たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

川って何だろう 新日本風土記「渡し船」と川

2016-12-12 | 紀ノ川の歴史・文化・地理など

161212 川って何だろう 新日本風土記「渡し船」と川

 

今朝は新聞休刊日。それで先日NHKBS新日本風土記「渡し船」を見ながらついいろいろと思い出すこと、思いついたことを気ままに書いてみたくなりました。

 

あの光景で私自身が知っているのは矢切の渡しだけです。といっても伊藤左千夫著「野菊の墓」の政夫と民子の最後の別れの場面を思い浮かべて訪ねたというわけではありません。

 

35年以上前でしたか、金町浄水場からの飲み水が軽き臭いと評判で、実際私の住む地域も給水されていて、とてもそのままでは飲む気がしない代物でした。そんなこともあり、あるとき高度処理が行われるようになったと言うことで、見学に行ったことがあります。ついでに少し下流にある矢切の渡しを見た記憶です。その前後もあの付近で花火大会があったので、なんどか行きました。で、圧巻は、カヤックのエスキモーロールの練習場として浄水場の取水口の少し上流がちょうど手頃で、何度も訪れたのです。

 

もう少し話しを進めます。矢切の渡しの少し上流に金町浄水場があり、その少し上流が私の練習場、そのまた少し上流に松戸市周辺からの汚濁廃水が大量に流入していたのです。もう四半世紀前でしょうか。まだ流域下水道最終処理場がたしか荒川河口付近に建設する予定でまだないころでした。そこは江戸川。ここを一度だけ利根川との分岐点から下ったことがありますが、最初はさすがに利根川本流の水質できれいでしたが、途中から畜糞の香が周辺から漂い、次には生活排水がどんどん入り込み、金町浄水場の取水口手前は浄水の取水源としての水質ではなくなっていました。その後下水道が普及し、相当水質が改善してきたと覆います。

 

当時の矢切の渡しでは、まともに水面を見てもあまり気持ちのよいものでは中田のではないかと思うのです。これはパドリングして、水面がもうすぐ間近だと痛切に水というものを感じます。江戸川あたりでも小魚が結構いて、一人カヤックを漕いでいると、驚いたのかわざわざ飛び跳ねて体毎ぶつかってくるのです。自然に水に濡れます。水と一緒と言った感覚になります。

 

ところで、渡し船はいま、いわば絶滅の危機に瀕しているように感じたのです。人も船に乗るのはわずかな間だけで十分満足している様子。利用者が少ないからだとか、橋を通って車で行く方が便利とか、渡し船で通うような不便なところでは住めないとか、いろいろな事情で、ますます川へのアクセスが少なくなっているように感じるのは私だけでしょうか。

 

日本でも縄文時代や弥生時代はもちろん、おそらくは汽車の軌道や自動車道路が整備されるようになった明治以降、河川交通が衰退したのではないでしょうか。もう一つの理由としてはダム開発による流水の堰止めで、水量が激減したことも加速させたのでしょう。

 

と同時に、日本人の意識の中に、川が生活やその歴史にとって不可欠といったものがある時期に失われてしまったのではないかと思ったりします。この点、北米では、川は開拓の主要なルートであり、多くの開拓者はカヌーを使って最初に道を開いたのではないかと思います。たとえば、ルイスアンドクラーク探検隊は、ミズーリ大河や小河川を利用して太平洋への道を開拓し、その名前を冠した大学がオレゴン州にあります。カナダの場合はもっと川が利用され、商業活動でもハドソン・ベイ・カンパニーが北極圏のハドソン湾からカヌーや帆船などを使ってカナダ大陸を横断して交易し、現代まで活躍してきました。むろん一般の人もカヌーなどによる日常的な川の利用が行われていたように思います。

 

翻って、日本はとなると、維新時に訪問した異邦人が日本の川は滝だと極端な表現で示したものの、やはり河川勾配はかなりきつく、カナダや西欧のように割合なだらかな勾配とは異なることは否めないので、一般的な河川交通としては多くの河川は不向きだったかもしれません。それでも縄文時代は別にして、河川流域に生活拠点を移した後は、割合平坦な部分を利用して、下るときはそのまま、上るときは曳き綱などで活用されてきたと思います。

 

映画「紀ノ川」でも、上流の九度山で育った「花」が下流の六十谷(現和歌山市内)の素封家・敬策に嫁ぐとき、川船でゆったりと下っていく様は、とても風情豊かでした。その紀ノ川は当時、豊富な水量で、氾濫時は周辺を大きく水没させる暴れ川でもあったのです。

 

そういった川は、人間にとっては利用することと収めることが二律背反的に求められていたと思います。他方で、川で遊ぶというか、泳ぐといったこと、船遊びをするといったことは、後者は古くから高貴な身分が独占し、前者は武士の時代に一部の秘術としてしか使われていなかったのではないでしょうか。

 

そして明治以降、スポーツとしての水泳や行楽や自然観察としての川遊びが入ってきた後、戦後ある時期までは、庶民にとって川は身近な存在だったように思います。

 

しかし、一方で洪水調節や水源開発のため、ダム・堰等により大河川はいつしか水無し川になり、水の都といわれた各都市の美を形成していた、堀・運河、小河川はいつしか汚水垂れ流しで臭いものとなり、また身近な河川では落ちれば危険とか、有効利用ということで、どんどん蓋をしてしまいました。

 

ヴェネチアは水の都と言われ、多くの観光客が集うのは、至る所水が流れ、ゴンドラが行き交っているからではないでしょうか。潤いや和みを感じさせる都市やまちは、小河川が至る所にあるからではないかと思ったりしています。それは人の体自体が水で構成され、水なしでは生きて行かれない存在である事とも関係するように思うのです。

 

私たちは、再び水を育む川という存在を見つめ直してもよい時期にきていると思うのです。渡し船は、わずかな一瞬を昔の川とのつきあいを思い出させてくれるかもしれません。しかし、川は生き物です。川が健康であると、その水質も、そこに生きる微生物や魚介類も生き生きとしています。山から豊富なミネラルを含んだ水も、岩が砕けて小石や砂になったものも、みな元気になるでしょう。水鳥や昆虫もいかに生き生きとするか想像できるでしょう。

 

最近ようやく北米流に、環境用水とか景観用水といった観念が、法制度上、導入され、事業の中でも生かされつつあるように思います。水無し川から、わずかな流量が確保されるようになったところもあります。しかし、川のあり方をだれがどのように決めているのでしょうか。すべて法律で一定の基準があり、基本的には水利権という制度を基本にして決まっていますが、決まり方が不透明ではないでしょうか。

 

川は本来、さまざまなステークホルダーがいるわけですが、法制度上は、多くは無視されてきました。たとえば北米での水資源の利害をめぐる議論は、一般的な水利権者だけにとどまらず、レクリエーションとして利用する団体(たとえばカヌー協会)や原生自然保護を求める団体など、それこそさまざまなステークホルダーが登場して、川のあり方を決めているように思えます。

 

とつらつら昔考えていたようなことを思い出してしまいました。いずれ、さまざまな水利権と水利権のない多様なステークホルダーが参加して議論しなくては済まないことになりそうな気がします。部分的には河川法改正後、一部に生まれた協議会といった方式の検証をしながら、さまざまな河川分野において新たな協議方式なり決定方法を生み出す必要を感じています。

 

と同時に、カヤックで川下りをしていると、これは海の沿岸でも起こりますが、他の船、とくにレジャーボートや釣り竿など他のレジャーといろいろな意味で衝突というか、トラブルが発生するおそれもあります。カヌーイストの草分け的存在の野田知佑さんがかつて多摩川を下ったときに見事に表現していますが、これはお互い嫌な思いになりますね。

 

語りだときりがなく、とりとめもなく続きそうで、今日のところはこの程度にしておきます。


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