海と空

天は高く、海は深し

12月20日(金)のつぶやき

2013年12月21日 | Myenzklo

国家組織の中心点は君主と国会である。国会をもって国家に不可欠のものとすることの近代性は自明であるが、君主については注意が必要である。すでに政論三においても、ヘーゲルが君主制に傾いているのは事実であるが、しかし、主権者を世襲君主に限ったわけではない。
(s 359 )


なぜなら、主権者の存在そのものは国家にとって不可欠ではあっても、主権者が単数であるか複数であるか、誕生によってその位置に就くか選挙によるかも国家にとって必要欠くべからざるものではなく、むしろ道でもよい区別であるとされており(上巻66頁)、


したがって共和制(上巻159頁)も肯定せられているからである。だから彼が世襲君主制に傾いたのは、ドイツの具体的事情による偶然であって、国家理論そのものからすれば必然ではないのである。(ibid s 359 )
※この個所の金子武蔵氏の注釈は、重要だろう。


世襲君主制と共和制については、悟性的にではなく理性的に判断されるときには、特定の国においては、「必然的に」規定されるのではないだろうか。つまり、我が国のような「個別具体的な特殊な国家」においては「必然的に」世襲君主制が帰結されるのではないだろうか。少なくともヘーゲルの「法の哲学」


においては、近代国家においては「立憲君主主義国家体制」の必然性については「論証」されているのではあるまいか。このヘーゲルの「政論」と「法の哲学」の関係についても、今一度検討される必要はある。金子氏自身はどこまで「法の哲学」を研究された上での発言であるのか、それはわからない。


私の今後の研究課題も、ヘーゲルの「法の哲学」の検証とその止揚を目的とした現代国家形態の概念についての証明が中心的な課題であることは予想されることである。


とにかく権力がある。これによって安全のために必要な限りの兵力と財力とが調達せられ、またこれに必要な法律と組織とへの服従が要求せられるのだから、強制のあるのはもちろんである。のみならず「国家」外の「社会的結合」への干渉もある。例えばかっての帝国都市(上巻187頁)に見られるごときa


なはだしいオリガーキーの跋扈するとき、また例えば工業が農業を不当に圧迫し農民が極端な貧窮に陥るというような場合(74頁)がそうである。しかし、対外的対内的に安全が保たれ、また特権や専横が打破せられることによってかえって自由が――ただし実質的自由―がある。だから政論三は b


「確乎たる統治は自由のために必要である。」(上巻185頁)とも、「代議団体なくしては、いかなる自由ももはや考えられない。」(同上)ともいっている。かくて権力による強制があり干渉があっても、これはむしろ自由のためのものであるが、これが注意すべき第二の点なのである。360


本来の国家目的にとって絶対に必要であるもの以外の職務――地方団体や職業団体の職務――はできるだけ国民の自由と自治とに委ねるべきであるのは、むろん基本的には、すでにいったごとく自由がそれ自体において神聖だからである。しかし、ヘーゲルはまた利益もあげている。利益としては、自治に、a


名誉職に委ねるときには運営費や人件費を支払わなくともよいこと、公務に従事することによって国民の知的道徳水準が向上すること、信頼されているところから国民の自敬の念が養成せられ、一朝ことあることには自発的献身を期待しうること、また国民が幸福と繁栄とを享受しうること(上巻75-78頁)


をあげている。しかし、かかる利益が「全能不敗の精神」(上巻78頁)を生むというに至っては、利益という相対的理由もいつしか「自由がそれ自体において神聖である。」という絶対的理由と重なり合い、両者間にはほとんど区別がなくなっている。このことは、ヘーゲルの「理性」なるものが a


経験主義や実証主義と相容れぬものでないのと同じく、功利主義との関係もまた同様であることを示しており、英訳の解説者Z.A.Pelcznski がベンタムとの類似を指摘するのも必ずしも理由なしともしない。かく「理性」の立場が利益の立場とも相容れぬものでないことに注意を促したく思うb


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12月19日(木)のつぶやき

2013年12月20日 | Myenzklo

主権者と国会という合法的なる権力の中心点を承認し、このもとに服属して「国民の自由」に転換しなくてはならないけれども、この時にそれは多様性という外国には見られぬドイツ国家の特徴をもたらすべきものなのである。(s 356 )


おのれのもとにあることであるには相違ないとしても、他のもとにあることに媒介せられて初めて真実の自由であり実質的な実在的な自由である。政論の実現せんとするのがこの自由であることはいうまでもない。しかし、それはかかる自由を正義心とか協同性というごとき倫理的な心情や行為によって a


実現せんというよりか、むしろ現実的な自由をまさに現実に可能ならしめるような制度の設定によってなさんとするものである。政論の目ざす自由は、心情や観念の上にとどまるものではなく、現実に効果をもたらすところのeffective freedom(ジョン・デューイ)なのである。b


しかるに国家における制度の根本的なるものは憲法であるから、いずれの政論も憲法批判を行なうのである。
批判は理性の立場からなされる。けだし実質的自由を得させるものは理性だからである。政論の四が「理性の権利にしたがって承認せられるもの以外のいかなるものも憲法においては有効なものとして


承認せられてはならない。」といっているのは、このことを示している。しかし、この理性はまさに理性であって悟性ではない。悟性がいかなる時代にも通じる原理・原則を立てるもの、またこれに終始して展開することのできないものであるのに対して、理性とは史的段階に即した原則を立てるのみならず、


さらにそれぞれの具体的状況にしたがって、それを展開し組織することのできるものである。ここに「史的段階」とは、フランス革命によって開始せられた時代――歴史哲学講義におけるクリスト教的――ゲルマン的時代に属する――であり、原則とは人権宣言において表明せられているようなものであるが、


このことは政論の四が基本的には賛成しているところのフリードリッヒ王の憲法原案のいかなるものであったかを想起するならば、疑うべくもない。しかし原則が一定の史的段階に属するものであるとしても、理性はこれに終始するものではなく、さらに具体的状況に即してそれを展開し


組織づけうるものであるが、このような理性の立場から政論は憲法批判を行なわんとするのである。 (ibid s 357 )※この個所からも、現行日本国憲法に対する根本的な批判を展開する場合の、必要な立場を再確認してゆく上でも有効であるだろう。現行日本国憲法がいかにして現実の


国家に歪みをもたらし、その不全を来しているかを論証する義務がある。現行の日本国憲法の軍備放棄条項にしても、私が少なくとも大学教授以上の批判的能力を形成することなくしては、すべては、犬の遠吠えになることを自覚しておく必要があるだろう。どのように徹底的に研究を組織立て、


体系づけてゆくか、その批判的な研究が本当に価値のあるものでありさえすれば、最終的には出版の道も開かれよう。いずれにしても、批判的な研究の水準を最高のものとしてゆかなければならない。


実質的自由を実現するために必要な、このような理性の立場から政論は憲法批判を行なわんとするものであるが、かかる立場から見れば数多くの古法がある。古法も、それが発足し、ないし制定せられた当時にあっては、それなりの「条件」なり「基底」なりをもっていたが、時代がもはや変わっている以上、


形式の上では確かに法であり、この限り肯定されるべきポジティーフなものであるに相違ないとしても、時勢が移り、それを乗り越えて進んでいる生きた現実から見れば、もはや国家をして国家たらしめず、それの目的であるところの実質的自由を抑圧するものとして、却って否定されるべきたるにすぎぬ。


いずれの政論も、このようなポジティーフなものを批判している。而して、ポジティーフなものが理性の立場からすれば法として存続し得ぬにもかかわらず、依然として法の効力を持つのは、それが一部のものの特権だからである。だから、いずれの政論も特権の批判であり、


特権打破の雄叫びをあげるものである。政論の一つはベルン共和制のじつはグラン・コンセイユを中心とする貴族制に過ぎぬことを、政論の二はベルテンベルグ公国の人権を無視した絶対君主制と民会幹部や都市当局の特権とを、政論の三は「ドイツ憲法」なるものが当代から見れば、


ドイツの国家でないのを宣言したものであることを、とりわけウェストファリアの和約は「国民の自由」ならぬ「議員の自由」に固執してドイツの没国家性(上巻153頁)を組織したものであることを、政論の四は旧民会幹部のブルジョワ貴族政治を、また書記の貴族政治を、政論の五は議会を支配する


地主貴族(ランロード)及びこれと結託せる国教会の特権を、それぞれ解明し批判せんとしたものである。この際解明の仕方は決して思弁的なものではなく、むしろ実証的経験的であって、ヘーゲルの「理性」が経験主義とも十分に調和しうべきものであることを示している。(ibid s 358 )


ヘーゲルの実玄実現せんとするのは、実質的自由であるが、しかし、彼は道義心に訴えるにと止まるのではなく、むしろしかるべき制度の設定に、したがってまた憲法の改正によってそれを実現せんとするのである。ところで改正には民意に訴えるだけではなく、国家権力が必要である。


権力の必要は政論三に至って初めて自覚せられたが、このさい我々は次の三つのことに注意するべきである。政論三は国家にとって絶対に必要なものと民衆の「社会的結合」(上巻七九頁)にとっては不可欠であっても国家にとっては必ずしも必要でないものとを峻別し、権力的に統一づけることは、


これを厳重に前者のみにかぎり、後者はこれをできるだけ民衆の自由と自治とに委ねるべきであるとしている。国家の目的は対外的対内的な安全を期することであり、したがって国家はこの目的のための兵力と財力とを備えることを、またこれらを調達するために必要な法律を国会との協同において


制定することを、調達し制定するための政府組織を持つことを必要とするものであるが、国家活動は厳重にこの範囲に留められるべきだというのがヘーゲルの意見である。だから彼は国家的統制を国民生活の隅々まで及ぼすべきだという、いわゆるetatismeを主張せんとするものではない。359


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12月18日(水)のつぶやき

2013年12月19日 | Myenzklo

自由がおのれのもとにあることには、依然として変わりがない。だから一見すると罵倒されるかのような観を呈する「ドイツ的自由」に対しても、実は無限の愛着をが抱かれている。確かにそれは生活と行動において自分の足だけで立たんとし、独立不羈で他との共同を拒否するものであるが、およそ人間は a


他との共同を拒否するものであるが、およそ人間は他との共同においてのみ存在しうるのであるから、無秩序を来たし、自分で自分を破壊する。だから形式の自由はあっても、実質的には自由ではない。形式的自由の一つであるかかる「ドイツ的自由」をヘーゲルが非難するのは言うまでもない。 c


それはゲルマン戦士の自由として、封臣の自由として、帝国議員の自由として、ドイツ民族をして近代国家を形成することを得させなかった宿命的なものである。しかし、そうかといってドイツ的自由がただ否定せられ抹殺せられるにとどまるべきものではなく、それはむしろ「止揚」せられるべきである。c


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12月17日(火)のTW:#自由、#わがまま、#形式的自由、#実質的自由、#疎外、#外化

2013年12月18日 | Myenzklo

しかるに私が私自身のもとにあるときには、私は自由である。かく自由とはおのれ自身のもとにあることである。これに相違ないとしても、これがこのままに留まる場合には、いわゆる「わがまま」であり、「形式的自由」であって「実質的自由」ではない。実質的自由はいわゆる「疎外」を、あるいは「外化」


を含み、これに媒介されたものであり、したがって他のもとにありつつ、あるいは他のもとにあることを通じて自己のもとにあることなのである。(s 355 )

 


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12月16日(月)のTW:#アリストテレス、#自由、#ヘーゲル、#ポリス、#フランス革命、#人権宣言

2013年12月17日 | Myenzklo

アリストテレスは「他のためではなく自分自身のためにあるところの人間が自由である。」(形而上学)といったが、これは人間をして自己自身たらしめるものが自由であるからである。ポリスの法制もまたこの自由に基づくことを意味している。すなわちポリスにおいて国民は討議、立法、司法、行政に参加 a


しうることになっているが、このような法制の形作られたのも、そもそも人間をして人間たらしめるのは自由にあるからである。ヘーゲルの場合も、国家にとって不可欠でないものについては、政府は国民の自治を認めるべきであると説くに対して、彼はそうする方が利益になるかならぬかは別としても、b


「自由はそれ自体において神聖である」ことを理由にしているからである。ただ時勢という点ではヘーゲルはポリスの法制をそのまま肯定しようとするのではなく、フランス革命当時の「人権宣言」の線にそうた法制を採用せんとするものである。とにかく政治の目的をもって人間の自由の実現にありとする c


ことによって、彼の政論は西欧的な、また近代的な性格のものとなっている。ヘーゲルは「歴史哲学講義」において、自由をもって「己自身のもとにあること」としている。「私が依存的である場合には、私は私でない他のものに関係しており、外的なものなしには、私は存在することができない。d


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11月28日(木)のTW:#ヘーゲル、#政論、#イギリス、#選挙法改正、#マグナカルタ

2013年11月29日 | Myenzklo

第二章『イギリス選挙法改正案』
刻々変転してゆく現実の事態に関する政論であるから、執筆の期間を正確に決めておくことがそれを正当に評価するためにも、評価するためにも必要なことである。・・・この論文に直接の材料を提供したのは、右の官職に記載されている外国通信であるが、


その内時期的に比較的新しいのは、3月28日にウェリントンが議会で行なった演説である。・・以上の事実によって主要部分が書かれたのは、4月7日から14日であることになる。・・ヘーゲルがこの政論を書かざるを得なかった原因としては、(1)ヴェルテンベルグ人たる彼が若い頃から


イギリスの政治に多大の関心を抱いていたこと。(2)イギリスの選挙法改正案の直接の動因はフランスにおける1930年の所謂「7月革命」であったが、これはそれ自身一大転換期であって、彼自身もその重要性を認めていたこと。(3)法案の問題が政論二以降彼の苦慮を要した選挙法であり、


かつ議会の論議が団体主義か個人主義かという彼の関心をそそらざるを得ぬような経過をとったことである。ヘーゲルは当時のドイツにおける知英派の一人であるが、この事が彼の郷国ヴェルテンベルグの憲法にはイギリスのそれに似たものがあり、18世紀の90年代にフォックスが有名な賛辞を呈してから


チュンビンゲン契約をマグナカルタのなぞらえるのが郷国の人々のお題目になていたこと。チュンビンゲン大学の先輩で影響を及ぼしたピュターやシュピトラーはゲッチンゲン学派に属するが、ゲッチンゲン大学はハノバー選挙候国の大学であり、そのハノバアー選挙候は1714年以降ha同時に


イングランド王でもあったために、ゲッチンゲン学派には知英派の多かったことはすでに叙べたごとくである。また政論1の註解がすでに当面の政論のイギリス観の基本的な方向を示していたこと、政論二もヴェルテンベルグ地方議会をしばしばフランスの議会及びイギリスになぞらえて論じ、かつ前者より


後者を重んじ、ことに選挙法については「フランス的抽象」を斥けたこともベルリンに移ってからも、イギリスの新聞や雑誌などからの丹念な抜粋を残しており、これが当面の政論に対してはその予稿と同じ意義をもっている。ベルリン時代著作集:『イギリスの国家的法的生活について』


重要であるにもかかわらず、右に名をあげなかったのは、『ドイツ憲法論』とすでにベルリン時代に属する『法哲学』とである。確かに「ドイツ憲法論」では、イギリスについて言及されることは、むしろ希れであって、時折の言及も積極的なものではない。しかし、そこで国家にとって必要欠くべからざる


ものとそうでないものとが区別せられるとき、後者は国家にとって偶然的なものではあっても、民衆の「社会的結合」にとっては必要欠くべからざるものであり、これに関してはできるだけ自由主義が取られるべきであったが、この「社会的結合」が「法哲学」における市民社会に当たるものであり、


これについてはフランクフルト時代に丹念に研究したスチュアートの『国民経済学』の活かされていることすでに言ったごとくである。だからドイツ憲法論でも「社会的結合」に関してはイギリス観が働いているのである。ソシテ、イエナに移ってからは、さらにスミスの経済学を研究し、これが「人倫の体系」


や当時の「精神哲学講義」に現われている。かくして漸次精緻となっていったイギリス観が「」法哲学で市民社会の直観的規定をなすものである。(ibid s 327 )


ポリzは意この市民社会は「欲望の体系」をもって基底とするものでありするものであり、したがって基本的には経済社会である。第二段階は司法であり、第三段階はポリツァイと職業団体であるが、このポリツァイも先にも言ったごとくはなはだ包括的なる意味におけるものであって、日常必要品の品質の保証


その公価決定、道路や運河の開発、教育などを含むものであり、さらには資本の集中と大衆の貧窮化から来る救貧問題を担当し、そのためには一方では世界的通商と海外植民とを、他方では社会のギルド的再編成を行なうものである。『法哲学』はむろん正式には「イデーの自己展開」の立場よりされるものに


相違ないけれども、しかし、実際にはイギリス国家のイメージを活用したものであることは、例えば世界通商とか海外植民とかという当時のドイツには未だ見られない政策(ポリツアイ)によって疑うべくもない。だからイギリス国家はヘーゲルにとっては市民社会なのである。(ibid s 328 )


ところで『法哲学』は市民社会に外的国家とか必要国家とか悟性国家とかいう消極的規定を与え、はては人倫の喪失態と罵倒している。ここに政治国家が優位に立つ所以がある。しかし、市民社会の司法や独特の意味におけるポリツアイのことを考えると、国民生活の実質はほとんど市民社会に属しているから


むしろ市民社会こそ実質国家であって、政治国家はただ形式国家たるの観が深いことになる。のみならず、『ドイツ憲法論』における国家にとって必要欠くべからざるものと社会的結合のために必要欠くべからざるものとは権力と自由との関係にあり、そうしてこの関係は、所謂、弁証法的関係であるがゆえに


権力にたいする自由、普遍性の原理に対する特殊性の原理の高調せられるときには、市民社会は政治国家の枠を破って、むしろそれを自己のうちに包含し、首位に立つの観梨ともしない。むろん自由に対して権力、特殊性の原理に対して普遍性の原理も高調せられるのであるから、この点からすると、


ふたたび政治国家が市民社会を抑えて優位に立つことになるのは事実である。政治国家と市民社会とのこのような微妙な関係が同時に当面の政論における、ヘーゲルのイギリスに対する態度でもあって、ここで彼は一面で殆どイギリスを賛美するかに見えながら、すなわち具体的に言えば例えば


ウェリントンと同意見であるかに見えながら、やはりイギリスを非難し、フランスにおけると同じく当時のドイツにもあった「イギリス心酔」(アングロマニア)を抑え、王権の無力や「実質的自由」の組織的実現の欠如などを非難しようとするのである。そうしてイギリスに対する、このような微妙な態度は、


イギリスに選挙改正を惹起した直接の動因であるところの」フランスの七月革命と彼との関係に通ずるものをもっている。(ibid s 329 )


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11月27日(水)のTW:#法の哲学、#自然法、#国家学、#プロシャ、#ヘーゲル

2013年11月28日 | Myenzklo

政論四は時期的に『法哲学』に接している。その副題は『自然法と国家学』であるが、この政論と同じ一七年の冬学期にはハイデルベルグ大学において、ヘーゲルは右の副題の講義を行なっている。この関連からいえば、当面の政論は彼が己の国家観を密ならしめるための実験的操作であった。a


しかし、ヴェルテンベルグは彼が構想しているような本格的独立国家ではなく、そこに混乱の生じたのは、すでに言ったごとくであって彼が自分の国家観を完成するには、より強大な国家に就く必要がある。この点において彼がプロシャに移ったことは重大な意義を持つものであるが、


すでに同一七年の一二月二六日には、プロシャの文部大臣アルテンシュタインは、彼をベルリン大学教授に招聘する書簡を送っていた。(1)ヘーゲルがプロシャに移ったことは決して変節ではない。確かに政論三では、彼はプロシャに対して激しい反感を示しているが、しかし1806年のイエナ政権以後の


プロシャはシュタイン・ハンベルグの改革によって変貌を遂げて、彼の構想するような国家となりつつあったのである。政論四がいかなる成果を挙げたかというに、これには、一九年に成立した新憲法の内容を知ることが必要であるが、グルペによると、それはおよそ次の如きものである。


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11月26日(火)のTW:#国家、#選挙、#法の哲学、#自然法、#国家学、#プロシャ、#ヘーゲル

2013年11月27日 | Myenzklo

かくヘーゲルは選挙に関しては団体主義を取るために、王案に比して却って反動的のように見えるのは事実であるけれども、しかし、自治団体や裁判所や職業団体の役員選挙という下級選挙に関してはフランス的方法に意義を認めることによって、すなわちその補充権を拒否することによって特権打破の態度を


貫いているのである。
政論二においてヘーゲルを苦しめた選挙法問題はここに彼としては一応最終的結論に達しているが、それだけにまたすでに政論三にも潜在的にあった議会の規定がここに明確に現われている。それによると、議会は「君候と民衆との間の媒介機関」


(das vermitelnde Organ zwishen Fürst und Volk)である。だからまた自治団体や職業団体の役員に被選挙権・選挙権を与えるということは、それらの団体に政治的な意義を与え、国家のうちに編入することを意味する緒であり、またこれと同時に、


団体の内部では自治を承認し奨励することは、政論の主張したごとくであろう。論旨の第四は国家と歴史との関係である。フリードリッヒ王が15年10月16日の勅書において欠陥の多い旧憲法に基本的な変更を加えることなくして、それを新ヴェルテンベルグまで及ぼすことは出来ぬと説いたのに対して


古法党の指導者ボリーは答辞において民族は歴史を奪われるわけには行かぬといったことを捉えて、ヘーゲルは民族は国家をなしてのちに始めて歴史を持つのであって、それ以前には歴史を持たぬと言うべきであろうと反論している。つまりヴェルテンベルグはフリードリッヒ王によって始めて


独立国家となったのであるから、それ以前には奪われる歴史も待たないということなのである。ここには晩年の「歴史哲学講義」に見られるところの「歴史は国家から始まる」というテーゼの形成せられつつあることが示されているが、それでは国家の歴史は基本的にいかなる段階を持つかというに、政論の


三の結論がこれを示している。そこでは再建されるべきドイツ国家の組織が説かれるのであるが,しかし、またこの組織によって先立って権力的英雄による統一が要求せられている。すなわち民族はまず英雄の権力的支配によって統一づけられて外部への独立を獲得し、その後漸次内部の組織を整えてゆくという


二段階があるわけである。この段階づけは理論的には『法哲学』の対外主権と対内主権の区別になるものであるが、かかる二段階の観点から、ヘーゲルフリードリッヒ王の事業を見て、憲法原案の公布までは対外主権確立の時期であり、そうして原案の公布によって対内組織を整えてゆく時期に


移ったというのである。そうして彼はまさにかかる立場から古法党の国家契約説をも批判している。君候と民会とが契約を締結するということは、君候が皇帝の封臣、いな陪臣すなわちボヘミヤ封臣であったときにのみ意義を持つことである。なぜなら、その時にはもし違反があれば、皇帝に


また帝国最高裁判所とか帝室裁判所とかに提訴し、その判決を求めることができたからである。しかし今や皇帝なく帝国なく、ヴェルテンベルグは独立国家となったのであるから、国家契約説は効力を持たぬというのである。(ibid s 315 )


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11月25日(月)のTW:#国王、#憲法、#主権、#国家、#選挙、#英国、#フランス革命

2013年11月26日 | Myenzklo

第一章 国王の憲法
時代はヴェルテンベルグに新しい課題とこれの解決への要求とをもたらした。その課題とはヴェルテンベルグ地方を統一して一つの国家を形成するという課題である。これまでドイツ帝国は不合理な制度であると呼ばれ、その制度の不合理さは、少なくとも才気において煥発な一人の a


歴史家によって、「無秩序(アナーキー)を憲法化したもの」としてまことに正鵠を得た特色づけがなされたほどであるが、こうした不合理な制度もついにはそれ相応なそして外見的にも不名誉極まる終焉を遂げるに至った。その後、これによってかってのヴェルテンベルグは、b


以前の二倍以上に領土を拡大させたばかりではなく、かってはドイツ帝国の封土であった諸地方を含めてその領土の全体は従来の従属を断ち切って、君候が国王の尊厳を獲得するとともに、主権としての一国家の地位に上ったのである。すなわち、もともとドイツ帝国は単に帝国(ライヒ)という c


空虚な名前だけを保有するものに過ぎずして実際には存在しないものであり、そしてこの空席を充たしているものは現実のドイツ諸国家であったが、その内の一つを占めるに至ったのである。(s 10)「ドイツの国法学者は主権の概念と連邦規約の意義についてさまざまな著作を怠ることなく d


書き続けているが、偉大な国法学者はパリにいます。ドイツの諸侯は自由な君主制の概念を未だ理解せず、まして、この概念の現実化を試みてはいません。ナポレオンはこれらをすべてを組織づけなければならないでしょう。」「予は貴下の君主を主権者にしたのであって独裁者にしたのではない」235


フランス革命は全ヨーロッパを揺るがした。ドイツに英国に、澎湃として捲き起こる近代国家形成の動きをヘーゲルは情熱的に弁護する。・・明確に組織づけられた国家体制の歴史的な成立は数世紀にも及ぶ経過を辿っている。しかし、その中心をなす視点は極めて単純である。a


すなわち一方では中間項である貴族が持つ勢力と彼らの不遜な要求を抑制して、彼らに対する権利を国家をして得さしめようとする政府の努力であり、他方では、同じく中間勢力である貴族に対抗するとともに、時にはまた政府自身に対しても抵抗することによって自己の市民権を獲得しまたそれを主張するa


第三身分、そしてまたしばしば自らをもって国民と自称する人々の努力である。ここに一瞥すると、国家体制はさまざまのものの寄せ集めとして成立したように見られる。・・時代の精神的発展は国家の理念、したがって国家の本質的統一の理念を産み出した。・・特権打破という基本的意図をヘーゲルも  a


王案と同じゅうするものであるから、それに対して基本的な賛成を惜しまないのである。変容の理由は議員に要求されるべき能力と団体主義である。民衆は意思を持っていても、何を意思しているのか、何が自分たちにとってよいかも知れないが、これを認識するところに議会における使命があるのに、 b


財産とか年齢とか規定が直ちにかかる能力を、またこれを識別する能力を保障するものとは限らない。だから被選挙権人たるためにはもとより、選挙人たるためにも「ひとかどのもの」である事を、しかも公共的職務に関する意見、技能、徳性においてそうであることを試験済みのものであることを要する。a


だから選挙権が認められていないのにヘーゲルは反対して、今日の官吏はもはや昔のように朝廷の召使いではなく国家公務員としての職務上、もっともよく国家的感覚を鍛錬されているものであり、イギリスやフランスのごとき大国とはちがって官吏を除くと国家的感覚に富んだ有能の士を得る可能性が b


非常に少なくなるから是非とも官吏に被選挙権を認むべきであるとしている。・・議会が市民社会と政治国家との媒介機関たる所以があるのである。25歳とか30歳とか不動産収入200フロリンとかいう数的な規定では国民は各自孤立したアトム的個人の集合として取扱われているが、c


これがフランス的抽象というものである。かかる立場からでは議員の公共的国家的精神が保障せられえないことになる。議場に対立のあることは却って討論の有効にする所以でもあるが、しかし、対立も国家的統一の枠内に留まるべきである。・・しかし、およそ国家的制度に関しては、単なる希望や要請に d


留まることはできず、生起すべきものが現実に生起することを可能にする方法を選ばなくてはならないのであるが、かかる方法としては、右にいったごとく自治団体や裁判所や職業団体としての役員として試験済みであるものに選挙権、被選挙権を与えるという団体主義を取る外はないのである。313


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9月20日(金)のつぶやき

2013年09月21日 | Myenzklo
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9月7日(土)のつぶやき その2

2013年09月08日 | Myenzklo

永遠なものであり、神的なものだからである。道徳(Moralität)、人倫(Sittlichkeit)、信仰(Religiosität)がそれである。s62 ※よく言われることだけれども、ヘーゲル哲学には「個人」がないなどと言った、とくに実存主義からする批判がどれだけ的はずれの


ものであるかが、この個所のヘーゲルの論述からも良く分かる。ヘーゲルは続けて言う。「個人を通じての理性目的の実現ということを述べた際にも、その個人の主観的な側面、個人の関心、すなわち欲望、衝動、主張、洞察というようなものの関心は、たとえ形式的な面ではあるとしても、それ自身は


充たされなければならない無限の権利を持つものである事は述べておいた。」「普通に手段という時には、それはさしあたって目的に対して本質的な関係を持たないところの、目的に対しては単に外面的なものと考えられている。けれども実際は、手段として利用されるものは自然的な事物一般でも、


否、最下等の無生物さえも、目的に適合するという性質を持ち、目的と共通な何かを中に持っているのでなければならない。人間がこういうような全く外面的な意味で理性目的の手段になるということはまずない。人間は理性目的を充たすと同時に、またこの理性目的を切っ掛けに、内容上は理性目的とは異なる


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9月7日(土)のTW:#個人、#市民、#民族、#国家、#情熱、#理性の狡知、#世界史、#自由

2013年09月08日 | Myenzklo

市民の私的関心が国家の一般的な目的と一致し、一方が他方の中に自分の満足と実現とを見いだす場合に、国家は自己の目的の歴史的実現から見て繁栄し、国家自身としても強力になる。―――このことは極めて重要な命題である。けれども国家が合目的的なものを意識するに至るまでには、a


合目的的な施設と長期にわたる悟性の闘争とを伴う多くの準備と画策とが必要であり、その一致が実現されるまでには個別的な利益と情熱(Leidenschaft)とに対する多くの闘争、困難な長い間の教育が必要である。そのような一致は国家の全盛期であり、その徳その力幸福を謳歌する時代である。


世界史は人間の個々の集団の場合のように、ある意識的な目的に基づいて起こり始めるのではない。人間の単純な共存の衝動でさえ、人間の生存と所有との保全という意識的な目的を持っている。そして、この共存が実現されるとともに、その目的はさらに拡張される。a


・・・・この目的は内的な衝動であり、もっとも無意識的な衝動であって、世界史の全事業はこの衝動を意識にまで高めようとする努力に他ならない。【歴史哲学上 s52】


そこには我々が主観的な面と呼んだもの、すなわち欲望、衝動、情熱、個別的関心、ならびに意見と主観的観念が自然存在の型態、自然意志の型態をとって現われるが、それらは自立的なもの、個別的なものとしてある。これらの無数の意欲、関心、活動性は世界精神がその目的を達成し、a


この目的を意識に上せて実現するための道具であり手段である。この目的はただ自分を発見し、自分を自覚し、自分を現実性として直観する事に他ならない。(ibid s 52 )


個人と民族との生命は各自自身の目的を追求し、その満足を求めながら、同時により高いもの、より以上のものの手段と道具になっているが、彼等はこのより高いものについては何も知らず、無意識にそれを実現している。(ibid s 52 )


我々の信念は、理性が世界を支配するのであり、したがってまた世界史をも支配してきたという主張に立っている。他の一切のものはこの絶対的な普遍と実体に従属するものであり、それに奉仕するものであり、その手段である。またこの理性は歴史的な存在の中で、またその存在を通じて自分を完成する。a


これらの欲望や関心がこの目的に関して無意識であるとしても、普遍は特殊的な目的の中に内在するのであり、これらを通して自分を完成させているのである。今若し精神の内的な、即自向自的にある行程を必然的なものと見、これに対して人間の意識的な意思の中に、


人間の諸々の関心として現われるものを自由の領域にあるものとすれば、上の問題は自由と必然との合一という形式を採ることにもなる。この二規定の形而上的な連関、言い換えると概念の中における連関は論理学に属するものだからここでは詳論できない。(ibid s 53 )


【理念】理念が無限の対立に進展する過程は哲学の中で示される。対立とは、自由な普遍的型態の理念、すなわちあくまでも自分の許に存在するという型態の理念と、形式的な向自有、自立的な個々の存在であるところの全く抽象的な自分への反省としての理念、すなわち精神に属してはいるが、 a


形式的自由に過ぎず、自我であるところの、全く抽象的な自分への反省としての理念との間の対立である。それゆえに普遍的な理念は一面では実体的な充実としてあるが、他面では自由な恣意という抽象としてある。この自分への反省(自由な恣意)は個別的な自意識であり、


一般に理念に対立する理念の他者であって、そのために全くの有限性の形を取る。まさにそれ故にこの他者は普遍的絶対者に対しては有限性、規定性である。それは絶対者の定有の面であり、その形式的実在性であり、また神の栄光のための土壌である。この有限性から一般にあらゆる個別的なものが出て来る。


※ここでヘーゲルが念頭に置いているのは、言うまでもなく、普遍的絶対的な存在としての神と個別的具体的な存在としての人間との関係である。個別的な個人は神の栄光のための土壌である。この個人は神の理念に反する、特殊的な存在でもある他者でもある。だからそれは現象のレベルにある。


自分の現前に現われる存在を自分の特殊的な性格、意欲、恣意にうまく適合するように持ってゆき、その現前の存在の中で自分自身を享楽するものは幸福である。けれども世界史は必ずしも幸福の地盤ではない。活動性は普遍的なもの、内的なものを客観性の中に移し入れるところの媒介者である。s54


普遍的理念の直接的な現実性への実現と、個別性の普遍性への高揚は、最初は両面相互の差別と無関心という前提のもとで行われる。行為者の活動は有限目的、特殊的な関心に由って動く。しかし、行為者は知識を持つ者であり、思考する者である。従って彼等の目的の内容は、法、善、義務などの a


普遍的な本質的な使命と結び付いている。というのは、単なる貪欲、粗野な意欲、生の意欲は世界史の舞台の外に、世界史の圏外にあるものだからである。この目的であると同時に行為の指針であるところの普遍的な原理は一定の具体的な内容を持っているものである。個々個人はその身分を持っていて、b


一般に正当で、身分相応の行儀作法というものは心得ている。日常の私生活の場合には、国家の法律と風習に由って決定されている。(ibid s 56 )※ここでの議論を具体的に述べれば、現在の国家の普遍的な理念として掲げられる代表的なものは、自由や民主主義、平等、と言ったものが c


すぐに思い浮かぶ。それは、具体的には「憲法」に由って、具体的に規定されているものである。例えば、現行日本国憲法の基本的な理念としては、自由主義、民主主義、国民主権、平和主義、などとして明らかにされている。もちろん、改正憲法もこうした基本的な理念を受け継ぎ、深化させるものである。


問題は、現行日本国憲法がその欠陥故に、その国家概念の歪みとしてどのように現象しているかを、証明し論証してゆく仕事が残されているという事である。とくに、国家の真の在り方としては、「核武装、自主防衛」の憲法的な立場が必然的に帰結する。現行日本国憲法は、属国主義の帰結として存在する。


【理性の狡知】情熱の特殊的関心と普遍的なものの実現とは不可分のものである。というのは、普遍的なものは特殊的な、特定の関心とそれの否定の結果として生じるものだからである。特殊的なものは、互いに闘争して、一方が没落してゆくものに他ならない。対立と闘争に巻き込まれ、a


危険にさらされるのは普遍的な理念(イデー)ではない。普遍的理念は侵されることなく、奪われることなく、闘争の背後にきちんと控えている。そしてこの理性が情熱(Leidenschaft)を勝手に働かせながら、その際に損害を被り、痛手を受けるのはこの情熱に由って創り出されるそのものだと、


言うことを、我々は理性の狡知(List der Vernunft)と呼ぶ。とういのも、それは一面では空しいものでありながら、他面では肯定的であるという現象に他ならないからである。特殊的なものはたいてい普遍的なものと比べると極めて価値の低いものである。だから、個人は犠牲に供せられ、


捨てられる。つまり、理念はこの生存と無常との貢ぎ物を自分では納めることはしないで、個人の情熱に納めさせるのである。【個人の価値】我々は個人の目的とその満足が、こんなにも犠牲に供せられ、その個人の幸福が一般に偶然性の王国――幸福はこの王国に属するものである――の支配に


委ねられているのを見て、諸々の個人を一般に手段のカテゴリーの下に考察して満足するとしても、個人の中には最高の存在に対する場合と同様に、このような手段の観点だけから見ることを躊躇させる一面がある。何故なら、それは絶対に従属の位置に立たないものであり、個人の中における


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8月31日(土)のTW:「世界史と自由」

2013年09月01日 | Myenzklo

けれども、この上に述べたような自由という言葉はそのままでは不明確で、極めて多義的な言葉であるということ、自由は至上のものであるのに、実にいろいろな誤解や混乱や誤謬を伴い、またあらゆる逸脱の可能性を含んでいると言うこと、――この事が今日ほどよく知られ経験された時代はなかった。s45


※この個所の記述からも分かるように、自由がヘーゲル哲学の核心的概念であることは明らかである。ただ問題は、この自由をヘーゲルの概念として、正確に把握し得ているかが問題である。ヘーゲル哲学の読解の目的は、この自由の概念の的確な把握にあるといってもいい。歴史の目的としての国家も、


もちろん、自由を目的としている。ヘーゲルに言わせれば、全歴史が自由を目的とし、宗教的に言えば、神の究極の意志という事になる。>><<
自由はそれ自身、まさに自分を意識し、――というのも、自由はその概念上自分についての意識であるから、――それによって自分を実現するという無限の


必然性を含んでいるものである。すなわち、自由は自由が実現する当の目的であって、また、精神の唯一の目的である。事実またこの究極の目的は、世界史の営みの目標となったのであり、地上の広大な祭壇の上で、また長い時間の経過の中で、この目的の前に、あらゆる犠牲が捧げられたものである。s45


自由が世界に実現するための手段の問題は、我々の歴史の現象そのものの中に導く。自由そのものはさしあたって内的概念であるが、これに対して手段は外的なものであり、現実的なものであって、歴史の中で直接我々の眼前に立ち現れるものである。歴史を一瞥して直ちに感じられることは、a


人間の行動が欲望、情熱、興味のみがその推進力として現われ、主役として活躍するものだということである。なるほど、そこでは一般的目的、善の意志、崇高な愛国心というようなものもあるにはある。けれども、これらの徳や一般的目的は世界と世界が創り出すものに比べると言うに足りないものである。b


確かに、我々はこれらの個人自身の中に、またその活動の分野の中に理性の使命が実現されているのを見ることもできる。しかし、それらは人類の大多数に比べると言うに足りない。またそれらの徳の占める範囲も比較的に小さな部分に限られる。これに反して、諸々の情熱、特殊な関心の目的、c


利己心の満足は強力なものである。それらは、法や道徳が加えようとするどんな制限も眼中に置かないこと、またこれらの自然力の方が人為的な、退屈な秩序や節制、法や道徳の訓育よりもずっと人間に身近いものである点で力を持っている。我々がこの情熱の演劇を見物し、その情熱の暴行の成り行きを d


単に情熱に結び付くだけではなく、善良な意図、合法的な目的をさえ伴っているような無分別の成り行きを眼の当たりに眺め、そのような情熱から災害や罪悪が生まれ、人間精神の創り出したもっとも華やかな帝国の没落がそこから来るのを見るとき、我々はこの有為転変にただ哀愁の情を感ぜざるをえない。e


そこで我々の民族と国家型態、ならびに個人の徳行のもっとも立派なものが被った不運をそのまま集め集合して、これらの情熱の結果を世にも怖ろしい画面に描きあげるのであるが、それによって我々の感情は何とも深刻な、やるせない悲嘆のどん底に沈めさせられる。実際このような悲嘆に対しては f


どんな結果も我々を宥めてくれる力を持たない。・・・けれども、我々が歴史を諸々の民族の幸福、国家の智慧、個人の徳が挙げて犠牲に供せられる屠殺台であると見るときにも、この膨大な犠牲は一体何者のため、如何なる究極的な目的のために捧げられたのであるかという疑問が必然的に頭に上ってくる。g


ここで我々はこの観点からして、あの世にも怖ろしい画面を展開して我々に憂鬱な感情を起こさせ、それについての瞑想的な反省を起こさせた諸々の出来事をひとえに手段の世界と見たのである。我々はここに歴史の絶対的な究極的目的、世界史の真の成果に対する手段を見ようとするのである。h


※こうしたヘーゲルの歴史観をどう考えるか。彼は世界の目的に「自由」を見いだし、実際の世界史の展開を、諸々の国家、民族の荒涼悲惨たる歴史を、理念実現のための「手段」として見る。しかし、こうした歴史の見方をどう考えるか、単純に承認できるものではないだろう。とすれば、それに代えて、i


どのような歴史観があるのかを明らかにする必要があるだろう。まあ、もう少しヘーゲルの主張するところの歴史観を検討してゆくことに主眼を置こう。批判はそれからである。j【理念実現ための手段】


※現在の個人的な見解としては、共産主義の「階級闘争史観」には当然同意できるはずもない。それは私が共産主義者ではないからであり、また同時に、共産主義の必然的な帰結として生じる反日主義が、また歴史の一面しか見ていない虚偽の歴史観であるからである。課題は全面的で客観的な歴史観である。


我々が原理、究極目的、使命、または精神の本性、精神の概念と呼んだものが、単に一般的なもの、抽象的なものに過ぎないということである。原理、原則、法則は内的なものであって、たといそれ自身において如何に真なものであっても、それ自身としては本当に現実的なものではない。(s48)


※ここにもヘーゲル哲学の特色が現われている。単なる抽象は真実ではない。それが現実化され具体的に展開されてこそはじめて真実なものであるという認識である。単なる可能性、sollen は無力であり、真実なものではない。この認識はヘーゲルにおいては一貫している。


目的、原則などは我々の思想の中にあるものであって、まだ現実の中にあるのではない。即自的なものは一個の可能性、単なる能力にすぎず、内面から出てまだ現実存在になっていない。それらが現実のものとなるためには、第二の契機が加わらなければならない。それは、実行と実現であり、その原理は a


意志であり人間の活動である。概念、まだ潜在的な使命が実現され、現実化されるのはじつにこの人間の活動に由るのである。それら概念を活動させ、それに存在を与える働きをするのは、人間の欲望、衝動、性向であり情熱である。私が在る物を働かせを、それを存在させることは、私の大切な役目である。b


私はその努力をしなければならない。私はそれを成し遂げることによって満足を得ようとする。主観がその活動と仕事によって自分自身に満足を与えることこそ、主観の無限の権利である。人間は何かに関与すべき場合には、それに没頭し、そこに自分自身の自己感情の満足を見出さなければならない。c


或る事のために働くものは、単に抽象的に関わるのではなく、個別具体的な物に関わるのである。或る事に関わって活動している個人が同時に自分をも満足させるのでなければ、何事も起らず、何事も遂行されない。それらの個人は具体的で個別的特殊な人間である。彼等は彼等特有の、特殊な欲望、衝動、d


関心をもつものである。これらの欲望の中には利己的な欲望や意志の欲望のみではなく、また自身の洞察、確信、或いは見識、意見に基づく欲望もあるのであって、そこにすでに分別、悟性、理性の欲望の兆しが見られるのである。人間が或る事のために活動する必要のある場合には、そのことが気に入り、e


善い物だ、正しい物だ、利益があり、有用な物だという意見を持ってそのことに当たることを要求する。それは人間が信頼や権威とかによってほとんど動かされる事がなくなり、自身の悟性、自立的な確信と見解によって自己の活動の役目を果たし、事柄に寄与するようになった現代の本質的な特徴である。50


世の中のどんな偉業も情熱無しには成就されなかった。ここに二つの契機が我々の対象になってくる。その一つは理念で、他は人間の情熱である。一方は我々の眼前に拡がっている世界史という大きな敷物の縦糸であり、情熱はその横糸である。そしてこの両者の具体的な中間であり結合であるものは、a


国家の中の人倫的自由(die sittliche Freiheit im Staate)である。(ibid p 50 s 38)


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8月30日(金)のTW:「キリスト教と自由」

2013年08月31日 | Myenzklo

基督教のおかげで、人間が人間として(すべての人が)自由であり、精神の自由が人間のもっとも固有の本性をなすものであるという意識に達した。この意識は最初は宗教の中で、すなわち精神の一番奧の領域で起ってきた。けれどもこの原理をまた世俗生活にも押し及ぼすということが次に来る課題であったが


この課題の解決と遂行とは困難な、長年月にわたる教化の努力を要した。例えば、キリスト教が採用されたからといって、すぐに奴隷制が廃止されたわけではなかった。まして、それによって国家の中に自由が行われることになり、政府や憲法が理性的に組織され、自由の原理の上に打ち立てられるまでには


中々ならなかった。この原理の世俗への適用、すなわちこの原理が俗世間に普く行われ、浸透するようになるには、長い年月を要することであって、その過程がすなわち歴史そのものなのである。原理そのものと、原理の適用、すなわち原理を精神と生活との現実の中に導入し、普及させることの区別については


私はすでに注意しておいた。この区別は我々の科学における根本原理の一つであるから、心に留めておかなければならない。――要するに世界史を必然性において認識するのが我々の任務なのである。【歴史哲学上 s44】


精神の世界は実体的な世界であり、物質の世界はあくまでも精神の世界に従属的なものである。これを思弁的な言葉で言えば、物質の世界は精神の世界に対して何らの真理を持たないものであるから、精神の使命と世界の究極的目的として、自由の意識と、その自由一般の現実性とを挙げておいた。 s 48


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8月9日(金)のTW:「国家と自由」

2013年08月10日 | Myenzklo

主観的意志は一つの現実としての実体的生命をも持っている。この現実の中では主観的意志は本質的なものの中で運動するすることになるとともに、また本質的なものを自分の存在の目的とすることにもなる。この意味で、この本質的なもの自身、主観的意志と理性的意志との統一である。


それは人倫的な全体であり、――まさに国家に他ならない。国家は個人がその中で自分の自由をもち、これを享受する現実である。ただしそれは、個人がこの普遍者の知識、信仰、意欲である限りにおいてである。むしろ、法、人倫、国家が、またそれのみが自由の積極的な現実であり、充足である。s70


主観的意志、情熱は活動するものであり、実現を行うものである。これに対して理念は内的なものである。そして国家は現存するところの、真に人倫的な生命である。というのは、国家は普遍的、本質的な意欲と主観的な意欲との統一であり、それはすなわち人倫だからである。この統一の中で生きている個人は


人倫的な生活をもつものであり、このような実体性のなかにのみあり得るような価値をもっている。・・人倫の法則は偶然的なものではなく、理性的なものそのものである。この実体的なものが人間の現実的な行為の中と人間の心情の中とで行われ、その中に現われ、その中に実体的なものそのものが


存続するようにすること、これが国家の目的である。この人倫的全体が現存するようにすることが理性の絶対的な関心である。またこの点に、たといそれがどんなに未完成な国家であったにせよ、それぞれの国家を建設した英雄たちの意義と功績があったのである。世界史において問題になりうるのは、


ただ国家を形成した民族だけである。というのは国家だけが自由、すなわち絶対的な究極目的の実現であるということ、国家はそれ自身のために存在するものだということを、我々は知らねばならないからである。人間はそれがもつすべての価値、すべての精神的な現実性をただ国家によってのみ


もつということを、我々は知らなければならない。なぜなら人間の精神的な現実性というものは、人間の本質である理性的なものが覚知者としての人間の対象となり、それが人間に対して客観的な直接的な存在を持つようになるという点にあるものだからである。この意味でのみ人間は意識であり、


この意味でのみ人間は風習の中に生き、法律的、人倫的な国家生活の中に生きるものである。というのは真なるものは普遍的意志と主観的意志との統一であり、したがって普遍的なものは国家の中では法律の中に、普遍的な、また理性的な諸々の施設、諸規定の中に存在するものだからである。


国家は地上に現存する神的理念である。この意味で、国家は世界史全般の一段と具体的になった対象なのである。だから、この国家の中においてはじめて自由はその客観性を獲得するのであり、またこの客観性を楽しむことになるのである。というのは法律は精神の客観性であり、真の意志だからである。


したがって法律に服従する意志だけが自由である。それは、その意志が自分自身に服従することであり、その点で意志は自分自身の許にあり、自由だからである。国家、祖国が生存の共同体を形成することになり、人間の主観的な意志が法律に服従することになると、自由と必然との対立は消える。


理性的なものは実体的なものとして必然的であるが、この理性的なものを法律として是認し、これを我々自身の存在の実体と見て、これに従う点で我々は自由である。ここに客観的意志と主観的な意志とは宥和し、ただ一個の曇りない全体となる。というのは、国家の人倫は、各人の主観的な信念が


幅を利かすような道徳的なそれ、反省的なものではないからである。この主観的な信念はむしろ近世世界のものである。これに反して真の、古代の人倫の根底は、各人が自分の義務を守るという点にある。アテナイの市民はほとんど本能的に、自分のやるべきことをやった。けれども、私が自分の行為の対象を


反省するすることになると、そこではどうしても私の意志が加わるべきものだという意識を持たざるをえないことになる。しかし、人倫は義務であり、実体的な権利(法)であり、人間の第二の天性(die zweite Natur)である。人間の第一の天性はその直接的な動物的な存在であるから、


それを第二の天性と呼んでも不当ではないのである。
(歴史哲学上 s 72)


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