もこにゃんとばあば

もこにゃん もうすぐ八才(2015年生れ)
登場数は少ないですがヨロシク!にゃん

多様性

2023-03-17 05:38:24 | 俳句

未来へといろいろ魅力の株分けや

背の高い植物もありその逆の

        植物もある庭魅力的

 

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地球温暖化は本当に起きているのか。

その問いが物議をかもしたマイケル・クライトンの小説「恐怖の存在」は、流動的な観念を妄信し、異論を封じることの危険性に警鐘を鳴らした。

その例として取り上げたのが、19世紀半ばに英国で起こった優生思想である。

ダーウィンのいとこゴルトンは進化論を人間社会に適用。遺伝的に優秀な子孫を残せば国家や民族は発展するとし、不妊手術で障害者や病者の子孫を断つことを提唱した。

忘れてならないのは世界中の科学者や政治家が賛同し、不妊手術や産児制限を奨励したこと。

日本でも人権擁護派までが遺伝的優劣を肯定し、人種改良論すら唱えた。

旧優生保護法下の不妊手術を巡る裁判で札幌高裁が国に賠償を命じる判決を言い渡した。

不法行為から20年で賠償請求権が消滅する「除斥期間」の適用を制限した判断は高裁で3例目。

当事者事情に配慮した流れといえよう。

基本的人権の尊重を定めた日本国憲法下で忌まわしい思想を優生保護法の形で生き長らえさせたのが、「公益」という名の怪物だった。

公益のためなら人権侵害も許されると解釈され、違憲性否定の論拠となった(「戦後民主主義が生んだ優生思想」六花出版)。

1996年の法改正までに約2万5千人が不妊手術の被害を受けた。

その間、疑問の声を上げずに放置した社会こそ、「恐怖の存在」であったことを肝に銘じたい。

(北海道新聞卓上四季2023.3.17より)

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昨日は札幌高裁で強制不妊手術をした国に賠償命令が出されました。

札幌高裁は旧優生保護法の除籍期間の適用を認めないとしてその理由に挙げています。

僅か30年前の出来事です。

ところが検察側は特別抗告を出したようです。

法律を盾にする検察に対するには、差別をした国を罰する法律が必要なのかもしれませんね。

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今日は令和2年に急逝した網走市出身の日本画家 長谷川誠の特別企画展に行ってきます。

網走美術館所蔵作品とご遺族より寄贈を受けた日本画およそ100点が展示されているようです。

毎日地元のタブロイド判の新聞に作品が白黒で掲載されているのですが、それを見ても素晴らしい作品だと伝わってきますので、楽しみに見てきます。

網走の思い出

私も子供の頃この岸壁で弟たちとチカ釣りをしていました。


捏造

2023-03-14 05:47:46 | 俳句

種袋エフワンだけが詰め込まれ

優劣の法則にのり作られた

      一代限りの嘘の種あり

 

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袴田事件第2次再審請求審で、静岡地裁が再審の開始と袴田巌死刑囚の即時釈放を命じた日のこと。

東京拘置所を出る袴田さんの姿を報じるテレビ画面を前に涙をこぼす人がいた。

一審で主任裁判官を務めた熊本典道さんである。思わず出たガッツポーズはまるで元ボクサーの袴田さんのファイティングポーズのようだったという。

「良かった」「ゴメン」「もっと早く」。言葉はおえつで続かなかった。

無理もない。無罪心証を持ちながら、他の裁判官を説得できず、死刑判決を書いた事件だ。

良心の呵責(かしゃく)に耐え切れずに退官するが、酒に溺れ、死に場所を求めてさまよった(「袴田事件を裁いた男」朝日文庫)。

1968年の一審判決は奇異な内容だった。捜査側が作った被告人調書をほとんど排除しながら、自白調書だけで有罪と認定。

おまけに付言では、強引な取り調べを厳しく批判し、猛省を促したのである。

無罪心証で書いた判決を結論だけひっくり返したような破綻であった。2014年3月の再審開始決定から9年。

第2次再審請求審の差し戻し審で東京高裁が検察官の即時抗告を退けた。

死刑判決から半世紀の時を経て開かれた再審の扉だ。再び閉ざそうと特別抗告などで浪費する時間などない。

熊本さんは自らの人生に100点満点で20点をつけていた。

無罪判決をこの目で見たい。3年前に亡くなった熊本さんの願いであった。(北海道新聞卓上四季2023.3.14より)

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東京高裁も証拠捏造の疑いを指摘して、再審を認めましたね。

捏造と言えば高市さんの捏造主張が苦しくなってきましたね。

法曹界の捏造はもう無いと思いますが、政治家たちの捏造はまだまだ出てくるのでしょうね。

昨日は森友事件の籠池夫妻が検察庁に出頭し収監されたようです。

森友事件もまだまだ闇の中と言っていいような、籠池夫妻はある意味政治家たちに利用されたのかも知れませんね。

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今日は短歌倶楽部の例会です。

昨日はマスクの話でもちきりのワイドショーでしたが、今日はそんなことも無いでしょう。

やっとお食事会が出来るようになりました。

待ちに待ったお食事会です。今日はお寿司屋さんです。


わからない?

2023-02-16 05:38:40 | 俳句

いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規

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企業の繁栄はおよそ30年だと、名だたる企業の再建で辣腕(らつわん)を振るった実業家の親族から以前うかがったことがある。

創業者の理念や手腕を学んだ2代目が業績を発展させるが、経験不足の3代目が経営を傾けてしまうのだとか。

そんな経験則も、トヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎さんには当てはまらなかった。

自動織機の発明に生涯をささげた豊田佐吉の孫にして、父喜一郎が開発に乗り出した自動車メーカーを世界有数の企業に育て上げた手腕と実績はむしろ創業者のそれに近い。

佐吉は官僚外交の前に国民外交がなければならないとの信念から日中親善に傾注した。

1918年(大正7年)には単身上海に渡航し、現地で紡織工場を設立している。

5歳の時に他界した祖父の記憶は少ないと語っていたが、ものづくりで世界に貢献しようという情熱は脈々と受け継がれていたのだろう。

失敗を恐れず「論より実行」とやり遂げる気概を重んじた(「未来を信じ一歩ずつ 私の履歴書」日経BPM)。

ガソリン動力の自動車の発明からすでに1世紀以上。

トヨタが生き残れる保証はどこにもないと世界規模で拡大した需要の先を見据えていた。

97歳で亡くなった名誉会長が決断のよりどころとした「豊田綱領」に、「研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし」という遺訓がある。

先人が示した有益な指針はあらゆる産業で有効に活用したい。(北海道新聞卓上四季2023.2.16より)

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世界のトヨタは100年以上の歴史があるのですね。

並並ならぬ努力を重ねてきたことが歴史でも分かります。

日本は2,683年の歴史があるのに何故か昨今は衰退の一途をたどっているのでは?

戦後、米国に頼ってばかりで国としての努力にかけていたのではないかとふと思います。

おばさんに何がわかるの?と言われそうですが・・

わからないことが一杯あるのが人生なのではないかなと思います。

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我が町にも不審な電話が多数かかってきているようです。

電話帳に名前を載せないようにするとかも大事な事だと思います。

こんな田舎町に金持ちなんかいないのにね~。

今日はカラオケ教室です。

一人二回しか歌わないのですがそれでも何かしらすっきりします。


メメント・モリ

2023-01-22 08:46:37 | 俳句

熱燗をふと飲みたしと想ふなり

あつかんをふとのみたしとおもふなり

大嫌いと思えど君は私の師

      右往左往の私の思考

 

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写真家藤原新也さんの代表作「メメント・モリ」(1983年)は国内外で撮影した人間の濃厚な息遣いと大地の深遠な営みを伝える作品に、生と死を鋭く問う文を添えた。

「本当の死が見えないと本当の生も生きられない」や、インドで死体に群がる犬の写真に付けた「人間は犬に食われるほど自由だ」の言葉は有名だ。

メメント・モリとは、「死を想え」を意味するラテン語。

ペストの流行で生が刹那的、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたという。

東京の世田谷美術館で半世紀にわたる藤原さんの活動を回顧する展覧会が開催されている。

コロナ禍で人が消えた街、東北の被災地、香港の民主化運動など近年追いかけたテーマからも人間と世界に注ぐ透徹した視線が伝わる。

東京新聞のインタビューで藤原さんは「接触」の大切さを説いている。

「人は他人と接触しあつれきや葛藤を経ることで、経験値を積み脳が鍛えられていく。それによって不測の事態に判断できる地頭、生き抜くための力が育まれる。」

「接触だらけ」で異文化の人とかかわってきた経験から憂慮する非接触の時代である。

放射性物質が人々を故郷から追いやり、はるか上空から降るミサイルが罪なき人々を死に追いやる。

そこには接触も本当の死を想うまなざしもない。

だから為政者たちは平気で原発を動かし、平気で戦争を続けられるのだろうか。(北海道新聞卓上四季2023.1.22より)

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ふと見た卓上四季の今日の文章です。

中世末期のヨーロッパで使われた言葉だそうだが、現代の人にはどう伝わるのだろうか?

昨日孫たちのゲームを見ていたせいか、卓上四季の文には考えさせられました。

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昨日は楽しい時間を過ごし、孫たちは帰路につきました。

母には孫たちが来たことは、コロナ禍もありで施設に迷惑をかけてもと思い、言わないでおきました。

言ったところで悲しいかな、すぐ忘れるだろうしね。

施設では友達も出来楽しそうです。

昨日、友達が携帯電話はどうなの?と聞かれたとかで携帯電話をかけて見せたようです。

母は札幌にいるときも結構外出が多かったみたいで、携帯は早くから使っていました。

母の妹も携帯が使えないため、コロナ禍で家族とのやり取りが出来なく可哀そうに思います。


小豆粥

2023-01-15 05:34:14 | 俳句

小豆粥すすりて今日の小正月

あずきがゆすすりてきょうのこしょうがつ

ストーブの蒸発皿がしゅんしゅんと

        まだ明けやらぬ北国の朝

 

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日本においては、小正月の1月15日に邪気を払い一年の健康を願って小豆粥を食べる風習がある。

この15日は望の日なので、望粥(もちがゆ)とも呼ぶ。

また、雪深い東北地方や北陸地方では、1月7日の七草粥のかわりとして小豆粥を食べる地域もある。

小豆が持つ赤色と稲作民族における呪術が結び付けられて、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきた。

日本の南北朝時代に書かれた『拾芥抄』には中国の伝説として、蚕の精が正月の半ばに糜(粥)を作って自分を祀れば100倍の蚕が得られるという託宣を残したことに由来するという話が載せられている。

中国においては、古くは冬至の際に小豆粥が食せられた。

後にこの風習が発達して12月8日には米と小豆ほか複数の穀物や木の実を入れた「臘八粥」(ろうはちがゆ)というものが食せられ、六朝時代の中国南部では1月15日に豆粥が食せられた。

これが日本に伝わって1月15日すなわち小正月の朝に小豆粥を食するようになったと考えられている。

『延喜式』によれば、小正月には宮中において米・小豆・粟・胡麻・黍・稗・葟子(ムツオレグサ)の「七種粥」が食せられ、一般官人には米に小豆を入れたより簡素な「御粥」が振舞われている。

これは七種粥が小豆粥に他の穀物を入れることで成立したものによるとする見方がある。

また、紀貫之の『土佐日記』によれば、承平7年(935年)の1月15日(小正月)の朝に「あづきがゆ」を食したという記述が登場している。

江戸時代には15日すなわち「望(もち)の日」の粥という語が転じて「餅(の日)」の粥と解せられ、小豆粥に餅を入れて食べる風習も行われるようになった。

今日でも地方においては正月や田植、新築祝い、大師講などの際に小豆粥や小豆雑煮で祝う風習のある地方が存在する

大師講が行われる11月23日(現在は12月23日)にはそれぞれの家で長短不揃いのカヤの箸とともに小豆粥が供えられる。

大師様がが小豆粥を食する際に用いたと考えられた箸は、地方によっては講の後に魔除けや子女の学問・技術の向上のまじないなどに用いられた。

同じく米と小豆を炊き込んだ赤飯との共通点が多く、いずれもハレの日に食されている他、赤飯に胡麻塩をふりかけるのは単なる味付けのみならず、古い時代に小豆粥に他の穀物を入れたのと同様であったと考えられている。

小豆をつかった粥として、中国には「紅豆粥(ホンドウジョウ) hóngdòuzhōu)」、朝鮮には「パッチュク」(팥죽)がある。

中国の紅豆粥は文字通り小豆をベースにした粥であり、甘くないぜんざいや汁粉のようなもので米は使わない。

朝鮮のパッチュクも冬至に食べる行事食であり、米の入った小豆粥だが、小豆を先に茹でて裏ごししてから米を加えて炊き、白玉などを浮かべることが多い。(Wikipediaより)

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わが家でも冬になると小豆粥を食べていました。

その中に餅も入れたりしていました。

懐かしい味です。

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昨日は俳句の例会でした。

兼題は寒、重鎮の最高得点句は「熱く濃き朝の寒茶をすすりけり」。

私の「違和感の喉のいがいが寒の内」重鎮が添削してくれたのは「違和感の喉のいがいが寒を知る」でした。

寒を知るなんて発想が無かったです~(まだまだのようでんな~)。