1932(昭和07) 29歳
1月 芙美子はフランスの港ダンケルクから船でロンドンに向かう
ロンドンでは某新聞の特派員楠山義太郎が世話をしてくれた
彼は芙美子より7歳年上、海外生活20年の洗練された紳士
【余録】
楠山義太郎は後に政治家になる 顔写真探しまくるが影も形も無し
第25回衆院選挙で和歌山2区から立候補し当選(改進党)
第26~27回も続けて立候補するがいずれも落選
芙美子は忽ち魅了され 頻繁に会うことになる・・・(力量も見ろや)
という話は芙美子の書く「ひとり旅の記」には何も出て来ない
そりゃそうだ 迂闊には書けない また幾らでも歪曲?して書ける
ともかく芙美子はロンドンの水が性に合っていた
街を見学して歩きながら 日本へかなりの量の原稿も送っている
博物館、イーストエンド、ユダヤ人街、オクスフォード大学、マルクスの墓、
オペラ、芝居、安物百貨店(百均の元祖?)・・・等々
しかし、時代は世界恐慌の真っただ中の頃
ロンドンの街にも失業者、困窮者、戦争による負傷者が溢れ
"世界が飢えている いったい誰たちのために"と芙美子は憂いた
2月下旬
ひと月ロンドンで過ごした芙美子、楠山らに見送られ再びパリへ戻る
3月初め
軍縮会議取材でスイスに向かう楠山がパリに立ち寄る
二人で一緒に食事をしたあと、芙美子は駅まで行き彼を見送る
3月中旬
芙美子はあるホテルで外山五郎に出会う(前はG、今度はT氏)
"T氏は近々日本へ帰る由" "二人で遠くの街まで散歩”する
その2日後、T氏は再び芙美子の滞在先に現れる
日本へ帰る旅費が不足、辞書など買って貰いたくて来たらしい
古いレコード三枚,醬油瓶,和仏字典を芙美子は買い、T氏は帰った
"一人になると、私は笑ひがとまらないほ どをかしくなつてきて、
笑ひころげるなり。四フランの醬油を巴里で買ふ なぞとは思はなかつた"
3月下旬
楠山は軍縮会議取材を終えロンドン戻る途中もパリに立ち寄る
"楠山氏からチョコレート貰う" "主人に済まないことだ、助けてくれ、だ"
4月1日
芙美子は詩人で作家のフランシ ス・カルコを訪問する
その時、リヨン大学の留学生・大屋が通訳をしてくれた
大屋と別れて戻った芙美子、 夕刻に出かけてカフェで食事をする
"こゝで又O君にあふ。O君、S君を紹介してくれる。S君建築をする人の由”
O君は大屋、S君は建築家の白井晟一(せいいち) である
白井晟一 1905(明治38)-1983(昭和58) 建築家
白井は京都生まれ。以下、芙美子の在パリ時代と重なる部分の年譜
1929年? ドイツの大学に留学 美術史を学び、ゴシック建築に興味を持つ
1931年 画家の義兄近藤浩一路が個展を開くためパリに来て手伝う
作家アンドレ・マルローらと交流する
1932年 義兄の再度の個展手伝いのため、再度パリに赴く
美術評論家の今泉篤男や芙美子らと交流する
1933年 シベリヤ経由で帰国する
写真を見るとダンディでまさしく芙美子好み、年齢も2歳下!
芙美子は別のところでこうも書く(超要約)
~3人でカフェを梯子、ウオッカを呑み、ダンスに興じて帰宅は午前2時~
4月2日
大屋が今泉と来訪 3人で中華料理を食べに行く そこで白井も合流
前日と同じカフェに行き 男3人が明け方近くまでプロレタリア芸術の議論
芙美子は聞き役に徹する、というより白井を見てはうっとり・・・
4月3日
白井と大屋は毎日のように芙美子宅を訪れ、夜は出かけているが委細省略
4月6日
芙美子が、かって詩人・金子光晴、画家・藤田嗣治らが住んだホテルに移る
4月8日
夜、白井が初めて一人で芙美子を訪ねる
二人でレコードを聴いて親密な時を過ごした・・・ようだが子細は不明
さて、このあと二人の仲はどうなるのか? 続きは明日に・・・
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]