171201 馬冑と紀ノ川文明 <古代の馬のマスク「馬冑」 大谷古墳で世界初出土>を読みながら
晩夏に大谷古墳を訪れたことをこのブログで書いたような、危うい記憶が残っています。だいぶ日差しの強さも弱まったとは言え、隠れるところのない古墳では散策していると自然に汗が落ちてきた記憶です。
だれも訪れる人がいない、わずかにぽつぽつと訪れる程度の、おそらくいまでは忘れ去られそうな大谷古墳の状況でした。とはいえ、時折草刈や周辺の枝払いをしていることは散策路を歩いていても、だいぶ以前にやったことが窺えるものの、年に一度以上はやっているかなと感じました。
住宅が密集した奥に、ぽつんと取り残された場所にありました。見晴らしはというと、古墳は前方後円墳型で、全長67m、高さが6~10mですから周囲の中木よりは高いですが、その程度ですので、木々を通してみる景色は残念ながら壮観とは言いがたいです。まして紀ノ川はわずかに一部が見える程度。古墳時代の紀ノ川の流れは当然、現在と違っていたでしょうし、おそらくは紀ノ川南岸一体も網の目のように自由奔放に流れていたのではないかと思うのです。むろん目の前の木々や住宅もなかったわけですから、そのときの大谷古墳は偉容を誇っていたのではないかと想像します。
さて毎日記事に移ります。<きのくに異聞録古代の馬のマスク「馬冑」 大谷古墳で世界初出土 /和歌山>という見出し記事は、山成孝治が馬冑を中心に学芸員の見解をうまく整理してまとめています。
まず、<古代、戦に臨む馬の顔を守るために作られた「馬冑(ばちゅう)」と呼ばれるマスク。国内での出土は3例、朝鮮半島でも20例ほどしかない。その実物が和歌山市・紀の川北岸の丘陵にある大谷古墳で今から60年前に世界で初めて見つかった。>
馬冑の写真が鮮やかに映し出されていますが、当時は大変な反響を呼んだと思います。その後日根輝己氏が『遙かなる馬冑』『紀氏は大王だった』『謎の画像鏡と紀氏』など一連の著作で紀ノ川文明を新たな視点で取り上げるとともに、橋本の隅田八幡神社人物画像鏡との関係で独自の古代世界を描いていて、とても興味を覚えたのですが、いつのまにか内容があいまいになっていますので、また読み返したい気持ちになりました。
<和歌山市教委文化振興課の前田敏彦・文化財班長>による解説に基づくものでしょうか調査の概要は以下の通りです。
<本格的な発掘調査が初めて実施されたのは1957年冬。市教委から委託された京都大考古学研究室が約1カ月かけて調査した。一帯からは兵士が頭や体を守った冑(かぶと)や甲(よろい)、矢を入れて腰に下げた「胡(こ)ろく」と呼ばれる筒など多くの遺物が棺の外から出土した。その中から馬冑が見つかった。長さ52・6センチ、最大幅24・5センチ。眉間(みけん)と両側頭部、鼻を覆う4枚の鉄板でできている。>
<馬冑は大谷古墳で出土して以降、埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群にある将軍山古墳と福岡県古賀市の船原(ふなばる)古墳でも見つかった。朝鮮半島では韓国の釜山市や対馬海峡に面する南部の慶尚南道などで見つかっており、大谷古墳の馬冑も、朝鮮半島からもたらされた可能性が高い。>
しかし、わずか3例しか見つかっていない中で、その一つが紀ノ川河口近くの山裾に作られた小規模な前方後円墳で発見されたと言うことをどうみるか、さまざまな推論が成り立ちうるようにも思うのです。
兵馬俑では、古墳時代前期から遡っても500年近く前に、すでに馬冑を含め軍馬としての防具が整備され、戦車隊が確立していたのに比べ、わが国では卑弥呼の時代でもわずかな数の馬しか導入されていなかったのではないでしょうか。
記紀でいう神功皇后を卑弥呼に当てはめる見解もありますが、その是非は別にして、その子の応神天応や孫の仁徳天皇の古墳をどこに比定するかいまもって議論が確立していないように思われる中、神功皇后の功績について特別詳細に記載している記紀の意図はなんでしょうね。
その神功皇后が東遷するに当たり、鞆の浦では鞆を、当地橋本では人物画像鏡をそれぞれ神社に下賜した伝承は興味深く、日根氏を含め多くの方が独自の紀ノ川文明を指摘しているように思えます。
その手がかりの一つがこの馬冑であり、人物画像鏡です。最近はブログ書きでこの種の書物をゆっくり読む時間がなくなってきました。というか、一度頭を冷やして混乱した頭の中を整理するための冷却期間かなと思っています。
またいつか、この議論を掘り下げる機会を作りたいと思います。
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