myenzklo

政論四は時期的に『法哲学』に接している。その副題は『自然法と国家学』であるが、この政論と同じ一七年の冬学期にはハイデルベルグ大学において、ヘーゲルは右の副題の講義を行なっている。この関連からいえば、当面の政論は彼が己の国家観を密ならしめるための実験的操作であった。a


しかし、ヴェルテンベルグは彼が構想しているような本格的独立国家ではなく、そこに混乱の生じたのは、すでに言ったごとくであって彼が自分の国家観を完成するには、より強大な国家に就く必要がある。この点において彼がプロシャに移ったことは重大な意義を持つものであるが、


すでに同一七年の一二月二六日には、プロシャの文部大臣アルテンシュタインは、彼をベルリン大学教授に招聘する書簡を送っていた。(1)ヘーゲルがプロシャに移ったことは決して変節ではない。確かに政論三では、彼はプロシャに対して激しい反感を示しているが、しかし1806年のイエナ政権以後の


プロシャはシュタイン・ハンベルグの改革によって変貌を遂げて、彼の構想するような国家となりつつあったのである。政論四がいかなる成果を挙げたかというに、これには、一九年に成立した新憲法の内容を知ることが必要であるが、グルペによると、それはおよそ次の如きものである。


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11月26日(火)のつぶやき

2013年11月27日 | Myenzklo

かくヘーゲルは選挙に関しては団体主義を取るために、王案に比して却って反動的のように見えるのは事実であるけれども、しかし、自治団体や裁判所や職業団体の役員選挙という下級選挙に関してはフランス的方法に意義を認めることによって、すなわちその補充権を拒否することによって特権打破の態度を


貫いているのである。
政論二においてヘーゲルを苦しめた選挙法問題はここに彼としては一応最終的結論に達しているが、それだけにまたすでに政論三にも潜在的にあった議会の規定がここに明確に現われている。それによると、議会は「君候と民衆との間の媒介機関」


(das vermitelnde Organ zwishen Fürst und Volk)である。だからまた自治団体や職業団体の役員に被選挙権・選挙権を与えるということは、それらの団体に政治的な意義を与え、国家のうちに編入することを意味する緒であり、またこれと同時に、


団体の内部では自治を承認し奨励することは、政論の主張したごとくであろう。論旨の第四は国家と歴史との関係である。フリードリッヒ王が15年10月16日の勅書において欠陥の多い旧憲法に基本的な変更を加えることなくして、それを新ヴェルテンベルグまで及ぼすことは出来ぬと説いたのに対して


古法党の指導者ボリーは答辞において民族は歴史を奪われるわけには行かぬといったことを捉えて、ヘーゲルは民族は国家をなしてのちに始めて歴史を持つのであって、それ以前には歴史を持たぬと言うべきであろうと反論している。つまりヴェルテンベルグはフリードリッヒ王によって始めて


独立国家となったのであるから、それ以前には奪われる歴史も待たないということなのである。ここには晩年の「歴史哲学講義」に見られるところの「歴史は国家から始まる」というテーゼの形成せられつつあることが示されているが、それでは国家の歴史は基本的にいかなる段階を持つかというに、政論の


三の結論がこれを示している。そこでは再建されるべきドイツ国家の組織が説かれるのであるが,しかし、またこの組織によって先立って権力的英雄による統一が要求せられている。すなわち民族はまず英雄の権力的支配によって統一づけられて外部への独立を獲得し、その後漸次内部の組織を整えてゆくという


二段階があるわけである。この段階づけは理論的には『法哲学』の対外主権と対内主権の区別になるものであるが、かかる二段階の観点から、ヘーゲルフリードリッヒ王の事業を見て、憲法原案の公布までは対外主権確立の時期であり、そうして原案の公布によって対内組織を整えてゆく時期に


移ったというのである。そうして彼はまさにかかる立場から古法党の国家契約説をも批判している。君候と民会とが契約を締結するということは、君候が皇帝の封臣、いな陪臣すなわちボヘミヤ封臣であったときにのみ意義を持つことである。なぜなら、その時にはもし違反があれば、皇帝に


また帝国最高裁判所とか帝室裁判所とかに提訴し、その判決を求めることができたからである。しかし今や皇帝なく帝国なく、ヴェルテンベルグは独立国家となったのであるから、国家契約説は効力を持たぬというのである。(ibid s 315 )


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11月25日(月)のつぶやき

2013年11月26日 | Myenzklo

第一章 国王の憲法
時代はヴェルテンベルグに新しい課題とこれの解決への要求とをもたらした。その課題とはヴェルテンベルグ地方を統一して一つの国家を形成するという課題である。これまでドイツ帝国は不合理な制度であると呼ばれ、その制度の不合理さは、少なくとも才気において煥発な一人の a


歴史家によって、「無秩序(アナーキー)を憲法化したもの」としてまことに正鵠を得た特色づけがなされたほどであるが、こうした不合理な制度もついにはそれ相応なそして外見的にも不名誉極まる終焉を遂げるに至った。その後、これによってかってのヴェルテンベルグは、b


以前の二倍以上に領土を拡大させたばかりではなく、かってはドイツ帝国の封土であった諸地方を含めてその領土の全体は従来の従属を断ち切って、君候が国王の尊厳を獲得するとともに、主権としての一国家の地位に上ったのである。すなわち、もともとドイツ帝国は単に帝国(ライヒ)という c


空虚な名前だけを保有するものに過ぎずして実際には存在しないものであり、そしてこの空席を充たしているものは現実のドイツ諸国家であったが、その内の一つを占めるに至ったのである。(s 10)「ドイツの国法学者は主権の概念と連邦規約の意義についてさまざまな著作を怠ることなく d


書き続けているが、偉大な国法学者はパリにいます。ドイツの諸侯は自由な君主制の概念を未だ理解せず、まして、この概念の現実化を試みてはいません。ナポレオンはこれらをすべてを組織づけなければならないでしょう。」「予は貴下の君主を主権者にしたのであって独裁者にしたのではない」235


フランス革命は全ヨーロッパを揺るがした。ドイツに英国に、澎湃として捲き起こる近代国家形成の動きをヘーゲルは情熱的に弁護する。・・明確に組織づけられた国家体制の歴史的な成立は数世紀にも及ぶ経過を辿っている。しかし、その中心をなす視点は極めて単純である。a


すなわち一方では中間項である貴族が持つ勢力と彼らの不遜な要求を抑制して、彼らに対する権利を国家をして得さしめようとする政府の努力であり、他方では、同じく中間勢力である貴族に対抗するとともに、時にはまた政府自身に対しても抵抗することによって自己の市民権を獲得しまたそれを主張するa


第三身分、そしてまたしばしば自らをもって国民と自称する人々の努力である。ここに一瞥すると、国家体制はさまざまのものの寄せ集めとして成立したように見られる。・・時代の精神的発展は国家の理念、したがって国家の本質的統一の理念を産み出した。・・特権打破という基本的意図をヘーゲルも  a


王案と同じゅうするものであるから、それに対して基本的な賛成を惜しまないのである。変容の理由は議員に要求されるべき能力と団体主義である。民衆は意思を持っていても、何を意思しているのか、何が自分たちにとってよいかも知れないが、これを認識するところに議会における使命があるのに、 b


財産とか年齢とか規定が直ちにかかる能力を、またこれを識別する能力を保障するものとは限らない。だから被選挙権人たるためにはもとより、選挙人たるためにも「ひとかどのもの」である事を、しかも公共的職務に関する意見、技能、徳性においてそうであることを試験済みのものであることを要する。a


だから選挙権が認められていないのにヘーゲルは反対して、今日の官吏はもはや昔のように朝廷の召使いではなく国家公務員としての職務上、もっともよく国家的感覚を鍛錬されているものであり、イギリスやフランスのごとき大国とはちがって官吏を除くと国家的感覚に富んだ有能の士を得る可能性が b


非常に少なくなるから是非とも官吏に被選挙権を認むべきであるとしている。・・議会が市民社会と政治国家との媒介機関たる所以があるのである。25歳とか30歳とか不動産収入200フロリンとかいう数的な規定では国民は各自孤立したアトム的個人の集合として取扱われているが、c


これがフランス的抽象というものである。かかる立場からでは議員の公共的国家的精神が保障せられえないことになる。議場に対立のあることは却って討論の有効にする所以でもあるが、しかし、対立も国家的統一の枠内に留まるべきである。・・しかし、およそ国家的制度に関しては、単なる希望や要請に d


留まることはできず、生起すべきものが現実に生起することを可能にする方法を選ばなくてはならないのであるが、かかる方法としては、右にいったごとく自治団体や裁判所や職業団体としての役員として試験済みであるものに選挙権、被選挙権を与えるという団体主義を取る外はないのである。313


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