たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

歩く道(その9) <名作をイメージしながら荒川荘を歩く>

2019-02-10 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

190210 歩く道(その9) <名作をイメージしながら荒川荘を歩く>

 

昨日は雪が降っていたのと午後に仕事が入ったので、歩くのを止めにしました。今日は晴れ間が時折顔を出し多少風が冷たかったものの気持ちよく歩くことができました。ただ予定をオーバーして結局、NHK囲碁の時間を見過ごしてしまいました。

 

さて今日は山陰加春夫編『きのくに荘園の世界 上巻』所収の村田弘氏が執筆したユーモアたっぷりの「荒川荘を歩く」で紹介されている箇所の半分に当たる、三船神社、興山寺、奥家の屋敷跡、それに美福門院御墓地を訪ねました。

 

荒川荘といっても歴史好きとか、和歌山の人でないと、それどこと思われるでしょうね。いつ頃成立したのかはっきりしませんが、平安末期にはあったようです。場所は東が粉河寺が支配する粉河荘、西が根来寺の支配地と接して、紀ノ川の両岸に南北にあったとも言われています。

 

他方で、西行の実家、佐藤家が管理していた田仲荘は同じくらいおところで、紀ノ川北岸と南岸の一部を支配していたようです。それで田仲荘(西行時代は徳大寺領だったと思います)と荒川荘は境争いが絶えなかったようです。その主要な要因は、紀ノ川がたびたび氾濫し、河道が変わり、農地も永続性がなかったわけで、境界線もはっきりあるわけでないでしょうから、境界紛争は力勝負だったようです。むろん多くの幕府や朝廷による裁許がありますが、絵図なども提出されることがあったようですが、なかなか合理的な根拠を見出せなかったと思います。

 

以下では、上記著作を基に少し荒川荘をめぐる事件を紹介します。中世の世で悪党と糾弾された源為時を筆頭とする郎党が荒川荘を拠点に、大勢を死傷に追いやったり乱暴狼藉をしたということで、高野山金剛峯寺から名付けられたのです。

 

その大きな転機というか引き金は、元寇の役が一応終わってまだ臨戦態勢にあったとも思われる1285年(弘安8年)に、荒川荘に下された鎌倉幕府の決定です。元寇に対してリーダーとして活躍した北条時宗が84年に死去し、新執権の外祖父・安達泰盛が実権を握って幕政改革を進める中、なぜか金剛峯寺びいきの措置をしたのです。一つは現在もある町石道寄進のスポンサーとなり、もう一つは紀ノ川以南、貴志川以東を、弘法大師御手印縁起の地として、紀伊一宮天野社(金剛峯寺鎮守)にするとしたのです。

 

たしかに天野社は元寇退治の祈願をしたと記憶しておりますが、こういった一方的措置を鎌倉幕府が下したのは、あまり根拠がなく、安達氏の高野びいきがあったのでしょうか。

 

それで怒った?源為時ら一族郎党が、近隣と死闘に及び、金剛峯寺がけんか両成敗で、両者の土地を没収した上、その後も2年間かけて40軒の住宅を焼き払ったと言われています。すると今度は、1291年には金剛峯寺のトップを筆頭に数百人が荒川荘を襲い、40軒の住宅を焼き払ったというのです。その後に金剛峯寺が「荒川悪党人の身柄引渡」の命令書を発布したのです。なにか一方的すぎるように思います。

 

そんな物騒な時期もあった荒川荘(安楽荘とも表記するようです)は、現在、桃で有名で張る近くになるとピンク色に町が染まります。名前までいつの間にか桃山町になっています。

 

紀ノ川南岸から広範囲に平坦な土地がありますが、中世時代は紀ノ川河道で、護岸工事で生まれた土地が広がっています。以前、貴志川の氾濫をこのブログで取り上げましたが、その当たりも含め元々、河道、そして氾濫源だったところですね。

 

で、今日訪れた三船神社と興山寺は、丘陵地に窪んだところがあり、そこに柘榴川(ざくろ)が流れていて、その双方の高台ないし麓に鎮座しています。荒川荘は柘榴川の扇状地に耕作適地となって肥沃だったのかもしれません。

 

その三船神社の本殿と言った建物・彫刻は、根来寺の大工の手によるものとか。根来寺は最先端の鉄砲鍛冶だけでなく漆器とかさまざまな技術職の人が大勢集まっていたようです。大工もそうですね。拝殿から覗いてみましたが、少し遠目でしたので、その良さは素人には分かりませんでした。

 

ついで興山寺まで一旦下り、柘榴川を渡り、そして坂道を登ってたどり着きました。興山寺といえば、金剛峯寺(当時は高野山?)を秀吉による攻めから守った応其上人が勅願をえて開基した寺の名前で、明治維新の際、青巌寺と統合して金剛峯寺になっています。

 

その興山寺が今あるというのは不思議に思ったのですが、応其上人が弟子に作らせたというのですね。木食応其は、高野山の麓、橋本で多くの土木事業を行い、この荒川荘までいくつものため池改修などの事業を行っていますが、その布石としてこの寺を置いたのでしょうかね。現在は門が閉ざされ、墓地として提供されていて、どうやら開放的ではなさそうでした。

 

次に訪れたのは、有吉佐和子著『紀ノ川』を映画化したとき、主人公の花が嫁いだ家の舞台となった奥家の屋敷跡が残っているということでしたので、向かったのです。近くまで足を踏み入れ、たまたま犬の散歩をしていた近隣の方がおられて、この屋敷は映画「紀ノ川」の舞台になったところですかと尋ねたら、そうですよといって、長屋門の前の濠などの写真を撮っていたら、いまちょうど家の方が帰ってきているので、家の中を案内してもらったらと、わざわざ家の中に入ってご主人を連れてきてくれました。大阪に住んでおられて毎週帰ってきて家の手入れをしているとのことで、気安く中に入らせてもらいました。

 

ちょうど職人さんに庭仕事をしてもらっていて、入り口の部屋に上がらせてもらいました。ちょうどあの丹波哲郎とか、司葉子、岩下志麻といった名優たちがこの家の前でのカットが額縁に入れた写真で飾ってありました。なつかしいシーンです。

 

家の前の濠はL字型で、家の周りを囲っているわけではないので、これは以前からですかと尋ねますと、そうです、元々ですとのこと。そうなんだと思いながら、家の風格みたいなものとして用意したのかなと勝手に思ってしまいました。

 

最後に美福門院御墓地です。実は往きにその前を通っていたのですが、気づかなかったのです。たしかにそのように表記した墓標がちゃんと立っていますが、上皇の后としての風格とは異なり、どうかと思うのですが、それにしても平安末期に荒川荘と縁が深かったことを示していますね。村田氏の説明では、鳥羽上皇から当地を贈られた美福門院がその菩提を弔うため高野山に寄進したとか。不思議ですね。田仲荘と争っていた荒川荘を美福門院がもらい受けるなんて。とはいえ、西行は鳥羽上皇も慕っていたようですし、美福門院に対しても特段悪意をもった印象はないのですね。高野山の勧進という点でも、美福門院と共通するような印象をもってしまいます。待賢門院珠子への思慕説はまだすんなり来ていません。

 

そんなことを思いながら、ずいぶん歩いたなと思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 


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