履 歴 稿 紫 影子
北海道似湾編
古雑誌と次郎 7の6
馬鈴薯の塩煮と「シシャモ」、それに甘酒といった饗応ですっかり満腹した私が、「どうもご馳走さんでした」と挨拶をして、「さあ帰ろう」と立ちあがった時に、「ホイ、俺すっかり忘れて居た。」と言って次郎が野蕗の葉に包んだ蝮の剝身を懐中から取り出して包を開いた。
「オヤッ、次郎お前蝮捕って来たのか。」と言って彼の父親は、その裸に剝かれた蝮をじいっと見詰て居たが、「こりゃ、とても良い蝮だぞ。次郎この蝮綾井さんのセカチさやれや。」と次郎の同意を促すように、次郎へ目をやった。
「ウン、良いよ。義章さんが気味悪く思わないのならやるから持って帰れよ。」と、次郎が蕗の葉に包みなおして、私に手渡そうとするのを「一寸待て。」と言って次郎の父親は、表へ出て行った。
「オイ、親父なあ、屹度この蝮を干す串を作りに行ったんだぞ。見て居れ、今にその串持って帰って来るからなあ。」と次郎は言ったが、私には何故蝮を干すのか、そして次郎が言う串とは、一体どんな串か、と言う疑問以外に彼の言葉から、何の興味も湧かなかったので、只「ウン、そうか。」と頷いて見せただけで、あとは少々慣れた乗馬の話しを「オイ次郎、俺今度の日曜には一人で乗って見たいんだが。」と彼の意見を求めて居た。
「ウン、そうか。多分大丈夫かと思うけど、どうかなぁ。よし、それでは馬を二頭借りて一つやって見るべや。そうして俺と二人が並んで行くべ。そうすりゃ屹度大丈夫だよ、そうだ、そうだ」と、次郎が一人で合点して居る所へ、彼の父親が帰って来た。
成程、次郎の言ったとおりであった。その右の手には柴木を細く削った、長さが三十糎程の串を持って居た。
「どれ、蝮よこせ。」と言って次郎の手から蝮を受取った彼の父親は、その蝮を頭の方から尻尾の方へ幾曲りにも折曲げて串刺にした。
これなあ、家さ持って帰ったらよ、何処さでもよいから高い所さ刺しておけ。すぐ乾くからなあ。そして乾いたらなあ、鋏でよ、好きなところから切って、焼いて食えよ、とても元気がつくからなあ。」と言ってから、更に次郎の父親は、この日次郎は捨て来たのだが剝いだ蝮の皮を干して保存をして置くと、負傷をした場合の切傷に、その皮をあてておくと血止めにとても良く効くと教えてくれた。
私が串刺の蝮を持って帰ると不審そうに、その串刺の蝮をじいっと見詰た母が、「義章、お前が持っているそれは何じゃい」と訝るので、私は次郎と遊んだその日の一切を
詳さに説明をした。
「ウン、そうじゃったの、そりゃ面白くて良かったな。でも、次郎の家には随分迷惑をかけたなあ。まあ良いわ、今度お母さんがそのお返しをするから。それはそうとしてその蝮たら言う口なご(香川県では蛇のことを”口なご”と称した)は、体にはとても良いのだと此の辺の人も言って居るのだから、教わったとおりに何処かに刺しとかないかんなあ。」と言って茶の間の四辺を見廻したのだが、葭で囲った次郎の家とは違って、板で囲った吏員住宅には、その蝮を刺した串を刺込む適当な箇所は、一寸見当らなかった。
「なあ義章、困ったことにその串を刺込所が無いなあ。」と困惑をした母は嘆息をしたのだが、「お母さん、何もそんなに心配すること無いよ。愈々無かったら、糸で何処かにぶらさげて置けば、すぐ乾くよ。」と言いながら私は、汚れた手を洗うべく台所へ行った。
それは、手を洗い終った私が洗面器の水を流して正面の窓の上部に設けた棚へうつ伏せようとした時のことであった。棚から三十糎程上の方に小さな節穴があるのを発見した。「ウム、この節穴へ刺込んでおけば良いな。」と思ったので、「お母さん、あった、あった。」と私は大声で母を呼んだ。
それはその翌朝のことであったが、洗面の時の父が、この串刺の蝮を見つけて、「これは何んだ。」と母に尋ねた。
「それ、昨日義章が次郎の家から貰って来た蝮たら言う口なごですが。」と答えて母は、昨日私が母に話をした一切を父に説明をした。
「ウム、そうか。そんならこれを一切れ蒲焼にしておいてくれ。晩酌の肴にして見るから。」と父は母に言ったのだが、その晩酌の盃を手にした父が、「こりゃ、いける。」ととても喜んでその翌日も翌々日も連続、その蝮が無く毎夜の食膳にその蝮の蒲焼を母に調理させては食べ続けた。