遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

詩人あの人この人~林芙美子その8「下駄で歩くパリ」

2023年09月15日 | 読書



パリの滞在ホテルの階段に立つ芙美子

1931(昭和06) 28歳
11月23日 パリに到着、滞在したホテルの階段で撮った写真が上の写真
”初めの1週間はめちゃくちゃ眠ってしまった
 2週目はめっちゃくっちゃに街を歩いた” 昨日はここまで書いた 

今日は、めっちゃくっちゃに街を歩く芙美子を追いかけよう
引用元は「下駄で歩いたパリ」:婦人サロン1932(昭和07)年2月号掲載より
以下、””で囲んだ部分が私流超要約記述引用部分

私の下宿はダンフェル街 東京でいえば下町で物が安い
薪ざっぽうみたいに長いパンがうまくて安く、齧りながら歩けて楽しい
毎朝そのパンを買いに行く 黒い塗下駄でぽくぽく歩くのでみんな顔見知り
イタリー人の食料品店ではマカロニをよく買う
イタリー語は日本語に似て母音が多い 初夏にはイタリーへ行ってみたい
鳥打帽の風琴弾きが時おりやって来る これは初めてのパリらしい風情
音が聞こえるとあちこちの家の窓が開く 色々な人種が見えて楽しい光景”

芙美子は、シネマを観たり、合間のレビューを見たり、じっとしていない
かと思えば、パリのどの階級がフランスを支えているのか、なんて考える
誰かが知識階級、といえば、「フン、百姓とエトランゼでしょ・・・」
そして誰かが訳してくれた詩を、自分なりにパリの流行り歌ふうにする

”たまげちや いけない気が弱い
若い男と泣かうより優しいお爺さんと笑ひませう
どうせ浮世は出たとこ勝負
たまげてゐてはマンマが食えぬ”


パリ凱旋門で 映りが悪いですが手前が芙美子 他は不詳

芙美子は、パリの街は華やかに荒み過ぎている、と少し日本を懐かしむ
下駄で街を歩き回るから、道の固さにも文句をつけたくなる
パリの日本人は、パリを悪くいうなというが、あんたたちフランス人か・・・
どうやら芙美子はそれほどパリが好きではなさそうだ

彼女はフランスの女性についても書く 芙美子の文章をそのまま引用する
”こっちのお婆さんを一人日本に連れて行って銀座を歩かせたら、
皆おばけだと云って笑うにちがいない。
頬紅が猿のようで、口唇は朱色、瞳をかこむ青いド ウランを引いて、
 何の事はない油絵の道中だ。"

「油絵の道中」は、絵も描く芙美子ならではの卓抜な表現力
「おばけ」もそうだが 悪口ひとつ書くにも彼女の個性が光る
とはいえ 美しいものは美しい と素直に認めるのも芙美子

"どこの国も若い女はこよなく美しい
お化粧のめだたない、働いている女はとても水々しくていい
パリーの働いている女にどれだけの自覚があるのか
まだ日が浅くて判らないけれど
モンマルトルの下の新宿のよう街を歩いていた時
夜店を出している若い美しい女を見た
あんな可愛い女ならば、一寸飾ってカフェーに男を探せばいいのに
と思うくらい 一寸類なく良い娘で あっ た"

さて、女性の次は男性の話・・・ではなく下駄の話
パリの街を動き回るには洋装で靴の方が好都合だが芙美子はそうしなかった
何故? 芙美子の綴る話にヒントは?・・・無かった(読み飛ばしたか)

芙美子が自分で描く服装は (※) は注釈を追記
"二十五銭の塗り下駄に、紫のめいせん羽織、
新しいと云えば足袋と襦袢の襟だけで、大変粗末な風体だ
宮川美子さん(※1) とかが大変バタフライ(※2) を宣伝したのであろう
私を見てバタフライだと云って行く人も"

※1 宮川美子(オペラ歌手) 1899(明治32)-1995(平成7)
昭和6年パリ・オペラコミック座で「マダム・バタフライ」でデビュー
※2 バタフライ プッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人」

 宮川美子

また、下宿宿の掃除のお婆さんが芙美子に訊く
「お前は何時も足に板をぶらさげているが病気にならないか」と云う
で、私はジャジャと云う小犬(※下宿の飼犬) と走り競べをしてみせた
女中は腹を叩いて「小さい床が走っている」と云って笑った"

さて、今日は、恋愛放浪者でもあるパリの芙美子の話をするつもりでいた
が、明日に回そう
(音が鳴り出すまで20秒程かかるので、必要に応じて早送りを)

それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

詩人あの人この人~林芙美子その7「シベリア経由ヨーロッパ行き」

2023年09月14日 | 読書


芙美子と実父・宮田麻太郎

1931(昭和06) 28歳
多くの人気女流作家がヨーロッパの地への旅行経験があった
自分も絶対に行きたい、と芙美子は思う
衝動的に事を運ぶことの多い芙美子だが、この時は入念に準備をした

パリの旅行記を読む、パリ在住経験のある人を訪ねて話を聴く、
中・露・独・英・仏語をにわか勉強する・・・等々
2年くらい滞在するつもりなので、問題は費用だ
夫・緑敏と二人で行けるほどの蓄えは無いので、単身で行く
旅先から原稿を書いて送れば資金は何とかなりそうだ

海路で行くのが安全だが、陸路の満・中・露経由で行く方が費用が安い
前年、中国までは行った経験があるので大丈夫だろう
11月 列車で東京を出て下関へ、船で釜山に渡り満州へ

以下、翌1932(昭和07)年6月に日本へ戻るまでの主な旅程は次の通り
長春→ハルピン→マンジュウリ(露満国境)→オムスク→モスコー→パリ→
モンモランシィ→フォンテンブロー→バルビゾオン→ロンドン→マルセイユ→
ナポリ→コロンボ→シンガポール→上海

独芙美子は生まれながらの放浪者・・・つい応援したくなる
毎日のように記録を残し、寄稿もする それがみんな面白い

青空文庫に「シベリヤの三等列車」がある ぜひ読まれることをお薦めする

片言のヘンなロシア語を操って面白がらせたり
持込んだ道具や材料で料理を作ったり 乗客の誰彼なく振るまったり・・・
芙美子の持つ天性の資質がよく表れている

6信のあともモスコー(モスクワ)へと旅は続く
ロシア革命後のロシアの社会や人々の冷静な観察も芙美子は忘れない
革命が全ての人々に平和と豊かな暮らしをもたらしたのではない・・と 

明日はパリに着く
その夜に 芙美子はそれまでの出費を日別に細かく書き出す
合計 下関からパリまで約三百七十九円二十五銭 
二週間の汽車の旅 案外楽だった とも書いている

11月23日
パリに到着、某新聞特派員が手配してくれたキッチン付きホテルに滞在する
以下、「下駄で歩いたパリ」:婦人サロン1932(昭和07)年2月号掲載 より引用
(いつものように私流超要約記述引用)

”初めの1週はめちゃくちゃ眠ってしまった
部屋の形が凸型で歩きにくい 少し稼いだら四角い部屋に移りたい
家具付きだが 洋服ダンスはチャチ 2脚ある椅子は座ると足がぶらんこ
笑い転げるにはいい椅子だ 笑い転げて死にたい時はこの椅子に限る
壁紙が紅色の花模様 ここで病気になったら悲惨だ
2週目 私はめっちゃくっちゃに街を歩いた 
歩きながら、当度な歩いている人間の不幸さを哀れに思う”

芙美子 パリの古書店の前で

今日はここまで 次回は「下駄で歩くパリ」
できれば心ときめかす美男の話も・・・
それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]

詩人あの人この人~林芙美子その6「台湾・満州・中国へ」

2023年09月13日 | 読書



林芙美子 1903(明治36)-1951(昭和26) 撮影時期?

1930(昭和05) 27歳 
1月 台湾総督府の招待で台湾各地で講演する
日本の植民地下の台湾の台北、台中、高雄など、フォルモサ(※)を縦断する
※フォルモサ=Formosa:ポルトガル語で「美しい島」 

以下、「台湾を旅して」~女人芸術1930年より引用(部分)
<土語が美しい 台湾娘屹立として秀麗~
同行女性10人余、天民、山田、北村、生田、望月、堀江ら各女史
チャチな詩を読み、貧乏な漫談をこころみる林芙美子あり~
そしてじき、植民地風が、おたふく風以上に厭らしくなった
風景を汚すものは人間だ。台湾も段々内地化して来るが、
阿片癮者の行列や、ビンローで口を染めた広東女を見ると、
何だかお伽話のような気がする~
木瓜、椪柑、西瓜、バナナ、パインアプル フォルモサはランマンたる果実の島
 
芙美子は「台湾を旅して」の他にも以下を寄稿している
「台湾風景 フォルモサ縦断記」「台湾スヴニール」「基隆水望」

5月 豊多摩郡落合町上落合(現新宿区上落合)に転居
7月 『放浪記』(新鋭文学叢書・改造社)刊行、ベストセラーとなる
8月
9月 単身で満州、中国を旅行する

ここでも書いては寄稿している
~林芙美子さんの満州便り~「女人芸術」1930年10月号に掲載
8月26日「大連波止場」「大連にて」
9月1日「ハルピンにて」「ハルピン(長谷川時雨宛て)」
9月5日「奉天より」「撫順つくしかんにて」

10月 日本へ戻ってから以下を発表
「愉快 なる 地図 大陸 への 一人旅」~「女人芸術」1930年11月号に掲載
「ハルピン散歩」~「改造」1930年10月号に掲載
11月 「秋の杭州と蘇州」~讀賣新聞連載 
続放浪記』を刊行する(第二次新鋭文学叢書・改造社)
 
1931(昭和06) 28歳
1月 「春浅譜」(「東京朝日新聞」夕刊~2月)連載
4月 「風琴と魚の町」(「改造」)発表
この頃から、流行作家として身辺が多忙になる
11月 「清貧の書」(「改造)発表
同月 シベリア経由でヨーロッパ旅行に出発する

このあとは明日に持ち越す
実は、上記に掲げた台湾、満州、中国の芙美子作品を電子本で読み始めた
(残念ながら青空文庫化されていないのでリンクできない)
これが面白くてやめられず時間が無い!

今日は写真も無かったので最後に洋装の芙美子を(撮影時期不明)


それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]

詩人あの人この人~林芙美子その5「結婚&放浪の終わり」

2023年09月12日 | 読書




第二尾道尋常小学校時代の芙美子

2年ほど時を遡って、芙美子と緑敏の馴れ初めから結婚までの話を書く

1926(大正15) 23歳
芙美子は貸した本を返してもらうため、駒込の下宿屋を訪れる
そこで同じ下宿に住んでいた洋画を勉強中の手塚緑敏(1歳年上)と知り合う
12月、知り合ってすぐ芙美子は彼の下宿部屋に転がり込んで同棲を始める

ここまではいつもと同じ芙美子パターン
だが、ここから先が違ってくる
芙美子は、男と同棲を繰り返す過去の暮らしを清算したかった
結婚して安定した家庭を築き、自分は文学に専心するために・・・

が、画家修業中の緑敏に生活費は稼ぎ出せない
芙美子は、結婚してもカフェで働き、生活費を嗅ぎ出すつもりだった
緑敏にそう告げ、「結婚したい、式もあげたい」と言う
彼女に惹かれ、彼女の才能にも惚れていた緑敏も同意する
親しい友人たちを招いて、式をあげお披露目も行った

※芙美子のカフェ・エピソード
後述する「歌日記」にも、カフェ勤めの話が色々と出て来る
ここでは、友達で一緒に女給もした平林たいこの芙美子評を紹介
<美人ではないが一流の才能を持っていた
声がよく、暗さが微塵もなく、相手まで明るくする
彼女より美しい同僚の人気を奪い、話のわかるおもしろい娘だった>

1927(昭和02) 24歳
芙美子は結婚後もカフェで働き、生活費を稼ぎ出す
緑敏は銭湯の絵など描く仕事などをするが、稼ぎは少ない
年が明けて間もなく、芙美子は書斎のある家に住みたいと言い出す

1月、緑敏は、2間ある貸間を探し出し、二人は高円寺に移る
5月、芙美子は今度は一軒家が欲しい、と言い出す
これまた緑敏が貸家探し、杉並区妙法寺境内に移る

「やっと新婚生活が始まった」と芙美子は感極まって泣く
芙美子は喜怒哀楽が激しい、みんな含めて芙美子だと緑敏は理解を示す
売れない絵を描き続けるより、主夫で芙美子を支えるのもいいかも・・・

芙美子も美男子で温和な緑敏が好き、母や友達に自慢したくなる
「旅行に行こうよ」と緑敏を引っ張り出し、久しぶりの尾道へ
尾道に着くと、知り合いすべてに緑敏を自慢しつつ紹介して回る
緑敏も芙美子のそばにいて笑顔で挨拶する


昔の尾道風景

尾道のあと二人は両親の住む高松へ行き、結婚の報告をする
東京に戻った後、芙美子は作家活動にも本腰を入れて取り組む
12月、「歌日記」を書き上げる

1928(昭和03) 25歳
この年は芙美子にも、主夫の緑敏にとっても大忙しの年となる
1月、「海の見えない町」を雑誌「文芸戦線」に発表
2月、「いとしのカチウシャ」を同誌に発表
3月、「朱帆は海へ出た」、「洗濯板」 を同誌に発表
夏、緑敏の「生まれ育った所を見たい」と芙美子が言い、信州へ旅する
7月、長谷川時雨が「女人藝術」を創刊、芙美子も参加する
8月、「女人藝術」2号に詩「黍畑」を発表
10月、時雨の夫で編集者の三上於菟吉が「歌日記」に感動
於菟吉の提案で「秋が来たんだ~放浪記」に改題されて発表
この「放浪記」が好評を得て、昭和5年10 月まで断続連載となる 

「歌日記」は、日付入りの詩歌・句・散文が入り混じる(後の放浪記の原形)
その「歌日記」から詩を2編紹介する(PDF) 

1929(昭和04) 26歳
6月、第一詩集『蒼馬を見たり』を刊行する。
青空文庫『蒼馬を見たり』 (お釈迦様、赤いスリッパ、も含まれる)
この詩集には次の二人から序文が寄せられ、期待されていことが分かる
さらに芙美子の評判が高まり、雑誌社から原稿依頼が来るようになる

夏、「女人藝術」の若手育成・資金獲得のため講演会開催の話が出る
芙美子は、尾道・門司の講演会に出かける
10月、「九州炭鉱街放浪記」を「改造」に発表する。

翌1930年、芙美子は海外へ出かけるが、今日はここまで
明日またお会いしましょう 
[Roasy]

詩人あの人この人~林芙美子その4「恋人追って 東京へ」

2023年09月11日 | 読書


昨日は芙美子の画像を入れ忘れた。早速1枚。
 芙美子3歳

1922(大正11) 芙美子19歳
女学校卒業。 明治大学に通う岡野を頼って上京、小石川雑司ケ谷に住む。
風呂屋下足番、帯封書き、株屋事務員(すぐ馘)、工場の女工など・・・転々。
やがて両親が上京、三人で再び行商に戻り、あちこちの露店で商売する。

小石川雑司ケ谷の古い地図~江戸東京下町研究会サイトから転載


1923(大正12) 20歳
岡野は大学を卒業したが、家族の反対で芙美子との結婚を諦める。
彼は郷里因島に戻り、尾道の大阪鉄工所(日立造船に就職する。
芙美子は行商から足を洗い、再び職を転々とする。
9月、関東大震災で罹災。
灘の酒荷船に便乗して大阪まで行き、尾道に帰る。
その後、単身で再び上京、働きながら「歌日記」と題する日記を書き始める。
この頃から、これがのちの『放浪記』の原型となる。

※昨日は尾道のことを書いた芙美子作品の紹介を忘れた。
風琴で思い出したが、芙美子には音楽の才もあった。こんな写真もある。



1924(大正13) 21歳
3月、詩人で新劇俳優の田辺若男と同棲する。
田辺の紹介で、アナーキスト詩人らと親交を深める。
6月、田辺と別れる。
7月、友谷静栄とリーフレット型の詩誌「二人」を創刊(3号まで)。
8月、「文藝戦線」に詩を発表。宇野浩二から小説作法の教えを受ける。
12月、詩人野村吉哉と同棲する。 

1925(大正14) 22歳
4月、野村と世田谷町太子堂の二軒長屋に住む。
隣に壺井繁冶・栄夫婦が住み、近くに平林たい子・飯田徳太郎(同棲)らがいた。芙美子は、たい子とともに、詩、童話を売りに歩く。
冬、夜逃げをして世田谷町瀬田に移る。 


女給時代の芙美子(1925)

1926(大正15) 23歳
1月末、野村との同棲を解消し、新宿のカフェーの住込み女給となる。  
12月、本郷区追分町のたい子の下宿に同居、後下谷茅町に住む。
蓬莱町の大和館に下宿していた洋画を勉強中の手塚緑敏を知り、同棲する。 


芙美子と手塚緑敏 (まさはる、通称 りょくびん)

1927(昭和02) 24歳
1月、二人で杉並区高円寺に転居する。
5月、杉並区妙法寺境内に移る。


今日はここまで。明日またお会いしましょう。
[Rosey]