171223 「山のきもち」その6 <「ほっとする社会」へ新たな倫理観>
山本悟氏の『山のきもち』しばらくお休みしていました。今日もあまり時間がないので、なにか簡潔に書けるものはないかとふと思い出し、中身の濃いのをどう薄めてみようかと失礼な発想で書き始めました。
山本氏は上記の見出しで、多くの事例を紹介しています。中にはすでによく知られたものもありますが、私も初めて接する情報もあり、参考になります。ほっとする社会とはなにか。他方で、過重労働や負担増でうつ症状になったり、さまざまな心労を抱えている人は少なくないと思います。労働現場で充実した一日を過ごせている人は限られた人ではないでしょうか。そういう人であってもある日突然、目の前が真っ白となってしまうかもしれません。
衣食住がそれなりに充足している日本人の現状、不安はどこかに潜んでいるのでしょう。そんなとき「ほっとする社会」として新しい形の「森林業」あるいは「山の生業」なりが育てば、次々と病院周りしたり、病院で長時間待っても結局改善の方向が見られないといった状況から脱することができるかもしれません。そんな場所として山が病気を治し、あるいは健康維持に役立つ、あるいは生きがいを感じるところになるかもしれません。
さて、山本氏が取材した多くの事例、いくつか紹介していきます。
「筑波山麓で道普請プロジェクト」
山の中に道を作る、階段を作る、想像できますか。私も簡単なものにチャレンジしましたが、大変です。それを子どもたちが担うというのです。
一部引用します。東京農大の「宮林教授が、農大の学生を引き連れ、丸太階段づくりや古木の伐倒の仕方を子供たちに指導している。
樹齢80年を超えるスギとヒノキの混合林。作業は弁当をはさみ、午前と午後に続けられる。スギの木に絡みついた、太さ10cmもあるフジヅル切りには、男児や大人たちが喜々として打ち込むが、女児はそこまで成長したツルの生命を絶ち切ることに戸惑いを感じ、ノコギリを止める。スギを守るために切るべきか、否か。女児にどう説明するか。子供も交え、皆が考える。自然を守る、とはどういうことか。大人も子供も、自然から宿題を課せられる。」
森は生命が一杯です。それぞれと直に触れあい、その生命を感じながら、ツルを切る、木を切るなど、命との対面を感じることが大事だと思います。できあがった社会、それを構成する施設・設備の中で生きていると、いかに数々の生命体の屍の上で自分たちが生きているかすら感じることもできなくなっているでしょう。
このような体験は一つのきっかけでしょうか。私の子どもの頃は日常的であったように思うのですが、現在はロボット社会でも生きていけるのではと、つい思ってしまいますが、人間という生命体は本来脆弱なものと思います。ちょっとしたことで生命体の秩序が崩れてしまうのではと思うのです。そんなとき、森の中でなにかを体験すること、それだけでも心の秩序を安らかにして平温を保つ方向に一歩踏み出すことができるのではと思うのです。
「グリーンインフラ」
「グリーンインフラは、自然の恵み(生態系サービス)の中でも、防災・減災機能を重視し、インフラ整備に役立てる考え方だ。例えば、海岸線に設けた防災林が津波の威力を減退させ、湿地が洪水被害を軽減する機能などを活用し、コンクリートなどの人工物によるインフラ(グレーインフラ)の代替、もしくは補足する社会資本の整備のことをいう。」
東日本大震災の時、コンクリート堤防が破壊され、被害が拡大する中で、松林は全滅することなく、ところどころで残り、とりわけマサキはしっかり残り、多くの家財が引き潮で流されるのを止めて最後の救いとなったそうです。
こういった木の力を利用するインフラ整備は多様な場面で検討されても良いでしょうね。でもここから山とどう関係するかですが、それは宮脇昭氏指導の「森の防潮堤」も一つの有力な選択ではないでしょうか。
細川護熙氏の「鎮守の森プロジェクト」もそのような趣旨の考えで行われているように思います。私も一人の参加者として寄付をしています。ほんとは現地に行って作業すればいいのですが、最近は遠出はとても苦手になっています。それではほんとの自然を満喫できないですし、やまのきもちも理解できないことになりかねませんね。
「循環型林業」
この考え方はある種熱帯林の焼き畑農業と似ていますね。20年くらいのサイクルで毎年のように焼き畑を行った後に裁判して収穫した後は、転々と別の区画に移り、それを循環するのです。一回りした頃には焼き畑した場所は地力も回復していて、焼き畑に適するそうです。
同様のことを北大?の演習林で四半世紀以上前から行われているのではないかと思います。東大演習林もそれに近いやり方ではなかったでしたか。演習林の中を見学させてもらったことがありますが、まさに原生林のようなすごい迫力を感じました。どろ亀先生の指導のたまものでしょうか。
で、山本氏が紹介している事例は橋本さんという個人林の山です。
「橋本さんは、101haの山林を持つ、専業林家。銀行を退職し32歳の時に先代から、「一利を興すより一害を除く」の言葉とともに林業を継いだ。収益に走るのではなく、支出を抑え永続性を優先させる。橋本林業の特徴は、自然との調和を重視し、自然の力を借りる林業経営を基本にした、長伐期の優良大径木生産だ。自然から学ぶ路網整備を心がけ、1 ha当たり300mの密度を誇る。全国から視察があり、第1部の鳥取県智頭町の自伐型林業講習で講師を務めた橋本忠久さんは、橋本光治さんの長男だ。小型パックホーと2トシダンプ、ブオワーダといった最小限の機械で、忠久さんと2人でヤマを守る。」
これだけだと循環型がわかりにくいですが、次のようなことが持続性・循環性を意味しているようです。
「年間生産量は250m³で、毎年10haずつ施業し10年間でヤマを回す。年収は2人合わせて400万円~600万円。頑張れば年収は当然上がるが、良質なヤマを後年に残すため、無理はしない。臨時に資金が必要になった時は、通常より多く伐り出す。ヤマは、預ければ利子が自然に貯まる貯金でもある。」
このような山林全体の循環性もあれば、同時に一定の土壌空間の中での循環性も意味するのでしょう。少し長いですが引用します。
「林の中で気づいたことだが、地面に倒れ朽ち果てた大木がやたらに目立つ。接地面から野菊が薄紫色の花を咲かせているものもある。作業の邪魔にならないのだろうか。聞けば、意識的に放置しておくのだそうだ。片づけずに残しておくことで、落ち葉とともに微生物が分解してくれ森の肥やしになっていく。落ち葉が分解されて作られた腐葉土は土になり、ミミズが地中を這い回って土を耕し土中に酸素を供給する。地中の根がそれを吸って木も元気になる。
動物たちも、やがて森の中で命をまっとうし、バクテリアなどに分解され土に戻っていく。その土はまた、木々を成長させ豊かな森を育むのだ。枯れた老木は、死すのみではない。朽ちていく過程で、それまで溜め込んだ二酸化炭素をゆっくり放出し、その二酸化炭素はほかの木々の光合成の材料としても吸収され、森の若木を成長させる。橋本さんの森は、物質循環と生命の循環の輪が回る。森では動植物や微生物まで全員が主役だ。各自が、豊かな森を維持していく役割を担っている。多様性豊かな森林には多様な生物が活躍し、その豊かな自然の力は経済林をも育てる。」
こういう山を育てるには、橋本さんのような心構えが必要なのでしょう。
さらに大規模に専業林業を行う速水林業も紹介されていますが、これはいつかもう少し詳しく扱いたいと思いますので、別の機会にしたいと思います。
「環境保全型林業」
こういった名称は四半世紀前は聞いたことがありませんでした。当時は熱帯林大量伐採で、世界中で抗議活動がいわば武器を持たないテロ的様相で行われていたと思います。その結果、違法伐採や持続可能性のない伐採は抑制され、他方でFSCなどの森林認証を受けないと伐採・輸出などができなくなり、その後は無茶苦茶な伐採も減少したと思います。
その森林認証は、環境保全の役割を担うので、わが国でも多くの伐採企業体が取得するようにな
そろそろ一時間となりました。今日も中途半端となりましたが、これにておしまい。また明日。