161203 遭難救助を考える 積丹岳救助国賠訴訟について
先日でしたか、友人から山岳救助事件国賠訴訟勝訴判決の知らせを聞き、すごいと思いつつ、普通の国賠訴訟以上に、いろいろと物議を醸し出しそうな分野での訴訟なので、訴訟技術もさることながら、強固な意志と情熱、努力がないとできなかったろうと感じ、ついブログで取り上げると言ってしまいました。
一昨日、友人から送られてきた控訴審判決文と、判例データベースでダウンロードした一審判決文(判例時報2172号77頁)を見て、これはとてもスリリングな事態で、裁判所の判断も微妙に分かれ、簡単には論評できないなと咄嗟に感じてしまいました。そういうわけで、以下の記述は、多少とも問題点をかなり雑ぱくな形で指摘する程度にして、もう少し整理して次の機会に改めて書いてみたいと思っています。
北海道積丹岳(しゃこたんだけ)で冬季にスノーボードをするために登山中、遭難したAさんを救助するために北海道県警山岳救助隊が救助活動中に、Aさんとともに雪庇を踏み抜き救助隊3名が20mないし100m、Aさんが200m落下し(第一次遭難)、その後40度の急斜面で、Aさんをストレッチャーに載せ50mほど引き上げた後、一時的にハイマツに一時的に結束し急斜面に一人残して立ち去った後、結束が外れストレッチャーごとさらに崖に落下させた、その日の捜索を断念して翌日発見したものの死亡した、痛ましい事件です。
ちょっとウェブ情報を見ると、やはり裁判所が救助隊の過失責任を認めた判断を疑問視する声が多く掲載されていました。本人は厳しい冬山に遊びに行って遭難に遭ったのに、生命の危険を賭して救助にあたった救助隊の責任を追及したら、もう誰も救いに行く人はいないとか。こういった山岳登山経験者や遭難救助に当たる人たちの心情は、一般的には理解できるような気がします。
私の登山歴、というほどの経験はありませんが、それでもなんどか危険な目に遭ったり、厳しい環境で雪山を過ごしたことがあります。40年以上前、穂高連山を踏破したとき、深雪と風の強い涸沢で雪のブロックを積み上げてテントを張るといった作業がいかに大変か(実は雪山登山でへとへとになり、山岳部出身者がすべてやってくれました)、そのブロックの上で寝るのですが寒さでほとんど睡眠がとれない状況で登攀を一週間くらい繰り返す厳しさを感じたました。
また、あるときは残雪の深い白神山系で、著名なガイドKさんの案内をこいながら、つい色気が出て道を外したところ、完全に道に迷い、同じような光景が次々続き、広い白神では結構遭難死する人がいると聞いていたのを思い出しました。遭難してしまった(実際遭難隊が出た)と思いあちこち歩き回るのを辞め、なんとか沢を見つけてどんどん下り(沢登りは得意というか好きですが、登山靴で降りるのはとても危険でした)、日没直前に地元のハンターの人たちに遭遇し、助かったこともあります(Kさんはじめ多く人に迷惑をかけてしまいました)。
また、カナダのロッキー山系で、友人の大学教授の案内でノルディックスキーを楽しむ一方、雪山登山も敢行し、急斜面をなんどか危ない思いをして降りていって事があります。いずれにしても私の場合ベテラン登山家が一緒にいてくれたので、危険を回避することができたように思います。急に過去の怖い経験を思い出してしまいました。その他失敗は少なくない思いです。
私は、新田次郎著『孤高の人』が好きです。主人公は、単独行を信念にもち、冬山登山の厳しさに耐えるだけの体力・気力を日々信じられない努力と工夫を積み重ねて、厳寒で誰も登攀しない山々を踏破していきます。最近の若い人の登山ブームに影響を与えたという、『岳』という山岳救助を手がける主人公の、アクロバティックな登攀・救助技術、そして遭難に遭った人に対する心温まる、「よく頑張ったな」というかけ声、他方で、多くの悲惨な遭難死と彼の優しいまなざしがNHKで放映されていました(以上は記憶のみ)。この放映を見て、マンガは読んでいませんが、救助隊の熱い心情や努力に心が和らいでいたところに、この裁判事例を見て、複雑な思いになりました。
そのような遭難者を救助する人たちは、過酷な状態で作業するわけですから、多少の失敗があっても非難するのはどうかと思う人たちの気持ちもわかります。本来負担すべき救助費用やその保険対応、それに対して警察救助隊といった税金を使っての対応といった問題もあるかもしれません。
しかし、救助隊という専門組織をつくり、遭難に対応する以上、それが民間か公的機関か、あるいは費用負担の有無にかかわらず、一定の救助技術・方法・仕組みが人的にも物的にも確立しておく必要があるように思います。それはいかに厳しい条件下であっても、人の生死に関わる専門技術者(ある面では医師が救急医として求められる高度の専門技術性と似ているように思います)としての厳しい注意義務が求められる場合がある、また、そういう期待を現代社会では求めているともいえるかもしれません。
それがこの積丹岳遭難事件で、具体的に検討されたのであり、それは救助システムとしても、遭難にある危険を惹起する人たちにとっても、将来の危険を少しでも回避し、最小化し、予防するためには、避けがたい一つの検証方法ではないかと思うのです。裁判という方法が最も適切かどうかは検討の余地がありますが、その他の検証方法が有効に働いていないときや、働かない可能性があるとき、裁判は決して避けるべき方法ではないと考えます。
前置きがいつものように長くなりましたが、では本件の事実関係と救助方法に注意義務違反があったかは、当時の現場の地形・気象とAさんの状態、救助隊の各メンバーの状態など、判決文だけでは読み取れないものが多く、ざっと読んだだけではかなり雑ぱくな判断にならざるを得ないことを初めに断っておきます。
一審は、第一次遭難の際の雪庇を踏み外した点を過失と認定し、二審は第二次遭難に至ったストレッチャーの結束方法、急斜面での据え置き位置、その監視を起こった点を過失と認定しています。控訴審は、遭難死に至る直近の過失を問題にしたと思われます。
私は、まだ検討未了ですが、たしかに第二次遭難に至った、結束方法の杜撰さ、とくにハエマツの径が5cmの幹や3cmの枝に結束した点、「一回り二結び」というAさんの荷重を無視したような結び方、40度の急斜面での据え置き方など、瀕死の状態にある人の安全確保としては極めて安全配慮を欠いたやり方は控訴審の判断におおむね賛同します。
ただ、はたして救助隊のメンバーがすべて雪庇(たしか60度ないし70度の垂直状態)から落下し、200m下から1時間もかけて50mもAさんを引き上げる作業をしたときの救助隊のメンバーの体力・気力・意識は相当に低いレベルにあったように思えるのです。孤高の人も最後に後輩の懇請で一緒に登山し彼を救おうとして力尽いたと記憶しています。
私自身、まだ断定できませんが、このときの隊長以下のレベルは注意義務がかなり低下してもやむを得なかったかもしれないという思いもあります。また、Aさんの低体温状態の悪化や、落下による衝撃は危険な領域に至っていた可能性も十分あるとも思うのです。その意味で、一審判断のように、第一次遭難時の方が、遭難死を招く因果関係が直接的な可能性もあると思ってしまいます。
不思議なのです。Aさんが発見された場所からわずか50mのところで雪庇を踏み外した点です。しかも雪庇が近くにあること、稜線付近はとくに勾配がきつくなっていることを理解していたはずの救助隊の行動です。Aさんが低体温で朦朧としていて一人で歩けない、だから二人で抱えて歩いたという、これこそ3人の重量が余計に集中し、雪庇に過度の負担がかかるのではないかと思うのです。このような行動をとったのは、やはり雪庇の位置を誤っていたとしか考えにくいように思います。
その背景としては、元々、Aさんから友人への連絡では雪洞を掘ってビバーグするということを聞いていたことから、まさか雪庇近くで雪洞を掘るとは思っていなかった可能性があります。しかし、冷静に考えれば、9合目以上では雪洞を掘ったりするようなところが無かったとの知見があり、実際、発見時雪洞を掘っていなかったわけで、加えてGPSの位置情報も誤っていたわけですから、改めて位置確認をしっかりして、とりわけ雪庇の位置を特定し、なによりも遠ざかる方法でAさんを運ぶべきだったと思うのです。
また、9合目付近まで雪道車が上げってきていて、救助隊等がいたわけで、800m程度の距離にあり見えたりみえなかったりしたようですが、下から雪庇が見える位置にあったかはっきりしませんが、少なくとも下のメンバーとの連絡も持続的に取りながら、進行すべきではなかったかと思うのです。
かなり荒っぽい推論で、事実関係も一度読んだ限りの、地形図や関係者の位置関係も確認しないままで、述べてしまいました。ただ、基本的には雪庇の位置がはっきり確認できない状態で、Aさんを運ぶという方法をとったのは疑問が残ります。Aさんの過失割合がどの程度か、一審のように7割なのか、二審のように8割なのか、これも議論がありそうですが、とはいえやはりかなり高いことはやむを得ないと思います。
いずれにしても、山岳救助、とても危険な仕事で、誰も好んでやる人はいないと思いますが、やはり仕事としてやる以上、それに応じた体力・技術・知見・冷静さの向上など、今回の事故を契機に、チャレンジしてもらいたいと期待したいと思います。
と同時に、遺族弁護団の勇気ある訴訟遂行と詳細な注意義務違反の指摘、立証は、山岳遭難訴訟の金字塔になりうるのではないでしょうか。今後発表する場合、図示化をしていただくと理解しやすくなるかと思います。
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