aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の6

2025-02-07 11:46:15 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の6
 
 馬鈴薯の塩煮と「シシャモ」、それに甘酒といった饗応ですっかり満腹した私が、「どうもご馳走さんでした」と挨拶をして、「さあ帰ろう」と立ちあがった時に、「ホイ、俺すっかり忘れて居た。」と言って次郎が野蕗の葉に包んだ蝮の剝身を懐中から取り出して包を開いた。
 
 「オヤッ、次郎お前蝮捕って来たのか。」と言って彼の父親は、その裸に剝かれた蝮をじいっと見詰て居たが、「こりゃ、とても良い蝮だぞ。次郎この蝮綾井さんのセカチさやれや。」と次郎の同意を促すように、次郎へ目をやった。
 
 「ウン、良いよ。義章さんが気味悪く思わないのならやるから持って帰れよ。」と、次郎が蕗の葉に包みなおして、私に手渡そうとするのを「一寸待て。」と言って次郎の父親は、表へ出て行った。
 
 「オイ、親父なあ、屹度この蝮を干す串を作りに行ったんだぞ。見て居れ、今にその串持って帰って来るからなあ。」と次郎は言ったが、私には何故蝮を干すのか、そして次郎が言う串とは、一体どんな串か、と言う疑問以外に彼の言葉から、何の興味も湧かなかったので、只「ウン、そうか。」と頷いて見せただけで、あとは少々慣れた乗馬の話しを「オイ次郎、俺今度の日曜には一人で乗って見たいんだが。」と彼の意見を求めて居た。
 
 「ウン、そうか。多分大丈夫かと思うけど、どうかなぁ。よし、それでは馬を二頭借りて一つやって見るべや。そうして俺と二人が並んで行くべ。そうすりゃ屹度大丈夫だよ、そうだ、そうだ」と、次郎が一人で合点して居る所へ、彼の父親が帰って来た。
 
 
 
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 成程、次郎の言ったとおりであった。その右の手には柴木を細く削った、長さが三十糎程の串を持って居た。
 
 「どれ、蝮よこせ。」と言って次郎の手から蝮を受取った彼の父親は、その蝮を頭の方から尻尾の方へ幾曲りにも折曲げて串刺にした。
 
 これなあ、家さ持って帰ったらよ、何処さでもよいから高い所さ刺しておけ。すぐ乾くからなあ。そして乾いたらなあ、鋏でよ、好きなところから切って、焼いて食えよ、とても元気がつくからなあ。」と言ってから、更に次郎の父親は、この日次郎は捨て来たのだが剝いだ蝮の皮を干して保存をして置くと、負傷をした場合の切傷に、その皮をあてておくと血止めにとても良く効くと教えてくれた。
 
 私が串刺の蝮を持って帰ると不審そうに、その串刺の蝮をじいっと見詰た母が、「義章、お前が持っているそれは何じゃい」と訝るので、私は次郎と遊んだその日の一切を
詳さに説明をした。
 
 「ウン、そうじゃったの、そりゃ面白くて良かったな。でも、次郎の家には随分迷惑をかけたなあ。まあ良いわ、今度お母さんがそのお返しをするから。それはそうとしてその蝮たら言う口なご(香川県では蛇のことを”口なご”と称した)は、体にはとても良いのだと此の辺の人も言って居るのだから、教わったとおりに何処かに刺しとかないかんなあ。」と言って茶の間の四辺を見廻したのだが、葭で囲った次郎の家とは違って、板で囲った吏員住宅には、その蝮を刺した串を刺込む適当な箇所は、一寸見当らなかった。
 
 
 
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 「なあ義章、困ったことにその串を刺込所が無いなあ。」と困惑をした母は嘆息をしたのだが、「お母さん、何もそんなに心配すること無いよ。愈々無かったら、糸で何処かにぶらさげて置けば、すぐ乾くよ。」と言いながら私は、汚れた手を洗うべく台所へ行った。
 
 それは、手を洗い終った私が洗面器の水を流して正面の窓の上部に設けた棚へうつ伏せようとした時のことであった。棚から三十糎程上の方に小さな節穴があるのを発見した。「ウム、この節穴へ刺込んでおけば良いな。」と思ったので、「お母さん、あった、あった。」と私は大声で母を呼んだ。
 
 それはその翌朝のことであったが、洗面の時の父が、この串刺の蝮を見つけて、「これは何んだ。」と母に尋ねた。
 
 「それ、昨日義章が次郎の家から貰って来た蝮たら言う口なごですが。」と答えて母は、昨日私が母に話をした一切を父に説明をした。
 
 「ウム、そうか。そんならこれを一切れ蒲焼にしておいてくれ。晩酌の肴にして見るから。」と父は母に言ったのだが、その晩酌の盃を手にした父が、「こりゃ、いける。」ととても喜んでその翌日も翌々日も連続、その蝮が無く毎夜の食膳にその蝮の蒲焼を母に調理させては食べ続けた。
 
 
 
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履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の5

2025-02-06 10:54:28 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の5
 
 皮を剝いだ蝮の胴体を野蕗の葉に包んで懐に入れた次郎が、「オイ義章さんよ、苺は駄目なんだからもう帰ろうや。」と言うので「「ウン、そうだなあ、帰るとするか。」と私は、彼に同調をして二人が馬を繋いだ箇所へ歩いた。
 
 次郎が巧みに飛び乗った馬を近くの切株に歩かせたので、私はその切株から次郎の背後に乗り移った。
 
 走る時には薄く曇って居た空の所々に蒼空が覗いて居て、其処からの日射しが私達に影を踏ました。
 
 また、渡船場の川辺では、美声の音頭に流送人夫が、来る時と同じようにキビキビと働いて居た。
 
 私達が小石川さんに馬を返して次郎の家に帰り着いたのは、午后の三時頃であったが次郎の両親は「おお、帰って来たか。」と二人を笑顔で迎えてくれた。
 
 窓らしい窓が無いので、家の中が少々薄暗い感じがしたが、天上の梁から囲炉裏に釣るされた自在鍵の鍋には、皮を剝かれた馬齢薯が蓋の隙間から白い肌を覗かせて居た。
 
 
 
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 「今に薯が煮えるから、それまでこれを食って居れや。」と次郎の母親が、片隅の大きな木箱から笊に「シシャモ」の干したのを出して来て、次郎と私の二人に勧めた。
 
「シシャモ」と言う魚は、体長が十二、三糎程の小魚であって、形も味もチカに良く似た魚であったが、鮭や鱒と同じように、その産卵期には必ず川に登って来る魚であった。
 
 「シシャモ」の漁期は至極短期間であって、一週間程しか続か無かった。そしてその時期は、十一月の上旬か中旬の頃に太平洋から、鵡川川へ登ろうと群来るのを川口の付近で漁獲をして、石油箱(十八立入りの罐が二個這入る)に一箱が三、四十銭程度と言った価格で売買されて居たようであったが、それをヨムギの茎で目刺にしたものを、煮付けにするか、焼いて、食膳に載せるのが普通であった。併し、一般の家庭では、生干のうちに食い尽してしまうので、次郎の家のように、翌年の六月頃までも保存をして居る家は、稀であった。
 
 囲炉裏の火を掻き分けて、砕けて炭火のようになった物を一箇所へ掻き集めた上へ、針金で作った手製の網渡の上にシシャモを並べて次郎が、焼き始めた時に鍋の薯が丁度煮揚った。
 
 
 
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 私と次郎が、焼たてのシシャモを副えて、これも煮揚ったばかりの薯の塩煮を、フウフウと吹きながら食べて居る傍で、次郎の父親も矢張り「シシャモ」の焼たてを副えて、プンプンと、それが丁度甘酒のような匂のする濁酒を愛奴の家庭以外では一寸見られない丼大の漆器に波々と注いで、さも楽しそうに呑んで居たが、やがてその濁酒を別の漆器に七分目程注いだ物を私に差出して、「オイ、お前これ呑んで見れや、なあに弱く造ってあるんだから、呑んでも酔っぱらうこと無いよ。」と次郎の父が勧めたので、「ウン」と頷いた私は、その濁酒を一口啜って見たのだが、その味はとても美味かった。
 
 舌鼓を打った私は、次郎の父親を真似て「シシャモ」を肴に二杯も平げた、勿論次郎も二杯呑んだ。
 
 「この濁酒なあ、甘く造ってあるから酔っぱらわ無いんだ。俺の親爺は酒を呑まないから何時も甘く造るんだ。」と次郎は、その甘い理由を説明した。
 
 
 
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履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の4

2025-02-03 10:56:01 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の4
 
 そうした船が、対岸に着くと私達は、隣村厚真村の知決辺へ通じて居る道を、パカポコパカポコと馬を駆けさせて二粁程の道を行った。
 
 「オイ、此処が野苺の有る所だぞ。」と言って、次郎は馬を止めた。
 
 馬を路傍の立木に、それは形式的(その頃の馬は、敢て繋がなくとも移動をしなかった)にではあったが手綱で繋いで、「オイ、野苺の有るのは此処だぞ。」と次郎は、私を道の左側へ誘った。
 
 其処は立木と言う物が全部伐採されて居た平坦地であったが、その地積が二反歩程の一面に野苺が蔓を伸ばして逼って居た。
 
 次郎と私は、その延びた蔓から蔓へと苺の実を探し求めて歩いたのだが、白い可憐な花をつけた蔓はあっても真赤な実は一つも見当たらなかった。
 
 「オイ次郎、苺は未だ早いのでは無いのか、実と言う物が一つも無いじゃないか。」と私が言えば、「ウン、少し早かったのかなあ、義章さん、お前にはすまないことをしてしまったが、勘弁しろよなあ、俺は只お前を馬に乗せて遊びたかったもんだから、苺の時期のことなんか考えて居なかったもんなあ。」と次郎は言ったが、私にはその次郎を憎む感情は微塵も無かった。
 
 そうした私は、「ウン、そんなこと俺何も気にして居ないぞ、只実がついて居ないと言っただけだ、気にするなよ次郎。」と私が言った時であった。彼が右手を振って「シッ、シッ」と私を制したので、「ウウン、次郎の奴、どうして俺を制したりなんかするのかな。」と不審に思った私は、彼の様子を凝視した。すると次郎は、何者かに忍び寄ると言った姿勢で、二、三歩私の立って居る右側の方へ歩き始めた。
 
 
 
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 その頃の愛奴の少年は、何時も桜の皮を鞘にした中身が十糎程の小刀を持って居た。そしてその小刀のことを彼等は「マキリ」と称して居た。
 
 次郎達が「マキリ」を持って居たのは、それを護身用と言うような大袈裟な意味のものでは無かった。彼等は、このマキリを使って色々な場面で実用に具して居た。例えば、川辺で遊ぶ時には川の岸辺に生えて居る野生の蕗や、三つ葉と言った野生の野菜を採取する時に、また山遊びの日には、榀の木がある所へ行くと、その皮をマキリで剥ぎ取って家への土産にして居たのであった。そして其の榀の皮は、細く適当に引裂いて縄をなうととても強靭な物が作られた。
 
 「シッ、シッ」と手を振って、私を制した次郎がそのマキリを引抜いて何者かに立向かった。私は彼のそうした不審な行動をじいっと見据えて居たのであったが、彼はマキリの刃部を下に向けて何ものかをじいっと見据えて居たようであった。
 
 それは一瞬の行動ではあったが、次郎がその何者かに脱兎のような勢いで飛びついて襲いかかった。
 
 次郎が何故そうした行動に出たのか、と言う不審から私は「オイ、治郎何をやって居るんだ。」と彼に声をかけた。
 
 と彼は、はずんだ声で「俺なぁ、今蝮捕ったんだ。」と言って、「見れや、これだ」と私にその取った蝮をぶら下げて私に見せた。
 
 私は北海道と言う寒い国にも蝮と言う猛毒を持った蛇が居ると言うことは聞き知って居たのだが、その日まで、ついぞ見たことの無い蝮であった。
 
 
 
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 「オイ、次郎危く無いのか、噛まれたらお前が死ぬのと違うか。」と、それが毒蛇であると言うことから起る一種の不安と恐怖心から、私は次郎に尋ねた。すると次郎は、「イヤ、何も心配すること無いんだよ、こうなったらこっちのものさ、見て居れ、俺が今皮を剝いて見せるから。」と言って、その蝮の頭の首の所を足で踏まえて、蝮が自然に口を開けて飛びつこうとする気魄の鋭い目を怒らせて、三角形の頭を左右に激しく振って居るのを、上下の顎に手をかけた次郎が、刃部を下に向けて居たマキリを、そうした蝮の口に噛ました。
 
 勿論蝮の口は自由を失った、その瞬間上下の顎にかけて居た手に力をいれて、さっと引裂くと、蝮の皮は綺麗に剝けて、薄桃色の身の部分と内臓が別々になった。
 
 その時、皮を剝かれた内臓の無い蝮が、まだその薄桃色の胴体をくねらして居たのには、私は驚いたものであった。
 
 「オイ義章さんよ、お前これを丸呑みにすれや、体にとても良いんだぞ。」と言って、次郎は引裂れた蝮の内臓の中から金時豆程の大きさがあって、半透明の袋に何か液体が這入って居る物を選び出したのを、私に差出した。そして彼はそれと略ぼ同じ大きさの肉塊ようの物を選び出して、それを丸呑みにした。
 
 「お前が呑んだのがなあ、蝮の胃なんだぞ、そして俺が呑んだのが蝮の肝よ。」と次郎は平気で言ったが、私は目を白黒させて漸く呑み込んだものであった。
 
 
 
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履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の3

2025-02-01 14:47:53 | 履歴稿
 
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の3
 
 その日は、北海道の総鎮守札幌神社の本祭の日であって、朝夕の気温は若干冷えたが日中は、風薫る初夏の様相を呈した六月の十五日であった。
 
 十四日の朝礼に校長先生が、「明日は札幌神社のお祭だから学校休みだ。」と全校生に告げたので、私は「よし、明日は次郎と遊ぼう。」と、この日彼の家を訪れたのであったが、私の郷里の香川県では、丁度梅雨の季節であるので、終日霧雨がしとしとと降ってじめじめして居るのを、これ幸いと油虫が我が世の春とばかりに台所はもとより部屋と言う部屋の此処彼処を逼い廻るので、家の内外が共にうっとうしくて、幼ない私の神経をもいらいらさせる季節であった、併し北海道へ来てからこの季節を迎えるのは、この年が二度目であったのだが、去年も、そして今年も、晴、曇風、雨と言う気象の変化は、自然がもたらす通常的なものであって、嘗て私が郷里で味わった卯の花の咲くのを見て、梅雨や来たるの予感に嫌悪を感じて居た、と言うような感覚は全然無かった。
 
 この日の天候も、多少曇ってはこそ居たが、梅雨の季節のうっとうしさと言うものは、全然感ぜられなかったと言うばかりで無く、川岸の柳を葉鳴らす風には、初夏を匂わすものが多分にあった。
 
 
 
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 川は対岸の山裾を洗うように流れて居て、次郎と私が馬を乗りつけた川岸へ、逐次浅瀬から河原と言う状態であった。
 
 流れは四、五月頃の雪融け水が、怒濤の濁流となって岸を噛むと言うような水勢ではなかったが、流れの幅は依然として広く、岸の河原を殆んど呑んで居た。
 
 私達が川岸へ馬を乗りつけた時の川には、浅瀬から河原一面に松丸太(蝦夷松を六尺、九尺、十二尺と言った長さに切った物)が乗りあげて居て、その丸太を五、六十人の流送人夫が、長さ二米程の竹竿を柄にした鳶口を巧みに使って、「ヤンサデコラショ」とか「ドッコイショウ」と、その当面の作業状態によって異なる音頭と掛声で、深みへ流し込んで居た。
 
 「オイ、あの丸太はなぁ、鵡川まで流送をして其処から軽便鉄道で苫小牧の製紙工場へ送るんだぞ、それからなぁ、この川のずうっと川上に王子製紙の原料山があってよ、冬の間に造材をした丸太をよ網場(丸太を巧みに組んで川をせき止めた所)まで馬で集めて毎年五月頃になると、雪融けで増水する時期に網場を切って、流送するんだ。」と、次郎が説明をしたが、私も既にこの事は知って居た。
 
 併し、こんなに多勢の流送人夫が、賑かな音頭で作業をして居る所を見るのは、この時が初めてであった。
 
 
 
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 次郎と私が馬上から声を揃えて、「オーイ」と、対岸の山麓に在る渡守の小屋(渡船場は地方費で賄われて居たと思うが、渡守の小屋は葭葺きの家であって、その構造も次郎の家と同じ掘建小屋であった)に呼びかけると、その小屋からも山彦のように、「オーイ」と言う応答があって、白髪を肩まで総髪にした愛奴の渡守が出て来た。
 
 人馬はもとよりのこと、荷馬車をも渡すと言う扁平底の団平船が、川の流れを直線に横断をするために岸から岸へ施設をして在った太いワイヤロープに、その団平船の舳から細いワイヤロープで連結をさせて居る滑車が、ギイッ、ガアッと軋みながら私達二人が待って居た岸へ漕ぎ寄せて来た。
 
 「オイッ、俺達は馬からおりなきゃ駄目なんじゃ無いか。」と私が、次郎に呼びかけると、「なあに、良いんだよ。この儘で船に乗れるんだよ。」と言って次郎は、二人が乗った儘の馬を、馴れた手綱さばきでその団平船に乗せた。
 
 私達が乗ったその団平船には、渡守の老人の他に、流送人夫が一人乗って居た。そしてその流送人夫は竿で船を押す浅瀬では、先端に鳶口のある竹竿で協力をして居たが、やがて船が深みの流れに進むと、舳の右端に立って上流から続々と流れてくる松丸太を、手練の鳶口のついた竿で巧みに突き放して船の渡川の安全を期して居た。
 
 
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