あすか塾

「あすか俳句会」の楽しい俳句鑑賞・批評の合評・学習会
講師 武良竜彦

2019年(平成31年・令和元年) 俳句作品の鑑賞と批評の学習会 2

2019-10-27 10:07:44 | あすか塾  俳句作品の鑑賞・評価の学習会
    
        2019年(平成31年・令和元年)
     
 俳句作品の鑑賞と批評の学習会  (「風韻集」「あすかの会」の作品の合評による)   

        総括記録   武良竜彦 

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野木メソッドを実践的に身につけるための合評会

   〇 俳句作品の「評価の二ステップ」の視点に基づいた鑑賞をする力を養う。

    ① 取り上げた句に心を動かされた理由。

    ② どのような表現だからそう感じたか。


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「あすか塾」11 評価のⅡステップに基づく俳句鑑賞・合評学習会 12月



第三十七回神奈川県現代俳句協会俳句大会 「あすか」同人 入賞作品より

雲いつも北向く旅心                       鴫原さき子

「いつも」としたのが、この句の表現上の命ですね。南に向くのは物見遊山の観光的な、わくわくした気持ちでしょう。「北向く」心は、自分を見つめ直したいという思いを暗示していますね。そんな気持ちを「いつも」抱えて生きている、自省的な心の在り様まで表現されています。 
※鴫原さんには武良より年間最優秀作品賞を差し上げました。
         
◎ 「風韻集」2019年1Ⅰ月号掲載句より 

〇 野木桃花主宰句

一枚の空を自在に夏燕
筍に獣の匂ひありにけり


 一句目は「一枚の空」、二句目は「獣の匂ひ」に表現の技が冴えていますね。同人のみなさんの句に少し足りないのは、この言葉の「切れ味」ですね。学びましょう。

〇 同人句

たてよこの風を絡めて捕虫網                   坂本美千子

「たてよこ」とひらがな書きで、虫取り網の矩形の限定空間を表現したところが、この句の命ですね。風ごと季節をすくい取っている雰囲気が出ました。

秋の園アブアブ乳児は万国語                   佐藤 照美

 まだ何語ともつかないような、国籍がないような乳児語は、だから「万国語」でもあるのだという発見がいいですね。

潮騒は胎内記憶夜の秋                      鴫原さき子

 全生きもののふる里、海。その「潮騒」に人間を越えた命を根源の記憶を呼び覚ます俳句ですね。

秋澄むや湖は蒼天映すのみ                    白石 文男

 海もそうですが、秋麗の湖は空を映し、空と一体になったような景をよく見かけます。「映すのみ」の言い切りが、そのすっきりした景の表現に相応しいですね。
 
実玫瑰マグマの亀裂あらはなり                  摂待 信子

 ハマナスの実は「ローズヒップ」と呼ばれジャムや果実酒、お茶に使われます。小粒ですが鮮やかな朱色をしています。それを「マグマの亀裂」と詠んだダイナミックな比喩が鮮やかですね。

柘榴の実タンゴのやうに生きたき日                高橋みどり

 タンゴのリズムはワルツのようには流れません。リズミカルですが、足を意志的に操らないと踊れない独特のリズムです。ただ愉快に踊るように「生きたい」と言っているのではなく、そこにある種の決意が込められている句ですね。

社旗泳ぐ工業団地秋高し                    長谷川嘉代子

 きっとこの「社旗」は団地の屋上のポールの上に、空を突き刺すようにはためいているのでしょう。空の高さを同じ職場で働く人達の社旗の高さで表現しています。

いわし雲格子の窓に映りけり                   服部一燈

「格子」に刻まれるように映じている空の「いわし雲」。日常のちょっとした景に目を留めている作者の眼差し。何か愛おしい時間が流れているような……。

枇杷剥いて防空壕の深き闇                    星  利生

「枇杷」を剥く仕草に「防空壕の深き闇」を対峙させて、戦中の記憶の風化を阻止しようとする意志の表明ですね。

種ふくべ夕日が重くなりにけり                  本多やすな

「ふくべ」とはゆうがお(かんぴょう)の実のこと。種を取り終わったふくべを,種入れや炭入れなどに利用したのが,ふくべ細工の始まり。昔,軍人の家族の土産物にもなったそうです。今でも茶道で初釜の時にこの炭入れをつかうからと,注文があるそうです。そんな持ち重りのするほどの大きな「種ふくべ」。その質量感から「夕日が重くなりにけり」と、晩秋・初冬の夕日の沈みゆく景の表現にしました。


秋蝶の翅重たげに杖の先                     丸笠芙美子

「秋蝶の翅」を蝶が重たく感じているとするとその動作のゆったり感の表現で、杖をつく人の感覚だと解すると、その小さな生き物の生きている実感を繊細に受け止めている表現に感じられます。どちらに解しても秀逸ですね。

コスモスへ無理な相談筆仕舞う                  三須 民恵

 句からの印象だと日本画を描いている人だと感じられます。「無理な相談」とは。自分に纏わる人事の相談ととってもいいですが、相手が「コスモス」ですから、画家らしい感性で、もっといい色、いい描き方はないものか、と悩んでいるとも解せます。どちらに解してもいいですね。

歩に合はぬ飛び石跳べる青蛙                   宮坂 市子

 典型的な例としては茶室などへの導線に、機械的で幾何学的な並べ方ではなく、和風の美的センスで、あえて均等ではない間隔に置かれた敷石があります。この「飛び石」もそういう類のものでしょう。跳躍が得意の蛙もそれを「踏み外す」ように跳んだ、というささやかな笑みを誘うひとこまでしょう。
「青蛙」は三夏の季語なので秋の表現には不向きですが、夏の記憶として詠んだと解しておきましよう。どこか笑いを誘う雰囲気があるらしく、俳人たちの次のような先句例があります。
梢から立小便や青がへる     一茶  「八番日記」
青蛙おのれもペンキぬりたてか  芥川龍之介 「我鬼句集」
青蛙ぱつちり金の瞼かな     川端茅舍  「華厳」

切株へ白い舌出す毒きのこ                    矢野 忠

「白い舌出す」が面白いですね。アッカンベーと茶化している感じです。「切株」に生えている「毒きのこ」が、その切株に対してアッカンベーをしているようで、諧謔が生まれています。「切株に白い舌出す毒きのこ」だったら、面白くないですね。

深秋やオルゴール館のネジ回す                 山尾かづひろ

 作者が小人の国に迷い込んだような縮小感、逆に言えば「オルゴール」の巨大化の雰囲気があって面白い。たぶん白い洋館仕立てのオルゴールなのですが、それを「館」の一言で言い得ているところがお見事。「深秋」が効いています。

田の中に産土抱く夏木影                     渡辺 秀雄

 自分の生まれ場所、風土であることを意識しているときに使われるのが「産土」といういう改まった言葉ですね。作者はそれを「田の中に」と感じ取っていて味わい深いですね。

車窓より虹のかけらを見つけたり                 磯部のり子

「車窓」から見えているのが、半円形のきれいな虹である表現だと、この句のような味わいはでませんね。消えかかっている、いや、鉄路か道路を移動している作者に、切れ切れになった虹が見えては隠れる。何かちりぢりになった大切なものを、心で拾い集めて慈しんでいるような味わいのある句です。

熟柿落つ狸は聡き眼して                     伊藤ユキ子

「狸は聡き眼」をしていると表現するのは、自然を相手に五感を研ぎ澄まして生きているものの「賢さ」に、共感しているからでしょう。熟して落ちる柿の姿も自然の摂理のままです。

原爆忌園に母子の水遊び                     稲葉 晶子

「原爆忌」は多くの人がこのように表現することができるようになるほど、成熟した季語となった、いい例だと思います。日常の何気ない一コマと対峙することで、「原爆」の命に対する計り知れない加害性が際立ちます。

苔百態道は二手に梅雨の蝶                    大木 典子

「苔百態」という自然の姿と、「道は二手に」という人事の対照がいいですね。岐路を前にして一瞬、その選択のために立ち止まった。そこに「梅雨の蝶」が視界に入ってくる。下五の置き方が成功していますね。

病窓へ向日葵百の笑顔かな                    大澤 游子

 もちろん「百」は誇張の数字で「たくさん」という表現ですね。「病窓」とくればもう、ここは違和感なく「向日葵」ですね。

ちちろ鳴くそこより先の風の闇                  大本  尚

「そこより先」という結界を指し示す言葉が効いていますね。指示語を句中で使うと失敗する人が多いのですが、尚さんは場の切り取り方に、いつも冴えのある俳句を詠みますので、失敗しない。「そこ」と限定した後、「風の闇」と、反対に空間的な広がりを持つ「闇」を置いている表現にも冴えがありますね。

漱石の門を愁思の一歩かな                    奥村 安代

 モデルになった実在の「門」でもいいですが、これは小説「門」の文学的主題を、新「うたまくら」として詠んだ句と解してもいいですね。「愁思」。漱石の愁いは近代的自我の確立期の、日本人共通の迷いと悩みでした。

方丈の縁側に座し涼新た                     加藤 和夫

「方丈」はただの四角い部屋と解してもいいですが、原意は1丈 (約 3m) 四方の部屋の意で,禅宗寺院の住持や長老の居室をさすことばです。『維摩経』に,維摩居士の室が1丈四方の広さであったという故事に由来します。転じて住職、そして一般的に師の尊称として用いられました。また有名な鴨長明による鎌倉時代の随筆「方丈記」を想起させます。冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…」という文章が有名で日本人の無常観を表した作品といわれています。無常観とは、世の全てのものは常に移り変わり、いつまでも同じものは無いという思想の事です。
この句は「涼新た」とその清涼感を詠んだ句ですが、わざわざ「方丈の縁側」という言葉を選んでいますから、背景に微かな無常観を忍ばせている句と読むこともできますね。

山頂に錆し洪鐘(おおかね)鷹渡る                加藤  健

「鷹渡る」 は三秋の季語で、おもに秋に南方へわたる鷹のことです。また冬鳥として秋に北方から渡来する鷹も指します。それを見上げている視線の手前に「山頂」の「錆し洪鐘」が捉えられている景ですね。「洪鐘」大きな釣り鐘のこと。国宝の「洪鐘」というと、 鎌倉の円覚寺の梵鐘がそう呼ばれていますね。そこに歴史を感じている句ですね。宇多喜代子さんに「寂しさは乾坤にあり鷹渡る」という句があり、こちらは、易の卦の乾と坤、天と地、乾(いぬい)と坤(ひつじさる)の方角の森羅万象に漂う存在の本質的な「寂しさ」を季語「鷹渡る」で表現しています。健さんの句にもそんな寂しさも漂いますね。 


第9回 あすかの会 令和1年1Ⅰ月22日 
 
《 兼題「明」「時」 ○主宰選 ◇武良選 》

○ 主宰特選

○◇ 子はぼそと障子明りに夢零す                宮坂 市子

 合評会では「ぼそと」呟いている「障子」を含む場所と、子どもの気持ちに感情移入した鑑賞がたくさん披露されました。控えめな性格の子供が、初めて自己主張して自分の夢を語ったことに、親の気持ちが動いていることに共感する句ですね。

◇ 武良特選

◇ 石蕗明かり一団となる山の影                 砂川ハルエ

 野木主宰も「石蕗明かり」という言葉を使った句を詠んでいます。「石蕗の花」が初冬の季語で、それに「明かり」を付けた表現ですね。「石蕗明かり」という季語はありません。しかし二人がそこに「明かり」を共通に感じているわけです。そう感じさせる雰囲気が「石蕗の花」のあの黄色にはあるわけですね。ハルエさんはその「明かり」の向こうに暮れ行く山々の「影」のだんだん濃くなる変化を詠んでいます。暗くなってゆくのですから、「明かり」の方も濃くなってゆくように感じるはずです。見事なのはいくつかの山の影が重なりあって「一団となる」としたところですね。

【高得点句順】

○ 時の鐘音張りつめて冬に入る                 丸笠芙美子

 冬は景と音が澄んで鮮やかさの強度が増します。「音張りつめて」という表現で的確に描きました。

○ 時雨煮をあてに一献冬に入る                 大本  尚
とつとつと昔語りを榾明り                  大本  尚


 尚さんのしみじみと身に滲みるような作句法の真骨頂の二句ですね。「時雨煮をあてに」「とつとつと」「榾明かり」の配置がみごと。「榾」が三冬の季語で、子季語として「榾火、榾明り」も季語ですね。囲炉裏や竈にくべる焚き物で、木の幹や枝、切り株などを干し乾燥させたものを使います。昔ながらの囲炉裏のある景ですから、みんなの心の共通に存在する「故郷」という心象景でしょう。

○ 里人の話膨らむ榾明かり                   奥村 安代

 安代さんはずばり「里人の話」と、実景的な引き付け表現で「榾明かり」を使いました。

◇ 荒星や時差を越え行く旅鞄                  金井 玲子

「冬の星」が三冬の季語で、「子季語」の中に「寒星、荒星、凍星、冬星座、星冴ゆ」があります。いずれも冬に見る星の、空気が澄んだ中の冴え冴えとしているさまを表します。その中で「荒星」には他の子季語にはない、パワフルな語感がありますね。他の季語だと「時差を越え行く旅鞄」という地球規模の「経度」が視野に入った表現はそぐわないですね。

  紅差して余生明るく帰り花                  坂本美千子

「紅差して」が可愛らしい表現ですね。「余生」の過ごし方の、自分を律した佇まいを感じる句ですね。

  巻紙の文の手触り一葉忌                   奥村 安代

 あの「たけくらべ」など、明治の女性の悲哀は、「巻紙」に毛筆で書かれたのではないかとも思わせます。昭和・平成・令和を生きる現代女性にも、一葉の文学少女の遺伝子が組み込まれているようです。

○ 山の端に明るさ残し夕時雨                  石坂 晴夫

 山の向こうに夕日が沈む一瞬、「山の端」の稜線が明るく輝きます。「時雨」でその光が空中に拡散し、滲んでいる景が浮かびます。心に何かを滲ませている作者の思いも伝わります。 

  冬の月心の感度研ぎ澄ます                  丸笠芙美子

 芙美子さんらしい抒情詩があります。「心の感度」は少し説明に傾きますので、ここは「総身の感度」と強調表現にしても良かったのではと思います。

○ 悠久の時を身に浴び冬銀河                  白石 文男

 文男さんにしては少し抽象的で説明的になった感じがします。合評会では、句意の壮大な時空の捉え方には、だれもが共感していました。

◇ 暫くの黙の相席時雨来る                   坂本美千子

 人見知りするはにかみ屋体質の人の緊張感が伝わる句ですね。人嫌いというわけではなく、人との間合いを気に掛けるあまりの初対面、あるいは見知らぬ人と言葉を交わすきっかけを掴むまでの戸惑い。鈍感で傍若無人の人には無縁の世界。

  紅葉狩時刻通りに来ないバス                 大木 典子

 この観光帰りの待ち時間を、肯定的に捉えていると解すれば、ほのぼのとした大らかな許容感に満ちた句意になります。「決まって遅れるよねー、イライラする」と思っては、紅葉を見た心地よさが消し飛びます。


  小夜時雨駅まで借りる女傘                  白石 文男

 なにやらドラマのある句です。合評会では多様な解釈が出ました。どういう状況か、傘を貸した女の人は何者、その間柄は? 例えば、これは亡き親友の御宅へ久々の弔問の帰りではないでしょうか。男物の傘はもう処分して一本もない、一人暮らしの奥さんが貸してくれた傘。駅まで送ってくれたのでしょう。そして一人で誰もいない家に帰る女の人の後ろ姿に、万感の思いを寄せていると解したい句ですね。

  十三畳半の落柿舎時雨くる                  鴫原さき子

「落柿舎」は、京都市右京区の嵯峨野にある草庵。松尾芭蕉の弟子、向井去来の別荘として使用されていた場所で、その名の由来は、庵の周囲の柿が一夜にしてすべて落ちたことによるとされています。芭蕉も三度訪れて滞在し、『嵯峨日記』を著した場所。その現場の空気感を「十三畳半」と表現したのはお見事。

  秋出水時追ふごとに悔ひ数多                 宮坂 市子

 「後悔は先に立たず」という諺の俳句版。「時追ふごとに」としたところが、この句の命ですね。時間経過を受動的な「経つ」ではなく、能動的に「追ふ」、つまり、何度も何度も反芻して、その度に悲しみを新たにしている気持ちが伝わります。

  酢茎漬の納屋のともし火村時雨                近藤 悦子

 母屋からぽつんと離れて経つ「納屋のともし火」としたところに味わいがありますね。
 
  山茶花や今散るのみにある時間                鴫原さき子
  小春日や膝やわらかく嬰をのせ                鴫原さき子


 一句目はさき子さんにしては、リズムが整いそこねて、説明的ですね。「今散る」その時だけのという思いが際立つように、もう一工夫されるといいですね。
 二句目は「膝やわらかく」が絶妙の表現ですね。陽だまりの雰囲気、こまやなかな愛情を感じます。

  初時雨手荷物二つ提げ帰る                  稲塚のりを
  書店みな照明あかるし文化の日                稲塚のりを


 一句目。情況が目に浮かびます。出かけたときより一つ手荷物が増えたこと、旅の何かがそこに凝縮された表現ですね。
 二句目。「照明」と「あかるし」が類語になっていますので、もったいないですね。書店の明かりが殊更際立って感じられるという思いの表現かと思いますが、他の物販店より書店は暗めではないかという合評意見にもあったように、そちらに寄せた表現の方が心に沁みたのではないかと思います。

  冬初時宗公の眠る庵                     大木 典子
  明治の世映す玻璃窓冬暖か                  大木 典子


 典子さんは今回、歴史の重さを表現しようとしていましたね。一句目はストレートに「眠る」と詠んでいますが、時間の経過を感じさせる表現にすればよかったと思います。二句目は下五の「冬暖か」が決まり損ねている感じですね。「歪みつつ明治を映す瑠璃窓」など、もっと工夫の余地がありそうですね。
  
〇 野木桃花主宰の句

陶工の双眼しずか石蕗明り
山鳩のふくみ鳴く里初時雨 


 一句目の「双眼しずか」がいいですね。精神が研ぎ澄まされて鎮まっている空気感が伝わってきます。
二句目は鳩のくぐもったような温かみを感じる声を「ふくみ鳴く」と表現されていて、いいですね。二つとも下五の季語が動きません。

□ 武良竜彦の句

冬林檎人生まだまだ生囓り
黄泉までの時速四キロ神の旅

自分ではこの二つはあまり評価していなかったのですが、高得点をいだたき、私が自信作だと思っていた「未来とは…」には票が入りませんでした。やはり解りやすい句が支持されますね。一句目の解説は無用でしょう。二句目は天がける神の速さと比べて、地を行く人間の徒歩の平均時速の遅さを対比表現してみました。











「あすか塾」9 評価のⅡステップに基づく俳句鑑賞・合評学習会 十一月
           
「風韻集」2019年10月号掲載句より 

一隅を照らす言の葉梅雨あがる                  加藤  健

 梅雨明けしたばかりの、晴天とまではいかない、まだ雲が斑に残っている空から木漏れ日のような日差しが降り注いでいる景が浮かびます。そんな日差しのように人の心にそっと光を灯すような言葉と出会っているのでしょう。

甚平や昭和の路地の生き字引                  坂本 美千子

「甚平」「昭和」「路地」が類型的で揃いすぎている印象がありますが、その「類型」的なありようの中に、時代を生き抜いてきた人の叡智があると、敢えて「類型」的であることを全面に差し出した表現ですね。

夏休み現の夢の果てしなき                    佐藤 照美

「現の夢」、つまり現実の望み、しかも「夏休み」の子供の希望が「果てしない」というのは、あれもしたい、これもしたい、どこかに行きたいという現実的なことでしょう。それを微笑ましく見守っている雰囲気がありますね。

羅を着てせせらぎのごとくいる                 鴫原 さき子

「せせらぎ」の中に居る、なら凡庸な句で終わるところですね。「せせらぎのごとくいる」と、自分の心の状態の比喩的表現にしたところが、涼やかでいいですね。

木槿散る言はずもがなの一語あり                 白石 文男

 そんな場面では、もうだれもがそう思うだろうというとき、それを現実に言葉にするか、しないか、では状況が変わってしまう、ということがあるでしょう。だから、そう言わないで、ぴったりの言葉があるよ、とだけ言っているのでしょう。上五の「木槿散る」を念頭に、さて、作者はどんな言葉を呑み込んだのか、推理するのは楽しいですね。みんなが思うだろうことを、敢えて口にすることで、みんなに心が一つになるということも、逆にあるでしょう。

朝霧の闇より生まる日の欠片                   摂待 信子

 まだ朝霧が残っている、何か厳粛な景を思い浮かべますね。強い日差しではなく「日の欠片」のような日差し。でもしっかり「闇」を払うほどの光を湛えて。それを「誕生」のイメージで詠んだ句ですね。作者が宮古在住で、どうしても三・一一震災が心理的な背景にあると感じると野木主宰は評していました。

集まればいつも聞き役アイスティー               高橋 みどり

 一読して、作者の控えめな人柄がストレートに伝わってくる句ですね。だまって「アイスティー」を飲みながら、みんなの話に穏やかに相槌をうっているのでしょう。話し言葉の次元では自己主張せず、韻文で自己表出する詩人の心でしょうか。

公園に大きな日蔭お飯事                   長谷川 嘉代子

「公園に大きな日蔭」まで読んで、それで何がと思っていると「お飯事」と結ばれる。そんな遊びをするに適した公園のサイズが見えてきます。日差しまで柔らいで感じられるから不思議ですね。子供たちへの作者の眼差しそのものですね。

手花火や浮かぶ笑顔の大人びて                 服部 一燈子

「大人びて」というのだから、手花火を持って火花を見つめているのは子どもですね。周りが暗いので、火花の明かりで顔の陰影が濃くなります。そこに一瞬「大人びた」表情を発見した感慨を詠んだ句ですね。

帰省子に道草の土手ありにけり                  星  利生

「道草の土手」がすばらしい表現ですね。「土手で道草」だと説明になります。「道草の土手」ということで、日常の多忙さから解放された、故郷での時間が象徴されて、そんなゆったり時間が持ててよかったね、という親心が浮かび上がりますね。

どの雲もいきいき流れ長崎忌                  本多 やすな

「どの雲も」が効いている句ですね。下五が「長崎忌」ですから、どうしても原爆禍の犠牲になった無辜のたくさんの市民が想起されます。「犠牲者」と一括りにして悼みの対象にされてしまいます。「どの雲も」に、犠牲者一人ひとりの命のかけがえのなさの思いが込められて句ですね。

崩れたる墓をはなれぬ梅雨の蝶                 丸笠 芙美子

「墓をはなれぬ」という立ち去りがたき思いを「蝶」に託した句ですね。「崩れたる墓」ですから、もう墓参に来て世話をする人もいなくなった孤独な墓ですね。

久に来てふるさと背負う稲の花                  三須 民恵

 下五の「稲の花」が、「ふるさと」を「背負って」いると、一物句的に読めもしますが、ここは「背負う」で切れて、「久に来て」いる人が、「ふるさと」を背負っているという思いの表現を、季語の「稲の花」と取り合わせた句と読む方が、深みと味わいが出ますね。我が故郷の誇りの銘柄米を詠んだと解してもいいですね。

雨の闇未央柳の黄を点じ                     宮坂 市子

「未央柳」(ビヨウヤナギ)は半常緑性の小低木で、花期は五~七月頃。直径五センチ程の黄色の五弁の花を咲かせる。枝先がやや垂れ下がり葉が柳に似ているので、ビヨウヤナギと呼ばれるが柳ではありません。 中国では金糸桃と呼ばれ、未央柳の字を当てるのは日本での通称。由来は皇帝が楊貴妃と過ごした地を訪れて、太液の池の蓮花を楊貴妃の顔に、未央宮殿の柳を楊貴妃の眉に喩えて 未央柳の情景を詠んだという故事になぞらえて、美しい花と柳に似た葉を持つ木を、この未央柳と呼ぶようになったといわれています。市子さんはそれを「雨の闇」の中に輝くきいろの光のように詠みました。

送りまぜ視界二七〇度のキャビン                 矢野 忠男

「送りまぜ」は陰暦七月の盂蘭盆を過ぎて吹く南風のことで、初秋の季語ですね。もともとは近畿や中国地方の船人の言葉。「送り」と付くのは、商用の終わった北前船を北へ送り返す意からだそうです。この句は「キャビン」からの視界に照準を当てています。全方位角引く二七〇度イコール百九十度が、視界から外れた室内、つまり作者が立っている位置ですね。外の視界を詠んで、それを見ている人の位置、存在感を浮き彫りにした句ですね。

曳船の裸なる火夫白灯台                   山尾 かづひろ

水路に浮かべた船を水路沿いの陸路から牽引する「曳船」の「火夫」、つまり蒸気機関が運転を続けるために必要なボイラーの火を扱う人が「裸なる」という状態だという句ですね。熱気が伝わってきます。下五の「白灯台」が涼やかで対照をなす印象深い句ですね。

町筋に風かよひだす祭笛                     渡辺 秀雄

「町筋に風かよひだす」と一気に詠んで、まっすぐ風が吹き抜けていくようです。下五の「祭笛」で、風の景が音の景に転換されて、空間的な広がりが見えてきます。

廃校の風に靡くや今年竹                    磯部 のり子

 上五の「廃校」と、下五の「今年竹」という構成が技ありの句ですね。生徒たちの姿が消えて久しい年月と、その後もずっと「今年竹」は生え続けているという「今」を鮮やかに切り取りました。「風に靡く」というしなやかな「時」という現在です。

花すすき入日の涯を母がゆく                  伊藤 ユキ子

 この句の時間は今ですが、映像は記憶の過去のように感じます。今の実景と解してもいいでしょうが、上五の「花すすき」と「入日の涯を」という景の中をゆく「母」の像に、一方ならぬ思いが込められていて、永遠の「今」という記憶を感じさせる句ですね。

山開き山頂一気に重くなる                    稲葉 晶子

「山頂一気に重くなる」と質量感の表現にしたところがこの句の命ですね。山頂を覆う緑が濃くなってきた、「山開き」の季節感が伝わります。

峰雲や城郭跡に三角点                      大木 典子

上五で季語の「峰雲」という視線を空に向けた後、一気に足元の「三角点」に絞り込んでくる表現がおみごと。「三角点」は三角測量に用いる際に経度・緯度・標高の基準になる点のことで、日本では高山の山頂や公立学校などの公的建造物の屋上に設置されている、地理学的、行政的にも大切な位置を示すものですね。この句では自分が立っている地点の存在感をそれに託しています。

賑はひの余韻呑みこむ土用波                   大澤 游子
 
 土用波は晩夏にあたる「夏の土用」の時期に、発生する大波のことで、古くから漁師の間などで知られていた現象ですが、今は近代気象学の発達で遠洋に存在する台風の影響であることが分かっています。「賑はひの余韻」丸ごと「呑みこむ」とした表現が効いて、夏の終わりを実感させます。 

落蝉を載せるこの世の手の温み                  大本  尚

 尚さんの心身に沁み込んでくるような実感実存的な作句法が、ここでも冴えていますね。「持っている」と言わず「載せる」と言い、ただの手ではなく「この世の手」で受けてしみじみ感じている「温み」なのです。これぞ実存俳句。

梵妻の声やはらかし半夏雨                    奥村 安代

「梵妻」は僧侶の妻のことですね。「半夏雨」は梅雨の終りの方の、比較的静かな振り方の雨ですね。夏至から十一日目、つまり七月二日ごろにあたる季感です。僧侶かさと響き合う言葉になっていますね。夫の僧侶のように自分も心を律して生きている人の声色に、何か感じるものがあったのでしょうね。

三輪山を御神体とし夏の雲                    加藤 和夫

 太古よりどんな山も、「神」の「山」でした。特に奈良盆地の三輪三山は、人びとの暮らしを見守る神山として、朝に夕に人々は手を合わせていたといいます。自然に対するそんな敬虔な心を私たちは失っているのではないでしょうか。下五の「夏の雲」が効いていますね。


第9回 あすかの会 令和1年10月25日  

《 兼題 先 島 ○主宰選 ◇武良選 》

○ 主宰特選

〇◇ 雨の打つ夜長の一人孤島めく                宮坂 市子

 「孤島めく」の孤絶感で孤独感、いいしれぬ寂寥感が表現されていてみごとですね。「雨の打つ夜長」にも無駄と隙がない表現です。

◇ 武良特選

◇  
鳥渡る丘に居留地風見鶏                 坂本 美千子

 明治維新、外国文化の流入という時代の激変の象徴である外国人の「居留地」跡、その洋館から空に突き出す「風見鳥」。海外との交流の地であったことを示す「鳥渡る丘」も決まっていますね。分厚い歴史感の降り積もる丘です。

【高得点句順】



島の影沖へ溶け行く秋時雨                 白石 文男

 秋季独特の空気感が詠めていますね。しだに濃くなる秋時雨の中の海の遠近感と静かにゆっくり過ぎる時間も感じますね。

◇  実柘榴の開ききったる不安かな              鴫原 さき子

 何かを達成して充実感に満ちている気持ちに、忍び寄る茫漠とした不安感という心理を、「実柘榴」という実景で表現しました。

  野原行くわが後先に秋あかね                 白石 文男

 トンボに纏わりつかれている景ですが、今回の兼題の「先」の字を使った「後先」という言葉で詩情が溢れます。自然の中の今という季節を噛みしめている句になりました。秋という季節感に包まれている雰囲気がでた好句ですね。
 
  島唄を口遊みつつ盆用意                  金井 玲子

句会の席では、「島唄」が沖縄を指すように受けとめられて鑑賞されました。本人は限定するつもりはなく、島の現場ではなく、都会で暮らす人が故郷を回想して口遊んでいる「島唄」だということでした。どちらに解してもいい句ですね。

〇  旅先は時空を超えて星月夜                丸笠 芙美

 旅の解放感を「時空を超えて」と広げた表現にしました。下五が「星月夜」なので、宇宙まで広げられた感覚がでた句ですね。

  一葉の質屋あの先菊日和                 坂本 美千子

これは指示語をうまく使って、その場にいる臨場感を表現しましたね。ひよっこり一葉が出てきそうな句です。
 
  大根の千六本にみる刃先                  宮坂 市子 

「千六本」(せんろっぽん)、または「繊六本」と書き、大根などを細長く刻むこと、または刻んだもの、千切りのことですが、元々は漢字の「繊蘿蔔(せんろふ)」の唐音「せんろうぽ」の音韻変化したものだそうで「千六」という数字には意味はない言葉だそうです。辞書には狂言の文例として、「又せろっほうにきざむか。いやいや、是はせぎりにすると申」と出ています。その切り口で、切る側の刃先を表現しました。なまくらの刃先では綺麗な千切りはできないのです。日常、包丁を使い慣れた人の「技」の冴えというものでしょう。

  打楽器のセッションのごと台風裡              松永 弘子

洋楽風に「セッション」という言葉を使ったのが洒落ていて、暴風の恐怖感が和らぎますね。

〇  迷ひこむ道の後先秋の風                  近藤 悦子

 白石文男さんの「後先」は野原行きのトンボでしたが、近藤悦子さんは自身の迷い道の表現で、季語の「秋風」なんとも言えない寂寥感が溢れますね。

  さめやらぬ夢の後先星あかり               丸笠 芙美子


丸笠芙美子さんの「後先」は「夢」。現実のまだ覚醒しきれない状態の表現と解してもいいですが、見果てぬ夢の喩としても読めますね。「星あかり」は希望で光であるのか、ないのか、何か、あえかな光ですね。

◇  虫すだくパイプラインの奔る闇               奥村 安代

「パイプライン」と言えば、紛争収まらぬ中東の景が浮かびます。その不穏なイメージも引き連れて、この句では地中の闇をごうごうと音を立てて流動物質を流すインフラ設備です。その上の地上では「虫すだく」何ごともない秋の夜が広がっています。イメージが喚起する世界と現実のギャップを表現した句ですね。

〇  先生は青森出身佞武多好き                 大木 典子

 西日本には東北出身の先生は皆無です。その存在は関東止まりでしょう。そういう青森ではない地に赴任して、そのお国訛りごと生徒に慕われた先生の姿が浮かびますね。青森出身者で「佞武多なんて嫌いだ」という人に会ったことがありせんから、やはりあの一大イベントは県民的誇りなのですね。

◇  秋茄子の刃先に罅の走る音                 宮坂 市子

 実がぎっしり詰まったパンパンの秋茄子。包丁を当てると音を立てて罅われそうな雰囲気です。実際にその音を聞いたと読んでもいいですし、表現としてそういう比喩をしたと読んでもいい句ですね。その存在感を捉えた句ですね。

  枝先にとびたちそうな鵙の贄               磯部 のり子

まだ捕られてきて贄にされたばかりの小動物でしょう。もがき苦しんでいる景でしょうが、それを「とびたちそうな」と表現したのは作者の慈愛の眼差し。水田や小川のある町では蛙も贄にされるそうですが、この句では羽のある生きものですね。

  
鉄柵の先アメリカ昼の虫                  大本  尚

 いつも実存感のあるしみじみとした実感俳句を詠む大本尚さんが、珍しく基地問題という社会問題を背景にした句に挑戦しました。それでも「昼の虫」が鳴いている「鉄柵」という不可侵の象徴を実感的に表現するこだわりがみごとです。

◇  四島を指呼の間に聞く霧笛かな               大本  尚

 同じように北方領土という問題に果敢に挑戦した句ですね。それで前句と同じように、その詠み方が「指呼の間」に「霧笛」を聞くという実感に引き付けた表現に尚さんらしさが顕れています。社会問題を詠むときに陥りがちなスローガン臭がまったくない、みごとな表現ですね。

  故郷に心残して今年米                   金井 玲子

「心残して」という表現から、故郷に帰省して地元で愛される「今年米」を贖って、故郷を離れようとしている景に読めます。句会では都会にいて、故郷の「今年米」を前にして、故郷に置いてきたさまざまな感慨を思い起こしている句という読みが出ました。どちらの読みでもいいですね。「今年米」の力ですね。


  はるかなる流刑の悲話や島は秋              鴫原 さき子

 実際に流刑地を訪れて、それに纏わる悲話の数々に耳を傾けているのでしょう。そのときの感想を詠むのではなく、下五にただ「島は秋」とした俳句的省略が効いて、余韻の深い句になりましたね。

  こつこつと生きて片隅石蕗の花              砂川 ハルエ

「世の隅に生きて」なら凡句なるところ。上五に大胆にオノマトペの「こつこつと」を置いて、そのリズムに乗るように「生きて片隅」という倒置表現にしたのがいいですね。「石蕗の花」はよく道路の片隅に咲いているのを見かけますからリアリティもありますね。

  案内は舳先のかもめ秋高し                 奥村 安代

下五に「秋高し」を置いたことで、船上から見上げている秋空を背景にした「かもめ」の姿が生き生きと目に浮かびますね。

◇  赤とんぼ一歳と指立てし子や               磯部 のり子

「かわいいねー、いくつ?」と問われて、ピンと小さな指を立てたのでしょう。大人の指なら「赤とんぼ」も留まりに来るかもしれませんが、それには足りない小さな可愛らしい指です。作者の愛情が感じられる好句ですね。 

   口先に競り値の代はる秋刀魚かな              石坂 晴夫

 競り市の勢いのある競り声が市場に響く景が目に浮かびます。素人には何を言っているのか分からない独特の響きの早口で、臨場感たっぷりです。「秋刀魚」漁に異変が起きているそうですから、それが競り値の変化にも影響しているのでしょう。

   瀬戸内に島じま多し秋時雨                稲塚 のりを

 俯瞰的な視座から、瀬戸内の景を秋の空気感まるごと捉えた句ですね。小島の連なる内海の秋の時雨にはことのほか趣がありますね。

【野木桃花主宰の句】

秋天へ心の窓を開け放つ

 作者が明かされるまでは奥村安代調の句だなと思っていました。主宰の句だったのですね。若々しい。師弟の思わぬ似た傾向を改めて知りました。実感の伴う希望の光や、人生的な深い味わいが象徴的に立ち上がってくる傾向の作句法を、奥村安代さんが、すっかり自分のものにしていたのだなと、改めて思いました。

髯の濃きラガーマン行く背中かな

 これも若々しい力漲る句ですね。「背中」にしたのが良かったようですね。熱い声援を心から送っている作者の心理が伝わります。

《武良竜彦の句》※自解

薄紅葉一寸先の闇照らす

 水俣生まれなので、戦後の闇の表現が身についてしまっているのでしょう。紅葉を見てもその背後の闇を見てしまう癖があります。

秋風を乗りつぐ御霊天の澪

 句会では少し難解だったのか、いろんな読みが出ました。天から御霊が下りてきている、または昇っていっている、そのどちらにも取れる表現をしました。これはもちろん実景ではなく幻影幻想句です。水面に残る航跡である「澪」という言葉を、天空に刻もうと意図して詠んだ句です。




「あすか塾」8 評価のⅡステップに基づく俳句鑑賞・合評学習会 十月
 
「風韻集」2019年9月号掲載句より 

回廊にしばしの刻を蓮の花                      加藤 和夫
【評】中七の「しばしの刻を」で言い留めている省略のと表現が味わい深いですね。散文で表現すると、「蓮の花を観賞する回廊でしばしの時間を過ごしましたよ」となりますね。この「しばしの時間を過ごしましたよ」と「回廊にしばしの刻を」は、流れている時間の質ががらり変わります。詩的な世界に一変させる力がある表現ですね。その時間を作者と蓮の花が共有しているような趣が感じられますね。作者の年齢も感じます。

万緑のなかに聖母の慈眼かな                     加藤  健
【評】実際に「万緑」の中に「聖母」像がある景を詠んだ句と鑑賞できますが、下五の「慈眼」の内実を「万緑のなかに」と生命力の表現したところが、この句の命ですね。「聖母」が「聖母」である所以は、その「母性」性だけではなく、この「万緑」を包み込むような広い心ですね。下五の漢語に凝縮した「慈眼」という眼差しの語で受けたのもすばらしいですね。

送り火の地を這う煙雨しとど                     佐藤 照美
【評】お盆にはご先祖様の霊が帰って来ると言われており、迎え火はそのときの目印になり、送り火はご先祖様の霊があの世へ戻っていくのを見送るためのものといわれています。霊との別れを惜しむ雨が降っていると表現しているのでしょう。火ではなく「煙」に焦点を当てているところが、この句の命ですね。迎え火と送り火の火は、木皮をはぎ取った麻の茎(苧殻)を燃やした灯で、そのそんなに量の多くない煙が儚げです。迎え火と送り火は、昔は墓前で行うのが一般的だったそうですが、現在はお墓が遠方にあるなどの理由から自宅の玄関先ですることが多いようです。そんな場面も見えてきます。

野茨の身辺匂ふ風匂ふ                        摂待 信子
【評】「身辺匂ふ風匂ふ」のリフレインがいいですね。秋風の澄んだ軽やかさが伝わります。「野茨」はバラ科の落葉性のつる性低木で、沖縄以外の日本各地の山野に多く自生する花です。個々の花は白く丸い花びらが五弁あり、雄しべは黄色で香りがある。その香りの方に焦点を当てたところがこの句の命ですね。

鳥声の重なり合ひし夏の森                     長谷川嘉代子
【評】「鳥声の重なり合ひし」という把握の表現がこの句の命ですね。そこに重点があるので、下五を特別な表現にしないで「夏の森」と添えた表現もいいですね。小鳥たちの囀りというのは一種類ではなく、多種混合の響きで空間的な広がりを感じさせます。

もろもろの残像多し原爆忌                     服部 一燈子
【評】記憶ではなく「もろもろの残像」としたのが秀逸ですね。「記憶」よりたよりなく消えてしまいそうな危うさを感じます。「陰影」だったら深く心に刻まれそうですが、私たちはそんなふうに「原爆忌」の指し示すものを捉えきれているだろうか、と言う思いまで感じる句ですね。「原爆忌」が「もろもろ」人それぞれの思いの中に、それぞれの形で「残像」としてゆらぎ、そのうち、なんの感慨も引き起こさない、ただの行事となってしまうかもしれませんね。

春水を零して中庸学びけり                      星  利生
【評】「春水」は春になって、氷や雪がとけて流れる豊かな水。それを「零す」と言えば、「零して」いる主体は人間の「私」ではなく、冬の間、深く雪を抱いていた山々のことでしょう。そんな自然のような境地で「中庸」を学んだということでしょうか。「中庸」は儒教において、「四書」の一つであり、「中」とは偏らないこと。物事の中間を取るという意味ではなく、常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らないということ。「庸」は、「平常」「常」であること、特に優れた点や変わった点を持たない普通の心という含意もあるといいます。「中庸」の徳を身につけることは聖人でも難しい。だからといって、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもあるとされているそうです。そういう意味で上五の「春水を零して」が効いている句ですね。

七夕やこの世に残す二人の子                    本多 やすな
【評】「この世に残す」という言葉に込めた思いが、どんなものであるかということは省略されています。それが俳句の利点で、読者それぞれの思いをそこに託して鑑賞すればいいわけです。代表的な二例を参考までにあげてみます。自分がいなくなった後、この「二人」の子らがちゃんとやってゆけるのか、と子どもたちが幾つになっても、そんなふうに案じる親心が考えられますね。もう一つは命のバトンを二つの命に引き継げたことを誇りに思っているという「読み」も可能ですね。でも、このご時世、社会がだんだんおかしなことになってきているという気持ちを、みなさんも共有しているのではないでしょうか。そうすると、第三の「読み」で、人類の未来を案じる大きな認識の中で、子らの未来を憂えている、というようにも解せますね。上五の「七夕」が効いています。

会う為に寄る店の裏合歓の花                     三須 民恵 
【評】「会う為に」寄ったのが、「店」で待っている誰か、という人ではなく、「合歓の花」だった、という「予定調和」のさわやかな裏切りが楽しい俳句ですね。もちろん、「裏」で切れて、「店の裏で人と会うために来た」というように、中七までを独立した意味に取る鑑賞の仕方もあり得ます。その場合「合歓の花」は独立した季語としての時候を表す措辞にすぎませんね。どちらの読みをするかは読者の自由ですね。私は繊細な赤い扇を広げたような合歓の花に会いに来た、と解したい。

暮れるるまで日田行く野径著我の花                   宮坂 市子
【評】「暮るるまでひた行く野径」と一気に言い切っているところがいいですね。これを受ける下五の「著我の花」もいいですね。根茎から繊細な匍匐枝を伸ばしてうす暗い林の下などに群生する花です。花径五センチくらいの淡い紫色の花。開花した翌日にはしぼんでしまう花で、結実もせず、球根もつくらない、今という時を生きる花ですね。

境目を超える構えの青南瓜                      矢野 忠男
【評】「境目を超える構え」の「構え」に作者の思い入れが覗えますね。「青南瓜」はただ成り行き任せて蔓を伸ばしているだけでしょう。そこに「決心」のような思いを滲ませて、作者の普段の心の在り様までが読者に伝わってきます。矢野さんには他に「これよりは結界なるぞ梅雨の蝶」という句があり、ここでも越境に向かい合う姿勢が覗えますね。

寒村のこののちさぐる尺蠖か                     渡辺 秀雄
【評】中七の「こののちさぐる」という思い入れが尋常ではありませんね。人口減少、過疎化、縮みゆく日本社会、戦後高度成長期の高揚感が幻となって消滅しようとしています。経済的な豊かさを日本人のアイデンティティのように錯覚していた時代精神の錯誤が、今、身に滲みる時代です。いまや「平成」も終わり「令和」。無人化した「寒村」で「尺蠖」だけが、日本の自画像の寸法を測り続けるのでしょうか。

水音と付かず離れず花菖蒲                      稲葉 晶子
【評】「水音と付かず離れず」の距離感が妙にリアルに心に迫る句ですね。流れに沿う道と、流れに沿う「花菖蒲」の群生。この景だとふつう「花菖蒲」に沿って、と表現してしまうところですね。それを「水音」という、人間と「花菖蒲」の双方を結びつける言葉にしたところがこの句の命ですね。おみごとです。

つながらぬ夢の欠片や明易し                     大澤 游子
【評】もともと夢というものは、記憶の「欠片」を、脳が整理しているために、ランダムな「映像」の知覚のような作用を引き起こしているものだ、という説があります。そんな含意を背景に、作者が切れ切れになって、とりとめもなくなってしまった「夢」の欠片を繋ぎ合わせようと「夜想」している句ですね。下五の期限が切られたような「明易し」が効果的ですね。この句の「夢」を若い頃に夢見たたくさんの「希望」と解釈すると、ある種の切なさが胸に迫ります。一本に繋がる統一性のある志をもっていたら、何を成就し得ただろうか、というような苦い思いですね。そこまで読み込まなくても、とてもいい句ですが、敢えて深読みをしたくなる句ですね。

     ※     

第8回 あすかの会 令和1年9月28日 (○主宰選 ◇武良選)

○主宰特選  
座せば我も千草の一つ畦小径                宮坂 市子

「座す」には「畦小道」がちょっとピンとこないという評もありましたが、深い思のこもるいい句ですね。宮阪さんの最近の飛躍には瞠目すべきものがありますね。

◇武良特選
花韮の白もてかはす強風雨                 宮坂 市子

 強い風雨に耐えていることを「白もてかはす」としたところが独創的ですね。

【高得点句順】
○  彼岸花色に迷いのかなりけり                鴫原さき子

 花の鮮やかさ、すぐ枯れてしまう彼岸花に、自然の毅然とした意志を感じとっている句ですね。
  
○◇ 冷まじや地球いびつにして空母               奥村 安代
 上五の思いきった「冷まじや」と「地球いびつにして」が考えさせられる句ですね。「空母」が地球の本来の姿をゆがめていると、あの船体に異様な圧迫感を感じている表現ですね。

○ 猫じゃらし風を焦らしてをりにけり             坂本美千子
 摘まれて人の手で「猫じゃらし」として使用される植物を、自立的な存在として「風を焦らして」と逆転させた面白い句ですね。

○  みな過ぎてゆくものばかり風の盆               鴫原さき子
 短歌のような抒情性と情感がある句ですね。「風の盆」は「おわら風の盆」のことで、富山市八尾地区で、毎年九月一日から三日にかけて行われている年中行事ですね、越中おわら節の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い町の道筋で無言の踊り手たちが洗練された踊りを披露します。艶やかで優雅な女踊りは、女性がこの辺上なく美しく見えて、それと勇壮な男踊り、哀調のある音色を奏でる胡弓の調べなどが来訪者を魅了します。「とやまの文化財百選(とやまの祭り百選部門)」に選定されている華やかな祭りでもありますが、「みな過ぎてゆくものばかり」という人生的な哀歓が漂う不思議な祭りです。

一刷けの色を加えて酔芙蓉                  大本  尚
 洗練された日本画の筆遣いでの「一刷けの色を加えて」という、繊細な心の動きを感じる句ですね。「加えて」という表現には技がありますね。

行間を揺らぐ眼や秋の夜                   近藤 悦子
「揺らぐ」という言葉は、その本体が揺れる様を、人が感じ取っていう言葉(例 「心がゆらぐ」「建物が揺らいでいる」など)、この句はその通常の使われ方を破った、実験的な表現ですね。「眼」が「行間を揺らぐ」という言い方にインパクトがあるのはそのためですね。心が大きく揺らいでいるのを感じます。

透明な風を捉えて秋桜                    奥村 安代
 不可視のものを幻視する心の動きを捉えた句で見事です。

○ 端渓の小さな硯星月夜                    大木 典子
「端渓の硯」といえば中国,広東省肇慶(ちょうけい)市南東の硯石で、その端渓という地は凝灰岩の良質の硯材を産出するそうで、唐代の末からその名を知られ,宋代以後は文房具の最高品として文人墨客に珍重されたといいます。そんな高価だけど小さな硯で、墨を磨っています。外は「星月夜」。凛とした空気が漂います。

◇ 鉦叩星を数えているらしき                  鴫原さき子
「風の盆」の俳句といい、この「鉦叩」の句といい、鴫原さき子さんの表現には、和歌的な深い抒情性がありますね。情感に溺れ過ぎない技があります。

耳で追ふ野分の行方午前二時                 高橋みどり
「午前二時」とあるから、深夜であることが明示され、「耳で追ふ」で台風の激しさも伝わります。横になって一睡もできずにいる身体的な緊張感も伝わります。「午前二時」以外の言葉で、同じことが表現できたかどうか、迷うところでもありますね。

○ 銀漢の宙をさすらふ難破船                  丸笠芙美子
 一読後、直感的に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の、死者が天に向かう途中で乗る「銀河鉄道」に、、難破船の犠牲者たちが乗り込んで来て、去ってゆく一シーンを想起しました。この句は「難破船」ごと「宙」を流離っているというのです。

○ 塩壺の中の純白秋めけり                   白石 文男
「塩」の「純白」に秋の気配を纏わせたみごとな句ですね。小さな「塩壺」の中という絞り込みが効いています。

リフトより足を宇宙へ薄原                  松永 弘子
「足を宇宙へ」という大胆な表現で、爽快感のある解放感を表現しました。

合掌の肩こきざみに秋夕焼                  坂本美千子
 悲しみに耐えている心に寄り添う、優しさ溢れる句です。

はじめソロやがてハモって虫時雨               松永 弘子
「ハモる」というのは「ハーモニーをとる」で、美しい和音の共鳴のことですね。
正確に測定すれば、「虫時雨」は不協和音でしかありません。西洋人には「騒音」にしか聞こえず、「虫時雨」を愛でるのは日本人的耳なのだそうです。最初は「ソロ」で始まって、合唱、合奏になるという立体音響感がいいですね。 

たちまちに残照の海鰯雲                   金井 玲子
 秋の暮の変化の速さを詠んだ句ですね。色が刻々変化する「鰯雲」とその下の「残照の海」の景が浮かびます。

菩提寺に空きの立て札小鳥来る                砂川ハルエ
 後をみてくれる人がいなくて「墓仕舞」をする人が増えているそうです。「菩提寺」ですから、代々その寺の宗旨に帰依して、先祖の位牌を納めてある寺のことですということですね。周りにはそんな墓すらなくなっていくという寂寥感が溢れますね。

名月や庭のポストが影を生む                 磯部のりこ
「影」を詠むことで、「名月」の煌々とした光線を感じさせる表現ですね。それが大層なものではなく、日常、見慣れている「庭のポスト」としたところに技がありますね。

ガントリー・クレーン手持無沙汰の残暑かな         山尾かづひろ
「ガントリー・クレーン」はレール上を移動可能な構造を持つ門型(橋脚型)の大型クレーンですね。橋型クレーン、門型起重機、ブリッジクレーン ともいうそうです。「ガントリー」とは、複数の高脚の上部に水平な梁を備えた門型の構造物を指すことばです。人が両肩、両腕を広げたような形状をしています。何も「仕事」をしていないときの「手持無沙汰」感は、よくぞ言い当てたと感心する表現ですね。ここはやはり「残暑かな」ですね。

【野木桃花主宰の句】
稲光森の底ひのけもの道
 稲光の一瞬に浮かび上がる景として「けもの道」を描いて野性味に溢れていますね。

カーブミラーに人映りこむ秋日傘
 カーブミラーの円の中に、別の円形の日傘の色を溶かし込んで、秋の空気感を表現していますね。

沈黙の軍港秋の声聴かむ
 並ぶ軍艦の姿を視るとき、なぜか人は寡黙になります。その理由は複雑ですが、それをあえて「秋の声聴かむ」と自然の方へ逸らして表現する技がすごいですね。

※参考 武良の句 (自解)
秋風は美味し地球の淵歩く

 本来なら何処で味わっても秋風独特の清々しさがあるはずですが、自然が人間界の「淵」に追いやられて…と解していただいてもいいですし、単に視野を地球規模に広げて爽快感を表現したと解していただいても結構です。

兄(にい)兄(にい)も姉(ねえ)姉(ねえ)も亡し法師蝉
子供時代に好んだ「オノマトペ」で蟬の声を模して、兄弟姉妹へのノスタルジーと思慕を表現しました。市街地から離れた山の中で育った幼年の記憶です。


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