愛されるダイアナの瞳煌めけり後の世にも影響与えて
(人々に愛される理由は、人を助けることに熱心だっただけではなく、素敵な母親の顔が大きいのだと思います)
1961年に父はスぺンサー伯爵家の嫡男とその夫人の間の三女として誕生。
スペンサー家は17世紀以来続く貴族の家系である。
両親は1969年に離婚した。ダイアナら子供の親権は父が獲得した。
弟チャールズとともに育てられたが、1973年ケント州にある寄宿学校に入学した。
1975年に父がスペンサー伯爵位を継承したのに伴い、ダイアナもLadyの儀礼称号を得た。
1979年に王室のパーティーで皇太子と再会したのがきっかけで皇太子と親しい関係になり、1980年に交際が深まった。
1981年2月に皇太子と婚約し、7月29日にセント・ポール大聖堂で結婚式を取り行った。
1982年5月から皇太子とともにケンジントン宮殿で生活をはじめ、ウィリアム王子とヘンリー王子の2子をもうけるも、やがて結婚生活や家庭生活、公務についての皇太子との考え方の違いが深刻化した。
ダイアナは過食症に苦しむようになり、皇太子も1980年代半ば以降にはダイアナのいるケンジントン宮殿に戻らず、ハイグローブ邸で暮らすことが増え、カミラとの交際を再開するようになる。
1992年12月に皇太子夫妻が別居生活に入ることが正式に発表された。
1993年に皇太子とカミラが愛を囁き合う電話のテープが公開され、1994年には皇太子自身もカミラが自分の人生の「中心的人物」であることを公表した。
ダイアナは1995年11月にBBCのインタビューに答えて皇太子との結婚生活について「3人の結婚生活だった」と総括し、またダイアナ自身も元騎兵連隊将校と5年にわたって不倫していたことを認めた。
そして自分はイギリス王妃にはならないことと「人々の心の王妃」になりたいという希望を表明した。
1996年8月に離婚が成立。2人の王子の親権を皇太子と平等に持ち、また莫大な慰謝料を獲得した。
離婚後、エイズ問題や地雷除去問題など慈善活動への取り組みを本格化させる。
またこの頃からパキスタン人心臓外科医と交際するようになる。さらに1997年7月からはエジプト人映画プロデューサーのドデ・アルファィドとの交際も開始する。
1997年8月31日深夜、フランス・パリでドディとともに乗車していた車が交通事故を起こして死去する。
死後、チャールズ皇太子の意向によりイギリス王室が彼女の遺体を引き取り、準国葬の「王室国民葬」に付された。
英国民の強いダイアナ哀悼の機運から、女王エリザベス2世が特別声明を出し、また葬儀中にはバッキンガム宮殿に半旗が掲げられるという異例の処置が取られた。
生前、ダイアナはファッションセンスを高く評価されており、女性のファッションに大きな影響を与えた。
また慈善事業への積極的な取り組みも高く評価されていた。
死後も彼女の人気は極めて高い。訪日は三度行っており、1996年の最初の訪日では日本に「ダイアナフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。
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この日は1歳の孫を連れて近隣の村のお祭りに行ってました。
丁度お昼頃にダイアナ死去の報が流れ、驚いたことを覚えています。
日本では考えられないことですが、イギリス王室は現在もスキャンダルが多いですね。
日本も秋篠宮家の結婚にまつわるいざこざはどんな風に決着がつくのか分かりませんが・・。
天皇家の跡取りもどうなるのか・・ですね。
私は女性でも問題ないと素直に思いますが・・国は何をしているんでしょう!