たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

たそかれに思う  現代の事象と自分、道元は

2016-12-04 | 心のやすらぎ・豊かさ

161204 たそかれに思う  現代の事象と自分、道元は

 

昨日は、夕方4時過ぎから6時過ぎまで伐倒した竹木、スギ・ヒノキの枝などを野焼きしました。まさに黄昏の一時を野焼きに興じました。竹木は、あるいはスギ・ヒノキの枝は、燃え出すと炎が揺らめき、頭上3mないし5m近くまで天竜のごとく見事な火炎の相を見せてくれます。そして次々と灰になっていきます(今朝は3時間やり遂げました)。

 

いつの間にか夜のとばりが落ち、炎上していた火は今度は遠くに浮かぶ三日月を背景にして、火の粉となってより高く、華々しく飛び散っていくのです。まるで蛍のようと思うのは私の幻想でしょうが、美しいのです。

 

このときふと、道元の『正法源蔵随聞記』の「現成公案」(げんじょうこうあん)にある一文を思い出しました。

 

「たき木、はひとなる、さにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。・・・生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となるおもはず、春の夏となるといはぬなり。」

 

長い引用ですが、山田史生著『絶望しそうになったら道元を読め!』で水野弥穂胡訳を援用しているのを拝借しました。

 

薪と火・灰という諸相についてのとらえ方から、人の生と死を言及し、四季それぞれを例にとりながら解説する道元の見方、以前からわからないまでも気になっている部分の一つです。

 

ところで、黄昏はいまでは「たそがれ」といいますが、元々は、夕暮れになると、人と会っても識別がしにくくなり、「誰そ彼(誰ですかあなたは)」と声かけしていたことから、「たそかれ」だったといった説があります。私自身はこのブログの題名を付けるとき、もう4年前なので忘れてしまいましたが、そんな説も頭の片隅にあったかもしれません。

 

日中、日の光に包まれていると、あらゆるものが目の前に現れます。見ようと思えば見えるわけです。まるでなんでもそれで分かったかのような気にもさせてくれます。夜日が落ちると、真っ暗闇となり(月明かりの時は別ですが)、漆黒の闇で、何も見えません。その昼から夜に移るとき(こういう言い方自体道元的には誤っているのかもしれませんが)、見えるようで見えない、実相は何かを考える心持ちを抱かせてくれるような気がしたのかもしれません。

 

そして人生の黄昏といえば、人生50年の時代は過去の話になったかもしれませんが、還暦を過ぎるとやはりなんとなくそのような人生観を感じたのかもしれません。あるいは人が生きるとは何かを考えるのは黄昏を迎えたときではないかと考えたのかもしれません。

 

しかし、道元の見方からすれば、いずれも正しくないように思うのです(彼は53年の人生でした)。それはどういうことか、いまうまく説明できませんが、昨今のトランプ氏の大統領戦における地滑り的勝利、プーチン大統領が80%以上の支持を受けていることや、朴大統領に対する韓国民の96%の不支持などをマスコミ情報で見ていると、道元の言葉がどこかで響いてきたのです。

 

昨夜BS1スペシャル「ザ・リアル・ボイス“スタローバヤ”からロシアの本音が聞こえる」を見ました。いまロシアは、クリミア半島併合などにより西欧から経済封鎖を受けています。いままで必需品だったチーズや生野菜、サケなど、多くの品物が輸入されなくなったわけですから、まるで北朝鮮の庶民のように困窮状態になって、大統領に不満を抱いているのではないかと、西欧をはじめ日本人の多くも思っているかもしれないとの前提で、真実の声をNHKが取材したわけです。途中から見たので取材先をすべて見たわけではありませんが、たしかモスクワとかサンクトペテルブルクとかにある大衆食堂や公共市場で多くの庶民から生の声を拾っていました。

 

ほとんどが何も困っていないという声でした。実際、チーズも野菜もロシアの農家が力を入れて増産し、品質も維持して賄っているというのです。サケの代替品としてスケソウダラで大丈夫ともいいます。食堂には多種多様な品揃えが並んでいます。高い輸入食品に変えて安価な国産品により経済的も貿易差益が向上し、国内経済も豊かになるという声もありました。そして誰も異口同音に話したのが平和で平穏な生活を望むという声でした。それは20年以上前、ロシア人との会食や談話で感じた私のわずかな経験から得た印象とも同じです。

 

そしてプーチン大統領については、ほとんどが絶賛です。とりわけ20代未満と60代後半以上は90%近い支持だったように記憶しています。そしてプーチンのマッチョな体、水泳や柔道、バイクなどまるでスターのように写真が売れているというのです。

 

さすがにリアルボイスは、30代前後の働き盛りで最も不支持率が高い若者の声も拾っています。正確には覚えていませんが、経済不況の改善が見られず、就職先がないといった不満であったように思います。また、より直裁に、プロパガンダのせいだという声が強く響きました。TVなどマスコミはすべてプーチン大統領の下にあるといった印象でした。そしてTVは見ない、ラジオだけ聞いているとも言っていました。

 

ロシアという巨大な国の大都会で、その一部からの聞き取りで何がわかるかですが、なにか戦争突入前や後のわが国の情報操作と似ているように感じたのは私以外にも射るように思います。北朝鮮ほどではないとしても、情報操作のもつ威力を感じてしまいました。

 

しかもロシアは、ウラル山脈で西側と東側が政治・経済・民族も大きく別れ、NHKが取材したいずれも西側の人口が密集する大都市と、東側に広がる荒涼たる大地に100を超える民族が過疎の状態におかれている状況はまったく様相を異にすることは無視できないでしょう。東側は以前、放牧生活を送る先住民などが主体で、経済的には石油や鉱物資源に頼る中、自立した経済を確立し得ていない状態です。多様な先住民が昔ながらの生活を維持する中、民主主義の制度がどこまで理解されているか、疑念を抱かざるを得ません。

 

そのような状況で、プーチン大統領が80%前後の支持を得ていたとしても、それは真に国民が選んだリーダーなのか、どうも仮想に作られた社会でのトップではないかと思ってしまうのです。

 

それは全く異なる現象ですが、朴大統領に対する韓国民の96%の不支持という表明もなにか類似するように感じてしまうのです。むろん朴大統領のとったこれまでの対応、閣僚の誰とも直接協議することがほとんどないとか、官僚など含め誰のアドバイスを受けないといった態度をとりつつ、秘密裏に個人的なアドバイスを受け、その関係者らが私的利得を得ていたといったことに反発・批判するのは当然と思います。

 

しかし、100万人とも、150万人とも言われる、大統領退陣を訴える集団行動は、ほんとに民主的な意見の表れなのか、若干、疑問を抱いていました。今朝の毎日「時代の風」欄で、藻谷浩介氏が指摘していますが、ソウルの町を歩くと庶民の生活はいたって平穏で変わりないといいます。彼はそれを韓国の民主主義の成熟を示すと言及していますが、その点は少し首をかしげます。

 

たしかに抗議集団の平穏な訴え、他の庶民の平穏な生活姿勢は、いずれも民主的な制度の中で望ましい一端と思います。しかし、96%も不支持を示すことがほんとうに成熟した民主主義の表れなのかとなると、疑問を禁じ得ません。

 

アメリカ大統領選もそうですが、いまマスコミの情報収集と報道が問われているのではないかと思うのです。支持率とか、調査方法、その解析を含め、的確に問題をつかめず、ポピュリズムの影響を醸し出している要因の一つになっているように感じています。

 

そして再び道元に戻ります。私たちはいつの間にか、自然に、ある事象が起これば、何が原因か、そして何が結果か、次に何が起こるかなどと、思考をめぐらします。しかし、ある事象そのものは本当に存在するのか、そのこと自体を自分で認識することが容易でなくなっています。にもかかわらず、自分というものが同一性をもって生存しているという意識の下、いろいろと悩み・苦しみ、そしてそれからの解放やその解決を求めたりします。はたしてそれが人というものの生き方なのか、少し考えてみたいと思います。わかりもしない道元のことを持ち出しました。そんなところが「たそかれの散策」なのかもしれません。

 


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