海と空

天は高く、海は深し

日々の聖書(3)――日曜日(第七日)

2006年11月19日 | 日々の聖書

日々の聖書(3)

第七日めに、神は行っていたご自分の仕事を終えられ、そして、第七日めに、神は行なっていたご自分のすべての仕事から離れて、お休みになられた。     (創世記第二章第二節)

日曜日

今日は日曜日で休日である。キリスト教に言う安息日である。ユダヤ人は、金曜日の日没から土曜日の日没までは、SABBATH(サバス)と呼んで、この時間は完全に日常の仕事から解放される。この安息日のSABBATH(サバス)の語源には、第七日めという意味が含まれているのではないだろうか。SEVENという語と発音も似ている。

それはとにかく、今日の欧米のキリスト教国では、昔ほどにはその宗教的な意義は自覚されていないにしても、それでも人々の意識の奥底には、日曜日のその宗教的な意味合いは残されて底流していると思う。

しかし、わが国のように仏教、儒教、神道の伝統の国では、そもそも一週間や日曜日という時間のサイクルさえなかった。お盆やお彼岸など祝祭日にはもちろん、仏教や神道などの宗教的な意味は残されているが、しかし、今日の日曜日は、キリスト教徒以外には、全く宗教的な意味を持たない。日曜日は単なる休日であって、そこには何の宗教的な色彩もない。

せめてキリスト教徒の間では、日曜日を「聖日」と呼ぶようにすれば、この一週間の中の日曜日という日の貴重さを、もう少し実感できるのかも知れない。少なくとも欧米のようなキリスト教の伝統のある国々のように、日曜日を聖日として、ただでさえ忙しい日常の仕事から日本人も完全に解放されて、家で静かに家族と団欒に過ごす時間を持つようにすればよい。

一週間のうちに、せめて日曜日くらいは家族と食卓を囲み、子供や妻たちと日ごろ話し合えないようなことを話題にしたり、また家族と一緒に音楽を聴いたり、流行の小説を話題にしたり、またできれば聖書の一節を朗読しあったりする時間を持つようにすればよい思う。

週に一度巡ってくるこの日曜日を、神のために捧げる感謝の一日として、子供や妻との団欒の日にすれば、離婚や、その結果として起きる幼児虐待や、さらには子供たちの自殺など、わが国で今日おぞましく流行している悲劇も、少しは防ぐことにもなるのではないだろうか。日曜日を聖日として、神様に倣って、この世のための仕事から完全に解放される時間を持ちたいものである。

第七日めに、神は行っていたご自分の仕事を終えられ、そして、第七日めに、神は行なっていたご自分のすべての仕事から離れて、お休みになられた。     (創世記第二章第二節)

 


日々の聖書(2)

2006年11月16日 | 日々の聖書

日々の聖書(2)

「かってあったことは、これから先もあり、かって行われたことは、これからも行われる。太陽の下に新しいものはない」(伝道の書第一章第九節)

民族の質

教育基本法の改正が国会の日程に上っている。安部内閣は「美しい国」造りを目指すという。決して、悪いことではない。目指せばよいと思う。しかし、その結末は明らかである。「美しい国」は実現しない。私がそのように考える理由は次のようなものである。

「人は石垣、人は城」と武田信玄が言ったように、国家や民族の質は、それを構成している人間の質によって決まる。そして、その人間がどのような人間であるかは、その人間の崇拝する神によって決まる。この道理は自然の法則と同じで、神の摂理であって真理であるから、人間の恣意で勝手に都合よく変更できるものではない。

ちょうど小泉前首相や安部首相によって行われようとしている日本の政治の改革も、もちろん全く無駄であるとは言わないが、底の浅い改革で、所詮はたいした効果をあげ得ないことは明らかだろうと思う。理想の高い私たちの眼には、そんなものは改革の名にも値しない。だから、そうした改革に希望を託したとしても、失望するに至るだけだと思う。

教育についても同様である。真実の神を教えるという根本を避け、それを外した功利主義的な教育で、人間と国民の質を改革できると彼らは思っている。人間の根本の質を変えないで、どれほど多くのお金と労力を注ぎ込んでも、国民が期待するような成果をあげ得ないことは、日を見るよりも明らかである。

教育諮問会議が安部内閣の許でも持たれる。しかし、それも結局、文部科学省の役人や政治家たちの仕事と飯のネタを提供してやるぐらいの意義しかないだろうと思う。率直に言って税金の無駄である。


かって受験本位の教育を改善しようと鳴り物入りで始まった「ゆとり教育」が否定され、今では諸悪の根源のように非難されている。新しい教育改革で理想の教育が実現できるなら、実行してみればいい。それは「教育の改革」を目指したい人たちに任せるしかない。しかし、真理は頑強である。根本のゆがみが正されるまでは、枝葉末節をいくらいじったところで問題は解決されないだろう。


要するに、国家と国民の質、民族の質、人間の質が改まらない間は、教育基本法であれ憲法であれ、どのような法律を制定し、さまざまな会議、タウンミーティングを開催し、どのような政治が行われようとも、「この世」は昔のままの「この世」でありつづけるだけである。私たちは人間に期待することは止めようと思う。神のみに希望を託そう。それも一つの知恵だと思っている。

 「かってあったことは、これから先もあり、かって行われたことは、これからも行われる。太陽の下に新しいものはない。」(伝道の書1:9)

 


日々の聖書(1)

2006年11月15日 | 日々の聖書

日々の聖書(1)


聴く耳のあるものは聴くべし。(マタイ書第13章第43節)


青少年の頃より愛読してきた聖書は、今も、相変わらず私の座右にある。おそらくこれからも終生私の傍らにありつづけるのだろうと思う。

ただ最近、歳もとったせいか、日々の生活の中で聖書を繙読していて、感じたこと考えたことをもう少し簡単に記録してゆきたいと思うようになった。もう少し日常的に、「日々の聖書」という形で聖書についての「感話」というか感想を記録して行こうと思う。もちろん、宗教や哲学に関する学問的な個人的な研究も蓄積してゆきたいと思っている。だから、それら宗教や哲学に関する専門的な記事は、「海」や「夕暮れのフクロウ」といったブログに記録して行くつもりだ。
日々の生活の営みに忙しい人々にそれらが無縁であるとしてもやむを得ない。


それにしても最近、多くの不愉快な事件が、この日本社会にも著しく目に付くようになった。私自身は戦後の生まれであるけれども、おそらく、日本国民の質が、太平洋戦争の敗北を契機として、明らかに変質してきていると思う。戦前や明治期の日本人と明らかに異なってきているという印象をもっている。

よくなっているかと言うと、必ずしもそうはいえないと思う。最近の率直な感想として、一昔前よりも日本人の風貌に「品格と深み」がなくなってきていると思うようにもなった。もちろん、現在の若者たちにはそんな印象も自覚もないだろうと思うけれど、まあこれは、私のアナクロニズムがはなはだしいせいだけかも知れませんが。

たしかに現代の大人たちの多くは、自分たちの金儲けなどに必死で、青少年のことを決して本当に考えて行動しているとはいえない。むしろ、青少年たちが大人たちに金儲けの食いものにされている。


そうしたなかで私が青少年の頃より人生の指針としてきた聖書の言葉に、現代の青少年たちの目にも触れ耳にして、またそれが彼らの人生の何らかの指針にもなれば、決して無意味ではないとも思う。

幸いにして、こうしてブログなどの形で、容易に発信できる時代になったのだから、これを活用しない手もないだろうと思う。そこで、彼らの間に何らかの議論も広がれば、そして、それが少しでも将来の国家や国民の何らかに役立つならば、決して無意義ではないかも知れない。


「聴く耳のあるものは聴くだろう。」(マタイ書13:43)