履 歴 稿 紫 影子
香川県編 私の生家
履歴稿 紫 影子
香川県編
出生
私の出生を、父はその履歴稿に
1、明治35年2月7日午前7時、男子(二男)出生、義章と命名す。
産婆、鴨の庄の住、藤井時蔵の妻・ムメ
と記録している。
私の父
私の父は長男であって、その出生を履歴稿に、
1、明治9年1月11日、綾歌郡加茂村字鴨232番戸に生る。
父 小三太 母 コムメ
と記録している。
注・加茂村は現在の坂出市加茂町
父は明治25年の3月28日に、現在は市政であるが、その当時は町政であった香川県坂出高等小学校を卒業して、その年の5月に愛媛県尋常中学校(別に校名があったろうと思うが、父の履歴稿には、このように記録していある)に入学したのだが、翌26年の2月に中途退学をしている。
父は、その中途退学の理由を、病弱であった慈母の病状が悪化したので呼び戻されたので、事情止むを得ないものがあったのだが、その当時は残念でたまらなかったと、その当時を回想しては、時折、私達子供等に聞かせていた。
中途退学をして帰郷をした父が、母と結婚するまでの履歴稿には、次のような事項が記録されている。
1、明治26年4月、天満宮に於て郷友と共同し、素人芝居を奉納す。自分その俳優の1人たり。
1、同年5月、氏神祠前に於て、右芝居を方のせり。
1、同年7月30日(旧6月18日)、慈母永眠されたり。
1、明治27年4月6日より、加茂村尋常小学校に教員として奉納す。
1、同年5月31日(旧4月27日)妻を娶る。
私の母
私の母は明治10年生れの人であって、讃岐富士と称されて居る飯野山の麓に近い、綾歌郡法勲寺村と言う所に店舗を構えて、肥料問屋を営んで居た福井家の長女であったが、その資性は、温厚貞淑な人格の中に、強い忍耐力と克己心の持主であった。
父と素人芝居
父は7歳の時から大学に始まった四書五経と言う漢学を学んだ、と言うことを、その履歴稿に記録をして居るが、その影響によったものか、性格がきわめて謹厳且実直な人であった。
しかしその面、生花と茶の湯の免許を持って居て雲溪と号して居た。
また、琴、三味線、尺八と言った音曲にも長じて居て、訪問客と盃を交す酒宴の席で、尺八の吹奏をしたり、口三味線や手拍子に合せて舞い踊る父の姿を、少年の日の私はしばしば見ている。
そうした父が、郷友と共演をしたと言う奉納芝居の役柄は、富士の裾野で仇討をした、曾我十郎の役であったらしかった、と言うことは物心ついた5、6歳頃からの私は、自宅で催した酒宴の席で、宴が酣ともなれば、来訪の友人達から「春駒の兄弟を是非」と言って所望されると、千鳥足の父が、十郎の所作と声色で宴席を賑わして居たことが、未だに判然と私の記憶に残って居る。
とにかく私の父と言う人は、謹厳実直であった反面に、巷間俗に言う通人でもあったらしかった。
撮影機材 Nikon FA
履 歴 稿 紫 影子
そうして、その夢を実現しようと思う各人が、各自の全能を、そのことに傾注して努力をするのであるが、その家庭の環境や、人と時と言った、あまねく自分が接触をする一切の条件に恵まれて、身心が共に健全であった場合には、やがてその努力が実って、その成果に於ては大小の優劣があっても、一応社会の成功者として自己満足の出来る人生を過ごし得る者と、言えると私は思う。
併し、健康その他の諸条件のうち、只の一つでも欠けた場合には、唯単に、努力をすると言うことのみでは、その少年の日の夢を実現すると言うことは、なかなかに困難なことであると思う。
併しである、不測の事態が発生して、そうした困難な場合に遭遇をしても、あくまでも自分の夢を捨てずに努力を続ける者は、よしんばその夢を、自らの手で実現をする機会に恵まれなくとも、子孫には、必ず良風を残す結果を生むと思われるので、その人の人生には決して悔は残らないと思う。
しかし、途中でその夢を捨てて挫折をした者は、自暴自棄的な感情に支配されて、自身の堕落はもとよりのこと、その子孫の千載にまで悔を残すことになるであろう。
私は、明治35年の2月7日に、香川県の綾歌郡加茂村(現在の坂出市加茂町)では、一応、素封家としての列に、その名を連ねて居た家の二男として生まれたのであったが、4歳の時に、その生家が破産をしたので、明治39年の5月に、父母に伴われて同県の丸亀市の土居町に移転をしたのであった。
そして其処では、10歳の春までを一税務署員と言う平凡な家庭の子として育ったのであったが、没落した家運の再興を目標とした父の発意によって、明治45年の4月に、父母と兄そして弟と言った5人の家族が、遥遥、北国の北海道へ移住をして今日に至ったものであるが、自分の将来に私が夢を抱いたのは、この時の移住第一歩の土地であって、胆振の国にある勇払郡の似湾村(現在は同郡の穂別町字栄)に住んだ時代のことであった。
当時、私の描いた夢と言うのは、それを空想と言えば空想と言える類のものであったかも知れないが、”鶏頭となるとも、竜尾となるなかれ”と言った気魄の栄達慾に燃立って居た、併しその終局の目標としては、”何か社会に裨益するものを書き残したい”と言うことを念願して居た者であった。
併し、そうした無理の累積が、やがてそれは徐徐にではあったが、私の健康を虫食んでいった。
また、人生の明暗に大きな関係を持って居る配偶者も、26歳に始まった結婚が、2人は合意離別、2人が死別、そして現在では5人目の妻と生活をして居ると言った状態であるから、66年と言う長い年月を、少年の日の夢を抱いて只ひたすら歩き続けた自分の人生を、今日振返って見ても、幸福な人生であったとはとても思えない、と言うのが偽らざる現在の心境である。
併し、そうした私ではあっても、まだ少年の日に描いた夢を捨てようとは思って居ない。
と言うことは、”何か社会に裨益するものを書残したい”と言う終局の目標がまだ残って居るからである。
したがって、それを言うならば、私の自叙伝であるのだが、従来活字になって居る自叙伝と言えば、数少ない立志伝中の人か有名人と言った人人のものに限っているのだが、それ等の人人は、いずれも人生の勝利者の座に在る人人と言う関係もあって、一般庶民の我我が直接身近に感じ取れるものが少ないように思われるので、勝利者の座に在る人人とは反対に、生家が破産をしたことによって始まった逆境の中を、少年の日に描いた夢を実現しようと、只ひたすらに歩き続けたものではあったが、遂に実らなかったと言う、それを言うならば、人生の落伍者の座にあるとも言える私は、この”履歴稿”を、一般庶民の人人が身近に感じ取って明日の参考になったならばと思って起稿をしたものである。
しかし、その効果が果たしてどうかと言うことは、読む人人の判断に委ねるしかないのだが、幸い多くの人人に本稿が読まれたならば、”何か社会に裨益するものを書残したい”と言う終局の目標を果たすことになるので、私はとても嬉しい。