aya の寫眞日記

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履歴稿 北海道似湾編  吹雪 10の10

2024-11-28 16:51:51 | 履歴稿
DCP_0051
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の10
 
 そうだ、俺達は睡ったんだなと思うと、私はこの逓送の馬橇が人馬共に神々しくさえ思えた。
 
 そうした私は、嘗て秋の椎茸狩の日に「北海道では、吹雪で人が死ぬんだぞ。」と言った保君の言葉を、「うん、うん」と頷きながらも内心何を言うのだと聞き流して居た、その日のことを思い出して、保君、すまなかったなぁ。と言う感情が私の胸を締めつけた。
 
 橇の上は、先頭が馭者の逓送夫。その次に兄、そして私が最後部であった。
 
 馭者は、敢然と吹雪に立向って馬を追ったが、私達は、馭者が言うが儘に後向になって座って居た。
 
 中杵臼から湯の沢、湯の沢から峠と、烈風に荒ぶ吹雪の中をかいくぐって馬橇は、似湾へ、似湾へと、驀進に驀進を続けた。
 
 
 
IMG400 (1)
 
 村境の峠を超えても橇は吹雪の真向を突いて驀進を続けたが、輓馬と馭者が楯になるので、私達兄弟には吹雪は直接襲わなかったが、馬橇の両側から烈風に捲き揚げる新雪が、私達の目と言わず、口と言わず、全身に渦を巻いて乱舞するので、その苦痛は、徒歩の時よりも遙かに苦しいものがあったが、そのたて髪を、振り立て、振り立て、首の鈴輪の音も高らかに雪を蹴って、嘶きながら吹雪の平野を驀進する光景は、壮烈そのものであって、馬橇から降り落されまいと懸命にしがみついて居た私ではあったが、その血は沸いて肉は踊って居た。
 
 郵便局では、帰りの遅い私達を気づかって、局長さんも居残って居たが、私達の顔を見ると「オオ帰って来たか、大吹雪で酷い目に逢ったろう、さぁ引継は良いから早く帰りなさい。」と言ってくれたので、各所の郵便函から集めて来た郵便物の這入って居る鞄を閑一さんに渡して、早々に郵便局を出たのだが、家に帰った時刻は、午后の十一時を既に過ぎて居た。
 
 全身雪達磨になって玄関を這入った兄弟が、「只今」と茶の間の灯へ声をかけると、その帰りを待って居た母が、「おお、帰ったか、酷かっただろうにご苦労さんじゃったなあ。」と言って、おろおろとした声で玄関まで出迎えてくれたが、その時の母は泣いて居たのではないかと、私は今思って居る。
 
 

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履歴稿 北海道似湾編  吹雪 10の9

2024-11-28 16:37:12 | 履歴稿
DCP_0047
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の9
 
 その時の私は、恰も無神経のような状態になって居たので、寒い、冷い、餓じい、と言った類の苦痛は、少しも感じなかったものであったが、執拗に襲って来る睡魔に、ウツラウツラして居たものであったから、兄と弁当の状景を只ぼんやりと傍観して居たものであった。
 
 勿論その時の私には、弁当を食べようと言った意思は全然無かった。
 
 それからどれ程の時が過ぎたのか、と言うことは判らなかったのだが、それまで私が忘れて居た、寒い、冷たい、餓じい、と言った諸々の感覚が蘇って仮睡の状態であった私の神経を呼び起した。
 
 と、それはその時であった。ヒヒン、ヒヒンと嘶きながら路上を駈ける馬の鈴の音が、チャリンチャリンと強弱長短の尺度を瞬秒の間合に変えて、荒れ狂う烈風と吹雪をついて或時は近く、また或時は遠く微かに、生べつの方向から聞えてきた。
 
 
 
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 私は、咄嗟にそれが似湾と鵡川の郵便局の間を往復して居る逓送の馬橇であると感じたので、「そうだ、あの音は屹度逓送の馬橇だ、そしたら俺達はそれに乗せて貰って帰ろう。」と思って傍で、仮睡の状態になって居る兄を激しく揺り起こした。
 
 私達は、急いで荒狂う吹雪の路傍に出た。
 
 ヒヒン、ブルンブルンと、吹雪に怒る馬の嘶と、チャリンチャリンと鳴る鈴の音にまじって、コツ、コツ、コツと馬橇の側面を叩いて鳴る梶棒の音も次第に近づいて、やがてその全体が、吹雪の中に黒く浮んで見えた時には、「嬉しい」と言う、言葉だけではとても言い表わせないものが、涙となって私の頰を流れた。
 
 「そうか、お前達は睡ったのか、フウン、併し危なかったぞ。吹雪で死ぬ人はなぁ、皆そう言うふうに睡った者がその儘凍れ死ぬんだぞ。」と私達を馬橇に乗せてから、一部始終を聞き出した逓送夫が、凍死をする者の原因を教えてくれた。
 
 ”睡った者が凍死をする”それまでの私は、生きるとか死ぬと言うことには、全然無関心であったのだが、この逓送夫の言葉を聞いて今更のように、慄然としたものであった。
 
 

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履歴稿 北海道似湾編  吹雪 10の8

2024-11-27 11:00:11 | 履歴稿
DCP_0046
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹 雪 10の8
 
 いつもならば、とっくに通り過ぎて居る筈の中杵臼の部落へはまだ二、三百米は歩かなければならないと言う所まで来た時に、突然兄が足を止めて、「義章、俺はもう歩けんわ、だから此の林の中で少し休んで行こうや。」と言って、右側の林の中へ歩き出した。
 
 私に兄の声は、判然と聞こえたのではあったのだが、生べつの本村から、この林の道へ入って五、六百米程の所までは、首を左右に振ったり、瞬いたりして、視界や呼吸を障害する吹雪と闘いながら歩いたものであったが、それから後は、寒い、冷たい、餓じい等と言う、苦しい感覚が次第に薄れて、只無我夢中で殆んど無意識の状態になって歩いて居たのであったから、兄の歩けない、林の中で休む等の言葉を、私の神経が既に意識する状態に無かったのであったのかも知れないのだが、私は、なおも直線の家路へ歩き続けようとして居た。
 
 その時、「オイ、義章お前休まないのか。」と兄が呶鳴ったので、私はハッと気付いたのであったが、兄へ答える力も無く、無言の儘で、そうした兄の後に続いたものであった。
 
 
 
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 兄と私の二人が這入って行った林の中で、道路から五米程這入った所に、その木種については判らなかったが、枝を大きく張った一本の老樹があった、「オイ、あの木の下が良いんでないか」と兄が言うので、私もそれに同調して、その老樹の根元へ二人がどっかと腰をおろした。
 
 私達が吹雪を避けて這入った林の中は、猛烈な猛吹雪を余所に無風の状態であった、と言うことは、連抱の老樹もさることながら、その隙間も無い程に生い茂って居る若木が、防風の楯になって居たからであろうと、現在の私は思って居るのだが、その当時の私は、「吹雪が少しも来ないなんて有難いことだなぁ。」と思って、流石に兄は先見の明ありと思って、その林へ這入ろうとした兄を敬服したものであった。
 
 林の中へ這入た私が、それが意識が朦朧として居たと言っても、何故自分達はこんな林の中で休まなければならないのか、これから家に二人が帰れるのか、どうかと言うことは、私の脳裡を去来して居たのであった。
 
 
 
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 それは、二人が老樹の根元へ腰をおろしてから十分程たった時であったが、「オイ、義章、弁当を食うとしようか。」と言って兄は、それまで腰に結びつけた儘になって居た風呂敷包から、弁当の這入った行李(現在では既に姿を消して居ると思うが、当時は弁当行李と言って、柳の枝を原料とした容器があった)を取り出して箸をつけたのだが「駄目だ、これじゃ食えないわ、カンカンに凍って居るんだ。」と言って、「しょうが無いなぁ。」と呟きながら弁当行李を風呂敷に包んで腰に巻いたのだが、北海道の一月、それも凛烈肌をつんざくと言う悪天候の終日を、人の腰肌にあったとは言っても、終日の雪中に晒された弁当が凍るのは当然のことであった。
 
 

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履歴稿 北海道似湾編  吹雪 10の7

2024-11-25 14:55:43 | 履歴稿
IMGR083-15
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の7
 
 例によって、市街地の郵便函を開函して帰った私は、兄が大別してあった、キキンニを始め、自分が担当をして居る区域の郵便物を、いつものように区分をして学生鞄に詰めたのだが、その日の量が特に多くて詰めきれなかったので、残りを風呂敷包にした。
 
 兄も、そして私も、五個程の小包を背負って家を出た時刻は、平日と何も変らなかったのだが、人趾未踏の雪路が歩行の速度を鈍らせるので、兄弟がキリカチの大久保商店で落合ったのは、午后の三時を既に二十分程過ぎて居た。
 
 いつもは、此処で二人が昼食の弁当を食べたのだが、朝から頻頻と降り続けて居る雪に対する不安と時間的にも平日より、二時間以上を遅れて居ることを気にして、私達二人は昼食抜きで、早早帰路についた。
 
 
 
IMGR083-08
 
 私達が大久保商店を出た時には、朝からの弱い南風が止んで無風状態になったので、「風が止んだぞ。」と二人は喜んだのであったが、それもつかの間、約一粁程を歩いた頃から、新に北風が吹き始めた。
 
 併し、風はさして強くは無かったのだが、来る時のそれと同じように、頻頻と降る雪を、正面から吹きつける向風であったので空腹を抱えた二人にはとても苦しい行進であった。
 
 平常は、この辺の道を人や馬橇が、鵡川の市街地へ多少は往来をして居るのであったが、それが荒天の関係であったものか、行けども、行けども、人馬はその影すらも無かった。
 
 短かい冬の日が早早に四辺を夜の帷に包んで、白一色に塗り潰された大地は、道と田畑との見界を困難なものにして、私達の歩行を苦しいものにした。
 
 私達は、睫の雪を拭いながら、凡そ此処こそ道と思いし所をひたむきに歩いたのだが、路傍の側溝へ足を滑らしては、幾度か転落したものであった。
 
 
 
IMGC0122-11
 
 漸く二人が生べつ本村のはづれに差懸った頃に、雪は多少小降りになったのだが、風が猛烈に強くなって、地上の積雪を乱舞させる猛吹雪になった。
 
 併し、其処から村境の峠までは、道の両側に溝も無ければ、中杵臼の部落以外には、人家とても無い林の中の一本道であったので、側溝に足を滑らす心配は無くなった。
 
 私達は、側溝に足を滑らす心配は無くなったのだが、ピューッ、ピューッと、或時は高く長く、或時は低く短かく、瞬秒風鳴りの音を変えては老樹の幹を揺ぶって、その梢に唸る烈風が路上に約五十糎程積って居る朝来の新雪を猛烈に吹雪いて、一歩、また一歩と、積雪を踏超えて此処を必死と懸命に歩く私達兄弟の、目と言わず口と言わず、真正面から全身に打ちつけるので、顔面を拭う暇とても無いと言う状態であったので、私達は首を左右に振っては顔の雪を、目を瞬たいては睫の雪を、そして下唇をとがらしてプーッ、プーッと、鼻腔に息を吹上げては、呼吸を妨げる鼻下の雪を払い落して、空腹と疲労でふらふらになった体を踠きながら歩いた。



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履 歴 稿 北海道似湾編  吹雪 10の6

2024-11-15 16:24:11 | 履歴稿
IMGR083-22
 
履歴稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の6
 
 私達が郵便局へ帰ったのは、午后の八時を三十分程過ぎた時であったが、早速各所の郵便函から集めて来た郵便物を、事務の閑一さんに引継いで家へ帰ったのは、それから三十分程後のことであった。
 
 「今日は、昨日より遅かったな。」と、父に言われて、「今日は郵便物が多かったから。」と兄は答えたが、その事実は遠道に馴れて居ない私の足が遅かった結果であった。
 私はこの日から、「兄さんが慣れるまで。」と言う母の意思に従って、向う一週間を毎日生べつへ往復をした。
 
 その結果、どうにか兄が一人で行けるようになったので、私は通学するようになったのだが、勉強の遅れが可成り私を苦しめた。
 
 併しその後も、郵便物の多い日や兄の体調の悪い日には、私が学校休んで手伝ったので、週間、二、三日位しか登校することが出来なかった。
 
 
 
IMGR083-19
 
 やがて、雪は降り積もり、河川は凍結して、人馬が対岸と氷上を往来すると言う厳冬期に這入って、学校は冬休みになったのだが、私の生べつ往復は、この冬休み中を一日も欠かさずに毎日続いた。
 
 やがてその年も暮れて、大正二年の元旦を迎えたのだが、私達兄弟にはお正月の喜びは無かった。
 
 その頃の私は、川向のキキンニから芭呂沢までの三部落と、芭呂沢を渡って畔道から道路へ出たその道路の右側の配達をキリカチまで受持って居た。
 
 また兄は、似湾村の部分を受持って、其処の配達が終ると峠を越えて中杵臼の部落を配達するのであった。そして生べつの本村へ這入ってからは、私の受持以外の道路から左側を配達しながらキリカチへ歩いて、郵便函の在る大久保商店で二人が落合うのであった。
 
 
 
IMGR083-18
 
 このように手分けをして配達をするようになって居たので、時間的には相当短縮して居たのだが、何んと言ってもお正月であった、十日頃までと言うものは、殆ど戸毎へ配る年賀郵便で、私達兄弟が家に帰り着くのは、毎日午后の八時以後と言う時刻であった。
 
 こうした私達兄弟が、ある猛吹雪の日に、「北海道では吹雪で人は死ぬ。」と言った、保君の言葉をそのままに、危く遭難をしかかることがあった。
 
 その当時私は、その状況を記録しておいたのであったが、長い年月のいつの日にか忘失してしまって、正確な日時が判らなくなってしまったのだが、年賀郵便も、小包も、特に多い日のことであった
 
 その日の朝は、明方から降り出した粉雪が、猛烈に降って居て積雪も既に三十糎程になって居たのだが、風はさして強くは無かった。
 
 
 
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履 歴 稿 北海道似湾編  吹雪 10の5

2024-11-14 22:13:18 | 履歴稿
IMGR083-05
 
履歴稿  紫 影子
 
北海道似湾編 
 吹雪 10の5 
 
 元来、キキンニ部落の人達は、学童の通学も、そして日常の所用も、渡船場を利用して対岸の似湾村と往来をして居たので、この山道を利用する者は、郵便配達以外の者は至極稀だと兄は言って居たが、私は淋しくて嫌な道だなと思った。
 
 クウナイの次は芭呂沢と言う部落であって、川から西側の集配は此処が終点であったが、クウナイから此の芭呂沢への道程は約二粁程あって、部落と言っても、パロノ沢と言う小沢の流域に、愛奴の家が三戸程在ったに過ぎなかった。
 
 この芭呂沢も、キキンニと同じように、郵送の新聞を沢の一番奥に住っていた本田バロカトクと言う人の所へ配達しなければならないので、毎日来なければならないのだ、と兄は言って居た。
 
 そしてバロカトクと言う人の家は、昔は酋長であった家柄であって、当時のバロカトクは、熊討の名人なのだとも言って居た。
 
 私達兄弟は、そのバロカトクと言う人の所へ郵便物を届けると川岸に在った渡船場へ戻って其処から対岸の生べつ村の本村へ渡った。
 
 
 
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 生べつの本村へ渡った私達は、畔道を急いで嘗て私達の家族が鵡川の市街地から生べつへ歩いた道路へ出た。そして其処から鵡川方面へ約二粁程あるキリカチと言う所まで、郵便物を配達しながら南下したのであった。
 
 私達がそれまで歩いて来た、川向のキキンニ、クウナイ、芭呂沢と言った三部落とは異って、生ベツの本村は、矢張り本村としての風格を備えて居た。
 
 それは地理的条件が備わって居たからではあったが、鵡川川が西側の山脈添に流れて居る関係で、小沢の流域を畑地とした狭い農耕地で生活をして居る川向の三部落とは異なって、農耕面積の広い、立派な農村風景であった。
 
 キリカチと言う所は、行べつと鵡川の村界に在って、此処までが兄の担当区域であった。
 
 私達がキリカチへ着いたのは、午后の二時を少々過ぎた時刻であったが、郵便函の在った大久保と言う店の火鉢に暖をとりながら、私達兄弟は昼食の握飯を食った。そうした私達は其処から折返して途中の配達をしながら、嘗て四月に私達が一週間ほど寄寓をした、生べつ小学校まで帰った時には、既に夜の帷りが四辺を包んだ午后の六時頃であった。
 
 
 
IMGR083-15
 
 生べつ小学校の在る所から、似湾との村境に在る峠を超すまでには、約五粁程の道程があったのであったが、その中間に在って字の名を中杵臼と呼ぶ所へ行くまでは、道の両側が密林になって居て、人家と言うものは全く無かった。
 
 その日の郵便配達は、この中杵臼にあった人家の戸数が二十戸程と言う小部落で全部終るのであったが、この中杵臼から一粁程を歩くと、その水源地に冷泉が湧いて居ると言うことから、湯の沢と呼ばれて居た幅が二米程の小沢が流れて居た。そして其処には土橋が架橋されて在った。
 
 湯の沢の土橋を渡った私達は、間も無く村界の峠にさしかかったのであったが、嘗て似湾沢で聞いた時のそれと同じような無気味な梟の啼声と、スタスタスタと何者かが私達の後を追っているように聞える自分達の足音の他は、只闇黒寂然とした峠であったので、此の峠が一番淋しい所だなと私は思った。
 
 

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履 歴 稿 北海道似湾編  吹雪 10の4

2024-11-13 21:59:34 | 履歴稿
IMGR083-02
 
履歴稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の4
 
 そうした私の様子に兄は、「駄目か。」と言って首を項垂てしまった。
 
 それはその瞬間のことであったが、「よし、欠席しよう。」と決心がついたので、「兄さん、手伝うよ。一緒に行くよ。」と言った私の声に顔をあげた兄が、「ウン、手伝ってくれるか、すまんが頼む。」と言った時の表情は、とても明るかった。
 
 私が市街地の函を開けて帰るまでに、兄が郵便物の配達区分をして家で待って居ることに打合せをして私は、例の大きな鞄を肩にかけて市街地へ急いだ。
 
 学校の欠席は、母に届けて貰うことにして、私は下駄を編上げ靴に履きかえた。
そして兄が書簡の這入った鞄を、私が三個の小包を綿糸で綯った紅白の紐で背負って出発をした。
 
 
 
IMGR083-03
 
 似湾村の部分は、人家が五十戸足らずであったが、遠近に点在して居るので、配達を終るのに約一時間程かかった。
 
 似湾村の配達を終った私達は、村境に在った渡船場から、鵡川川の対岸に在る生べつ村のキキンニと言う部落へ渡った。
 
 キキンニと言う所は、鵡川川へ合流して居る小沢の流域を耕作して居る農家が、僅か五、六軒と言う小さな部落であったが、「此処はなぁ、全戸で新聞を取って居るから、毎日配達する郵便物があるんだ。」と兄が言ったのだが、新聞が配送されて居るとすれば、当然そう言うことだろうなあと私は思った。
 
 キキンニ部落の配達を終ると、次はクウナイと言う部落であったが、このクウナイと言う所は、現在旭岡と呼んで三十戸程の人家と国鉄の駅も在るのであるが、未だ鉄道が施設されて居なかった当時は、僅か四、五軒の農家が点在して居たに過ぎない、淋しい部落であった。
 
 
 
IMGR083-04
 
 キキンニからクワナイへの道程は、約三粁程あったが、その突端が鵡川川の川岸まで延びて居る一つの峯を超えなければならなかった。
 
 当時は、輸送が不便であった関係か、付近の山々も、そしてこの峯にも、斧釿の這入らない原始林であった。
 また、私達が超えた峯の道も、人工で開さくしたものでは無くて、往時蝦夷鹿の群が季節的に移動をした時の通路が、自然に路を形造ったと言う幅が三十糎程の小路に、笹や雑草が覆いかぶさって居るのを、膝や腰で押分けて歩くと言う状態であった。
 
 私達がその峯を超えたのは十時を少々過ぎた時刻であったのだが、秋晴れの日射も、老樹の枝葉に阻まれて、丁度黄昏時の明るさにしかなかった。
 
 

 
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履歴稿 北海道似湾編 吹雪 10の3

2024-11-09 21:03:27 | 履歴稿
IMGR081-13
 
履 歴 稿  紫 影子

北海道似湾編 
 吹雪 10の3 
 
 兄の発令は、十月二十日付であったが、月末までの十日間は見習として前任者に同行して集配区域を覚えた。
 
 兄が担当した集配区域は、郵便局を境にした似湾村の南部一帯と、隣村の生べつ村全村であって、その往復の道程が約四十粁と言う広い区域を歩かなければならなかった。
 
 母は兄の就職問題には何んの意見も挟まなかったが、その就職が決定すると、早速兄の作業衣として、裾が膝小僧から十糎程下がる綿入れを裁縫した。
 
 郵便集配人とし出勤をする見習第一日の日の兄は、母が仕立てたこの綿入を着て、メリヤスのズボン下に巻きゲートル、そして草鞋履と言う身仕度で、私と同じ時刻に郵便局へ出勤をした。
 
 
 
IMGR081-19
 
 前任者に教わりながら郵便物の区分をして居る兄に、「兄さん元気でネ。」と言って、私は一足先に郵便局を出たのだが、「ウン」と頷いて私を見送った兄の顔は、何となく淋しそうに見えた。
 
 第一日目の見習を終えた兄は午後の六時頃に帰って来たが、「只今」と言う声には何となく元気が無かった。
 
 「兄さんどうだった。」と私が尋ねても、只「ウン」と言ったきりで、夕食もそこそこに寝床へ潜ってしまった。
 
 そうした兄の様子に「兄さんは辛かったんだな。」と思うと、私も何となく物寂しい気持になったので、早々に寝床へ潜り込んだのだが、「無理も無いなぁ。坊チャン坊チャンと皆からチャホチャホされて勝手気儘に暮して来た兄貴だもんな。それが郵便配達をやるんだもんな。屹度内地の生活が恋しいんだろう。俺だって丸亀が恋しいもんなぁ。」と思うと、ひしひしと慕郷の執念が胸に迫って、容易に私を睡らせなかった。
 
 
 
IMGR081-24
 
 大正元年十一月一日。
 それは兄が愈々一本立ちの郵便配達になった日であったが、その朝も私は兄と連れだって家を出た。
 私の家から郵便局までは、五十歩足らずの距離であったが、玄関から十歩程歩いた所で、突然立止った兄は、「義章、すまんが今日一日俺を手伝ってくれんか。俺には未だ自信が無いんだ、それに途中の道がとても淋しいんだ。」と沈痛な面持で言ったのだが、その一瞬私は返事に惑ってしまった。
 と言うことは、兄を手伝うとすれば当然学校を休まなければならないことと、臨時集配人の私は市街地を往復をする朝の函開けで学校を毎日三十分遅刻をして居るのであったから、欠席をすると言うことは実に苦しいことであったからであった。
 
 併し、私が手伝わなければ兄はどうなるのかと言うことを考えると、私は右すべきか、それとも左すべきかと、その去就に迷ったものであった。
 


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履歴稿 北海道似湾編  吹 雪 10の2

2024-11-07 21:05:49 | 履歴稿
IMGR081-05
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編 
 吹 雪 10の2 
 
 そして、保君の話が真実となって、私に身近な体験をさした。
 
 保君が言ったように、風も確かに音を立てて唸った、そして深夜に大木の幹が、バリバリと言う音を響かせて裂る音もしばしば私は聞いたのであった。
 
 郵便函を開函するために、市街地へ毎日往復して居た私は、幾度か吹雪の猛威にも遭遇をした。
 
 積雪と言う物を、生れて始めて踏む私は学校で授業の休憩時間中に保君はもとよりのこと、高学年の男、女生徒の少年少女が、下駄スケートを履いて学校の坂をとても面白そうに滑って居たのだが、そうしたことに経験の無い私は、低学年の橇を借りて「オイ、これは下まで滑って行っても大丈夫か」と言って、その操縦方法を教わってギコチ無く滑るのが、精一パイの者であった。
 
 また、あの時の保君が沢山の人が吹雪で死ぬと言ったが、そのことを真実であることをも、私は身を以て体験させられる日が待って居た。
 
 
 
IMGR081-04
 
 私の兄は、似湾へ移住をした四月からずうっと自宅でぶらぶらして居たのだが、それは十月中旬の或夜のことであったが、父が役場を退宅をして夕食をすました所へ、突然郵便局長が訪れて来て、「義章さんが毎朝市街地へ往復をして元気に函開けの仕事をやって居るのに、その兄さんが毎日ぶらぶらして居るのは、あまり外見の良いものではないですぞ、それでですな、今私の局では、生べつ方面の集配を担当して居る集配人が、今月限りで辞めるんですよ、それでどうです、その後を兄さんに一つやらして見ませんか、日給は四十銭ですが、多少は生活の足しになりますよ。」と、兄の集配人就職を父に勧誘をした。
 
 
 
IMGR081-03
 
 結局「皆と良く相談をして、明朝必ずお伺いしてご返事を致します。」と言って、局長さんを送り出してから、「義潔、お前も傍で聞いて居たんだから、お父さんと局長さんとの話しの内容は判ったと思うが、お前ももう十五歳だ、昔なら元服をして大人の仲間入りをする歳だ、義章も働いて居るんだから、お前も一つやって見ないか。」と言って、兄の説得に努めたのだが、「郵便配達になるのなんか嫌だ。」と兄は、再三拒否をしたが、「義章が毎朝市街地まで行って函開けをやって働いて居るのに、大きいお前がぶらぶら毎日遊んで居て体裁が悪いとは思わ無いのか。」と言われて、「仕方ない、やるよ。」と、吐き出すように答えて、渋々ながら就職を承諾したので、父は翌朝出勤の途中に局長さんと逢って、兄の集配人就職の手続を済ませた。



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履歴稿 北海道似湾編  吹 雪 10の1

2024-11-03 18:56:02 | 履歴稿
IMGR081-12
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹 雪 10の1
 
 四方の山々が黄褐色に、或は紅に色づき始めた頃のことであったが、春のあの日と同じように、校長先生に引率をされて、全校の生徒が裏山へ椎茸狩りに行った。
 
 その日は、日本晴の空が高く澄きって、山頂は丈伸した草に息切れがする程に暖かくて、小鳥の群が春のそれと同じように枝から枝へと囀って居た。
 
 私は保君と二人で、楢の木の倒木を次から次と椎茸を探し求めて歩いたのだが、椎茸が春と同じ木に生えて居るので、その日は私にも容易に取れた。
 
 そうした私と保君の左の手には、椎茸を数珠なりに突刺した笹が、次々と数を増していって、校長先生の集れの号令を聞いた時には、お互の手には十本程を持って居た。
 
 
 
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 それは、春の時と同じであったが、全生徒が校長先生の声に合して唱歌を歌いながら、老樹の枝でキョトンとした恰好でそうした私達の列へ愛嬌を振蒔いて居る剽軽者の栗鼠や、枝から枝を、囀りながら飛び廻って居る小鳥の群を楽しみながら山を降ったのであったが、その途中で「オイ保君よ、俺なあ春の時よりも今日の椎茸狩がとても面白かったわ。」と私は言ったのであったが、その時の保君は、「俺はなぁ、毎年のことだから、春でも秋でも同じよ、だからそんなに面白いとは思わないよ、それでもよ、義章さんにしてみれば珍らしいんだから可成り面白いんだべな、たがなぁ、もうすぐ冬が来るぞ、暖かい所から来たんだから義章さんは屹度吃驚するぞ。へこたれるなよ。雪はなぁ、毎日のようにどんどん降るぜ、そして山の大木がバリバリ音を立てて裂ける程にきつく凍れるぞ。それからなぁ、おっかない吹雪があるぞ、ピュッピュッと唸る風に吹雪いて一寸先が見えなくなるぜ、そうしてなぁ、北海道では吹雪で死ぬ人が沢山あるんだぞ。」と、身振り手振りで冬の厳しさを私に教えてくれた。
 
 
 
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 併しその時の私は「ウンそうか。」と、尤もらしく頷いて聞いて居たのであったが、内心では「何を言って居るんだい、大袈裟な、おどかすのもほどほどにしろよ、そうだろう、お前達がそうした冬を何年も越て来てるじゃないか、だから俺だって平気だい」とうそぶいて居たものであったが、やがって保君が言ったように、その厳しい冬が足早にやって来て、白鷗が乱舞をするような降雪の日が続いて、一米に近い積雪が四辺の山野を白一色に塗り潰してしまった。
 


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