180516 日本書紀編纂の意図 <宮滝遺跡 聖武天皇の吉野宮か>や<邪馬台国 奈良に卑弥呼期の種>などを読みながら
どうやら発熱があるようで、少しボッとしています。昨日あたりから具合が少し悪くなって今日はいくつかの打ち合わせなどをして夕方の会合までに仕上げる仕事があったのですが、どうもはかどりそうもありません。
それで会合の後にブログを書く元気が残っているとは思えないので、いまから書くことにしました。今日もあまり時間がないので、ざっと記事などを読んで引用しながら、タイトルの話を織り交ぜようかと思っています。
驚いたことに、共同通信記事<奈良・薬師寺管主が辞任 週刊誌で女性問題報道か>が大きく話題になっていました。南都七大寺の名刹で、天武天皇が妻・その後の持統天皇の病気回復を祈って開基となったとか。古代の殺伐とした天皇皇后という中で、仲むつまじきご夫婦像の象徴ともいわれてきたとか。世界遺産登録もされていますね。
ただ、名刹の管主・門跡などなど位の高い方々には、昔からいろいろ噂もあれば、実際に事件化したこともあり、またかと思うのも人情でしょうか。
ただ、今日取り上げる、関裕二著『日本書紀 塗り替えられた古代史の謎』は、この夫婦仲を有り体にいえば仮面夫婦のごときと喝破し、天武天皇在位中は下級官僚でしかなかった不比等を取り立て、実質上のトップとして全権を握らせるまでに至ったことを指摘しています。
この種の議論は他の論者も指摘していて、私も少なからず魅せられる部分があることは確かです。
関氏の著作はあまり読んでいないので、通説的な見解と大きく違う、さまざまな興味深い鋭い指摘をされる一人ではないかというぐらいの理解でした。
そんなとき先日は<邪馬台国奈良に卑弥呼期の種 纒向説強まる>の記事が紙面を賑わし、今日は<宮滝遺跡聖武天皇の吉野宮か 奈良時代前半の正殿跡>が取り上げられ、たまたま先日、関氏の著作を読んだところでしたので、昨日はうっかり忘れてしまいましたが、今日の記事を見て、二つの関連性のない内容が実は意味深いのではないかとの私なりの着想で、勝手な論を進めていこうかと思います。
邪馬台国論争は、いつから始まったのでしょうか。それにしても終わりが近づいたようでもあり、ますます遠ざかるようでもあり、混沌としているように思えるのは素人感覚でしょうか。
上記記事では、<邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の中心的施設跡で出土した大量のモモの種について、放射性炭素(C14)年代測定で「西暦135~230年の間に実った可能性が高い」との分析結果が出た。遺跡は邪馬台国より後の4世紀以降とする異論もあるが、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)の活動時期と年代が重なる今回の分析は、遺跡が邪馬台国の重要拠点だったとする「畿内説」を強める画期的な研究成果といえる。【矢追健介、藤原弘】>
この記事では、一時は考古学者から軽視?されそうになっていた放射性炭素年代測定について、あらたな手法で(C14)測定の科学性がかなり担保される状況になり、しかも出土したモモの種が100年のスパンがあるものの、卑弥呼が活躍していた3世紀前半の遺跡の可能性が高まったことから、畿内説の有力証拠のような指摘があります。
この議論の前提は邪馬台国が諸国を束ねるような統一政権であるかのような話ですが、3世紀初頭、いや6世紀ないし7世紀頃までそのような政治体制が成立していたかも疑問視されています。
歴史学から言及される文献資料としてはいわゆる魏志倭人伝がありますが、これから邪馬台国を畿内・纏向地方をそうだとする記述は認めがたいですね。ではわが国の正史、日本書紀はというと、どうもがいても無理筋ですね。たしかに神武東遷、応神東征の記述から、奈良盆地東南当たりに宮を作った可能性はうかがえますが、時期も、場所も判然としませんが
ところで、日本最初の正史、日本書紀は、壬申の乱を経て、天下を統一し日本国と呼称し、初めて統一支配者として天皇と呼称することにした天武天皇が編纂を指示したとされていることに、関氏は異議を述べています。
日本書紀では、天武天皇が崩御した後、日嗣の皇子を含め大勢の皇子がいたにもかかわらず、誰も天皇とならず、なぜか皇后が持統天皇として名乗り出たのですから、不思議な成り行きです。この点を関氏は問題にして、不比等が、天武天皇死後、長く天下を収めていた蘇我支配をあこがれ、そのような支配制度を確立するため、着々と手を打っていったというのです。
持統天皇以下、その後の天皇は(少なくとも桓武天皇まで)、藤原家の指揮下にして、政治を行っていったというのです。その藤原家の成立やその歴史背景について一定の正当性を持たせるために、日本書紀を編纂して、歴史を改ざんしたというのです。
不比等夫婦の娘・宮子を文武天皇に嫁がせ、聖武天皇となる首皇子を生ませ、その彼と不比等の娘・光明子を婚姻させたうえ(近親結婚タブーのはずが、宮子の妹・光明子と息子・首皇子を婚姻させるウルトラCですね)、さらに反対する長屋王を自害させて、民間初の皇后にさせるという、蘇我一族をまねつつ、その上をいったわけですね。しかも偽装の正史をつくったというのですから(蘇我一族も歴史書を集積していたのでその意図はあったと思われます)、たいしたものです。
関氏の立論をおおざっぱにその一部を私なりにまとめましたが、今日のテーマとの関係では、ここは私も初めて見聞する見解ですが、聖武天皇がその偽装を見破り、自らの政治を断行しようとして、祖父天武天皇の跡を追い、吉野から東行し、あの有名な逍遙のような回遊を重ねたというのです。
その吉野の宮が実際に存在したことが裏付けられたような記事でしたが、それは聖武天皇が藤原家に対する断固とし天皇家の立場を示したものの一つなんでしょうか。
本当は日本書紀が塗り替えたとされる古代史日本の実像とはなにかを取り上げる方が面白いのですが、私の頭がまだ整理できていないので(他方で異なる見解にも魅力を感じているので)、当分先になりそうです。
なお、纏向遺跡で発見された大型建物跡と(今回はモモの種)そのそばにある前方後円墳・箸墓(3世紀前半で当時最大の規模)こそ、邪馬台国畿内説の有力根拠とされる点に関して、関氏が前記著書で指摘している(05年発行)点は、いまなおその意義が揺るぐものでなく、他方で畿内説では有効な整合性ある立論が困難ではないかと思うのです。
その一つは、墳墓制の形状と普及です。前方後方墳や四隅突出型墳丘墓の普及や荒神谷遺跡で発見された最大量の銅剣群です。そのすべてを論理的に整理できていませんので、この程度で今日は省略します。
振り返って、纏向は、私が当地にやってきてまもなく自然農を学ぶようになり、その指導者・川口由一氏の自宅と農地が近くにあり、訪れたところでした。当時はまだ考古学に関心がなかったので、すぐみえるところに渋谷向山古墳(景行天皇陵)がありましたが、ぼっと眺めた程度でした。
川口さんの自然農研修の舞台は名張市にあり、毎月通っていましたが、途中、吉野川を遡り、吉野の宮跡近くまで行っていたわけですが、あまり関心がなかったのですね、訪ねたこともなかったです。
そんなあれこれを思い出しながら、関氏の日本書紀論を面白く読ませてもらいました。また毎日記事の新たな展開も興味深く感じました。でも不比等の生き方については、少なくない人が書いていますが、深いベールに包まれていて、最も魅入られる存在の一人かもしれません。
今日はこの程度でおしまい。また明日。
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