遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

詩人あの人この人~林芙美子その17「ジャン・コクトー補遺その2」

2023年09月25日 | 読書
ハナミズキの実 撮影日:2014/09/28 撮影場所:某親水公園の並木


コクトー来日時の芙美子の対応ぶりを記す 典拠は昨日と同様
「コクトーと日本の芸術家達 ジャン・コクトーの日本訪問」(西川正也氏) 
なお、同論文の芙美子の対応の様子は、彼女の随想からの引用である
以下、いつものように超要約記述する

ジャン・コクトーは1936(昭和11)年5月16日~22日まで日本に滞在した
彼はジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周 」を自ら体験しようと意図し
その途中で1週間ほど日本に立ち寄った
相撲・歌舞伎見物、明治神宮や歓楽街などの訪問を通じ、日本と日本人を観察
(旅行記をフランスの新聞に載せることが事前に決まっていたようだ)

彼への対応は文芸家協会や日本ペン倶楽部の面々が行った
中心は、パリ滞在中に既にコクトーと交遊のあった詩人の堀口大学


中央:ジャン・コクトー 左:堀口大学 右」コクトーの秘書(マルセル・キル )←既出訂正

芙美子は花束贈呈ののち、歌舞伎の案内役の一人に加えられる
六代目菊五郎の「鏡獅子」と 「十六夜清心」とを見物する
堀口大学が仏語で彼に説明 芙美子は緊張して一言も喋れなかった
幕間では ロビーで秘書と日本語・フランス語で気楽に喋れたらしいが・・・

その2日後 日本ペン倶楽部の歓迎式典開催 芙美子はコクトーの隣に座る
芙美子の緊張も少しは和らぎ 日本語を堀口らに通訳して貰いながら喋った
パリで彼の映画「詩人の血」を繰り返し観た事など話したのではないか 
多分、 そんなことが芙美子へのイラスト・プレゼントに繋がったらしい

コクトーが日本を去ったのは5月22日・・・と翌日各新聞の朝刊が伝えている
~喜劇王チヤプリンと世界八十日早廻り旅行のコクトー氏は
 22日午後6時横浜出帆の汽船でアメリカ に向う~
その甲板で記者たちから日本の印象を訊かれ、て三つことを答えたという
~日本へもう一度 しかも最も早く帰って来たい
 フランスで考えていた日本が 如何に誤解だったかはっきり解った
 日本に就いて軽く考えて来た 今は重い考えを抱いて去ろうとしている~

一見は百聞に如かず ということなのだろうか
 あるいは 作家らの説明や応対も誤解を解く一助になったのだろう
 また 「詩人の血」を何度も観た芙美子の話も・・・

コクトーがフランスを出て世界を一回り
ふたたびフランスに戻ったのがちょうど80日目だった という
コクトーが観た「八十日間世界一周 」の映画を探したが見つからなかった

代わりにコクトー脚本・監督の「美女と野獣」(1946年)を埋込み
(字幕ボタンクリックし歯車マークからフランス語>>日本語の機械翻訳可)
フランスに人が2人で担ぐ駕籠風乗り物があったことを初めて知った


今日はここまで
明日またお会いしましょう
[Rosey] 

詩人あの人この人~林芙美子その17「ジャン・コクトー補遺」

2023年09月24日 | 読書



昨日のブログの最後にBARDの難点は典拠が不明だと書いた
自らも反省 このブログでも今後は出来る限り典拠を明示したいと思う

さて 昨日はコクトーの来日のことを書いた
その時の模様をもう少し詳しく知りたい・・・ネットで格好の論文が見つかった
「コクトーと日本の芸術家達 ジャン・コクトーの日本訪問」(西川正也氏) 
以下、そこから超要約記述する(””内が引用部分)

”滞京中のコクトーに接した文学者の一人に林芙美子がいる
花束の贈呈役に林が選ばれたのは、パリ滞在中、コクトー製作の実験映画「詩人の血」を三度も見に出かけたほどのコクトー・ファンだったからだろう”

以下、林の自筆日記(※)の内容が引用されてる(そのまま引用)
~「八時半、ビユウ・コロンビヱにひとりで、ジヤンコクトウのシネマを見に行く。『或詩人の血』とてもよかつた。白と黒とのたたかひだ、多分に東洋的であつた。一寸おそろしい映画だ、あんなのを見るといい小説が書きたくなる」
(昭和7年1月13日付)

※芙美子がパリの百貨店ボン・マルシェで買った日記帳に自筆で記録したもの
芙美子や緑敏の死後の遺品(遺族より区に寄贈)の中から発見された
この日記帳は、林芙美子研究者の今井英子氏が編纂、「林芙美子 巴里の恋」として
2001年発刊されている(2004年に文庫本化)
西方氏の論文もパリ滞在時の芙美子の記録はこの今井氏の本に依拠している

以下、その後の芙美子のジャン・コクトーへの傾倒ぶりを引用する
(昭和7年1月14日付) 友人への手紙より(※)
"昨夜、ビン・コロンビエ、築地小劇場みたいな小さな小屋で、コクトウの声の入った映画「或詩人の血」を見た。君に見せたい。全く豊富な空想の世界、新しい世界だ"

※この手紙の部分は西方氏論文ではなく今井氏編纂本から直接引用
ここで友人とあるのは矢田津世子のこと、と今井氏は脚注に書いている
今井氏編纂本によれば この後もコクトーの記述が散見できるが今は省略

芙美子が気にって3度も観た「或詩人の血」ってどんな映画なのだろう?
つい好奇心に駆られてYoutube検索・・・約100年前の映画、あるワケ無いさ
ところがあった! 芙美子は新しい世界と書くが 不気味な世界でもある
もっとも「創造的」な世界というなら 今の時代でも十二分に創造的!


訪日時のコクトーの話を書くつもりだったが次回に回す
また 今井氏編纂「林芙美子 巴里の恋」についてはこの先もお世話になる
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

詩人あの人この人~林芙美子その16「多忙の1年、少ない情報」

2023年09月23日 | 読書

 
1936(昭和11) 33歳
~「野麦の唄」「文学的断章」 「愛情」「稲妻」を刊行する 
6
フランスからジャン・コクトー来日 文芸家協会を代表し芙美子が花束贈呈
コクトーが描いた芙美子のスケッチが遺されている

ジャン・コクトー画「a Fumiko Hayashi」1936-6


ジャン・コクトー 1889(明治22)1963(昭和38) フランスの芸術家 

コクトーは、この年、世界一周の旅に出た途中、日本に立ち寄った
帰国中の画家・藤田嗣治(彼がパリ在住時に友人だった)と会い
詩人・堀口大学の案内で相撲や歌舞伎や夜の歓楽街などを回った


中央:コクトー 左:堀口大学 右:通訳?

コクトーについては殆ど無知 この際なので少し調べたが多才・多芸な人だ
詩・小説・画・評論・劇作家・脚本家・映画監督・・・ 彼の絵を1枚だけ


彼のアーカイブされたWebサイトもあった さすがに洒落ている
サイトに入るのは http://www.jeancocteau.net/ から

9
毎日新聞社主催<国立公園早廻り競争>に女性文壇チームの一員として参加
山陰、瀬戸内海を廻る途中、実父と会う
面白い企画だが詳細な情報は見つからなかった 残念!
(当時、毎日新聞本社は大阪 そこが出発点だった模様・・・ゴールも?)

10月
1人で念願だった満州・中国に出かける これも詳細な記録が無い
ただ 写生旅行中の緑敏とどこかで合流 帰る時は一緒だったという

思っていたより情報が少なかった
<国立公園早廻り競争>など毎日新聞の社史まで調べたゾ!
ジャーナリズムがアーカイブもしていないのだから・・・

久しぶりにBARDウォッチングも試みた
Q:「国立公園早廻り競争に作家の林芙美子は参加したか?
A:"はい 参加しました 林芙美子は競争に参加したことをきっかけに 
国立公園を舞台とした小説「麦と兵隊」を執筆しました・・・"

思わずウッソー! それは火野葦平 兵隊が公園で麦喰い競争するわけ?
ともかく BARDの難点は典拠が不明な事 それを明示すれば調べようもある
話がIT系になってしまった 今日はここまで
明日またお会いしましょう
[Rosey]

詩人あの人この人~林芙美子その15「西洋館の日々」

2023年09月22日 | 読書

 
1932(昭和07) 29歳
8月
芙美子と緑敏は下落合の2階建ての西洋館に移って暮らし始める
芙美子はここを「お化け屋敷」と呼ぶ なぜかは分からない

芙美子は落合で何度か転居を重ねている
 この西洋館以前の事だと思うが、「落合町山川記」の作品がある
(リンクは青空文庫化されているもの・・・以下同様)

1933(昭和08) 30歳
この頃から文筆活動に励み刊行物が増えめる
 「清貧の書」「三等旅行記」 詩集「面影」をこの年に刊行する   

3月
母と養父が上京し同居するが 洋館暮らしが性に合わず近くの借家で暮らす
 9月
共産党へ寄付したことで中野警察署に留置されるが 無罪放免になる
11月
養父の沢井喜三郎が死去 母キクを引き取る

1934(昭和09) 31歳
~「厨女雑記」「散文家の日記」「旅だより」を刊行 油絵を描き始める 

1935(昭和10) 32歳
~「泣虫小僧」「人形聖書」「文学的自叙伝」「牡蠣」を刊行
  <放浪記>が木村荘十二監督により映画化される(当時の映画を埋込)


1936(昭和11) 33歳
この年は芙美子にとって多彩な年になるのだが、今日はここまで
明日またお会いしましょう
[Rosey]

詩人あの人この人~林芙美子その14「緑敏という存在」

2023年09月21日 | 読書


 
手塚緑敏『芙美子像』

1932(昭和07) 29歳
6月中旬
芙美子はほぼ7か月ぶりに日本へ帰って来る 神戸港で緑敏が出迎えてくれたパリでの暮らしを何日も緑敏に語り続ける
緑敏は芙美子を「先生」と呼び 自分はマネージャー役に徹する
秘書・書生・編集者対応・講演や取材の日程調整など全て緑敏が引受けた

当時、二人が住んでいたのは下落合の借家
芙美子は仕事に専念できる部屋がある家に住みたい、と緑敏に提案する
できれば母と養父も呼び寄せて一緒に暮らすことも芙美子の望みだ

探すのは、緑敏の役目
彼は時おり近くを流れる明正寺川の近くに絵を描きに行っていた
そこには知り合いの画家たちも集まっている
いい家があったらと紹介してくれ、と彼らにも頼んでおく

8月
間もなく今の家から東のすぐ近い場所に2階建ての西洋館が見つかった
芙美子は緑敏と見に行き、一目で気に入って即決、移り住んだ
以後上落合に土地を購入、自分たちの家を建てるまで、9年間そこに住んだ

さて、ここで手塚緑敏のことを調べておく
彼の本業は画家 生まれは信州・・・のどこか?
調べたが不明 のち1944(昭和19)に、戦災を避けて信州へ疎開している

その時の疎開先は上林温泉・角間温泉とある
信州には私も多少の土地勘がある ふ~ん湯田中辺りが出身なのかな・・・
長野駅から須坂・小布施・信州中野を通り湯田中が終点 
林温泉・角間温泉ともに志賀高原の麓の温泉町だ

いらっしゃい!

画家だから美術館に情報は無いか?
美術館の数は信州が全国一だそうだ その多くは安曇野に集中する
しつこく調べたが空振り 彼の年譜すら無い!

もっとも緑敏は、絵の才能も芙美子が上と思っていたようだ
が、彼には薔薇育ての特技があった
「彼が育てたバラじゃないと描く気がしない」とは梅原龍三郎の遺した言葉

「薔薇」梅原龍三郎

緑敏の絵が無いと可哀想だ


手塚緑敏『下落合風景』

手塚緑敏『信州の風景』

今日はここまで 明日またお会いしましょう
[Rosey]