たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

声と音がもつ力 <こころをよむ 人生を変える『声』の力「恐るべき声の力」>を聞いて

2017-04-09 | 人間力

170409 声と音がもつ力 <こころをよむ人生を変える『声』の力「恐るべき声の力」>を聞いて

 

今朝も静寂の中、どんよりした空気が感じられ、目覚めました。これはなんなんでしょうか。体内時計の曙光を浴びて目覚めるというのとは違うようです。あるいは高齢者として早起きになるのかもしれませんが、私は40代から夜、終電ないしは終電に遅れて帰ってきても、よほどでない限り朝6時にはだいたい目覚めていました。

 

当地にやってきて冬は真っ暗で寒いので少し遅いですが、春から夏、秋にかけては日が出ると目覚めています。すると5時前はもちろん、4時台のときも多いのです。この体内時計は、というか体が感じる物は何か、今朝の偶然、耳にした見出しのNHKラジオ番組での講演者、音楽ジャーナリスト・山崎広子氏の話が参考になりました。

 

その話題に入る前に、今日も少々疲れ気味です。雨が降る中、昨日花の苗(昨日は苗木とつい書いてしまいましたが、花ですので苗でしょうか)を3列に植えました。そうすると少しは花園風の感じがでてきたかなと一人ほくそ笑む気分です。窓から見ると、枯れ草が乱雑に生え放題だったのが、少しだけ見栄えがよくなったかなと思うのです。

 

でもその先のなんともいえぬ景観は、とても気分を安らかにしてくれます。一言で言えば、今朝のように深い霧に包まれていると、ロンドン郊外にある霧の田園風景ともいえる懐かしさを感じさせてくれます。イギリス(この表現もイギリス人?は好まないでしょうけど)では、首都圏をちょっと離れると、低い丘のような山、谷が広がっています。その田園景観、果樹畑というか牧草地が境界線を示す灌木ないし樹木がちょうどよいモザイク調で、ドライブを楽しむことができます。

 

それと似ていると感じさせるのがわが家の窓の先に広がっているのです。瓦屋根を中心とした和風の屋敷が点在する中、周りは柿畑がよく手入れされていて、ときどきスモモ畑(いまは白い花が満開)、それらが深い霧でぼんやりと目に映るのです。カメラのシャッターを切った若い頃と違って、一瞬から持続性のある景観を視角野の中に記憶しておくことが多いのです。

 

このように眼が私に感動をもたらせたり、それを記憶させ、過去の画像との類似性や異同などを判別したり、そこからさまざまな判断や感慨をもたらす重大な機能を営んでいることは、知らず知らずのうち、私たちが経験することだと思います。

 

さてそろそろ本題の「声の力」です。私は声の魅力というものに長く関心を持ってきました。おそらく40年近くはなるでしょう。きっかけは、私の声に問題があることを指導教官とも言うべき弁護士に指摘されてからです。T先生といいますが、とても厳しい方でした。すでに物故者となられていますが、以来亡くなるまで年賀状を毎年やりとりするだけの関係となりましたが、これまでに唯一私の声の問題を指摘した人であり、弁護士でした。

 

その後私なりにいろいろ試してみましたが、長続きせず、1000人、2000人の聴衆を前に話すこともある意味で慣れてきましたが、話しの内容とともに、私の声の問題を意識せざるを得ず、10年くらい前からは、そのような公開の場に立つことを避けてきました。そうはいいながら、才蔵ネットワーク和歌山では、いつの間にか私が締めの挨拶をするのが当たり前のようになりつつあり、少々閉口していますが、才蔵の魅力を少しでも届けたいという思いが勝って、自分の声や話しの内容に問題があると意識しつつ、つい表に出ています。

 

さて私の貧弱な声にまつわる話しはそのくらいにして、山崎氏の話は興味深い物でしたので、紹介させてもらいます。今後も続くようですので、興味のある方は毎週土曜日午前645分から40分間を楽しんでください。

 

山崎氏の話で最も興味を引いたのは、人が最初に得る能力が聴覚ということです。いや摂食するとか触れあう感覚とか、いろいろあるんじゃないといっても、母胎の中で最初に獲得するのが聴覚だという指摘は、実験結果を踏まえていろいろ指摘されましたが、実験はともかく、誰もが赤子の様子を見て感じてきたのではないかと思います。

 

そして母はわが子を、子はわが母を、多くの母親の声や赤子の泣き声の中から聞き分けができているそうです。母胎の中にいるときは目が見えない状態ですね。生まれても当分の間は視力は発声と似て、それほどすばやく機能を獲得するわけではないようです。

 

で、このように生まれたての赤ちゃんが相当の機能を持つ聴覚をすでに獲得しており、その能力により危険を回避し、健やかな成長を自ら目指すようです。そして何よりもこの聴覚は、単に聞く能力だけでなく、その音声とそれが意味するさまざまな背景やそれを構成する要素を含む一体の情報を、脳全体にインプットして、人の全身全霊に作用するようです。

 

それはどういうことかというと、音から、あるいは音声から、人はさまざまなイメージを自分の中で体験を踏まえた情報の中で再構成し、あるイメージを作り上げるようです。

 

だからでしょうか。人の話声を聞いただけで、いい印象をもったり、悪い印象を持ったり、その人の年齢・身体的特徴・性格をも推測することに繋がるのではないかと思うのです。

 

この点は、私はいつも不思議に思う、オレオレ詐欺などの電話などを介して行われている大量の詐欺事件について、解決というか、問題が生じる糸口の一つを感じるのです。これだけ多くの詐欺被害が出て、そういう被害防止策をさまざまな情報媒体で告知されているのに、なぜいまも欺される人が次々と出てくるのか、その一つは、電話だけの会話だと、声を通じて、いい印象を受けると、記憶が増幅され過剰なイメージ、敏感な反応になるの場合があるように思うのです。そのいいイメージの声から、肉親と誤ったイメージを一旦形成されると、不安や救済を求められたら、断り切れない状態に追い込まれるのではないかと思うのです。それは視力のよる識別判断とは異なる、仮装の空間が作られる危険性があると思うのです。

 

このような発声側の訓練は巧みに行われているでしょうから、聞く側の聴覚機能が麻痺するほど、その人にとって素敵な音声になって聞こえてくるのでしょう。

 

その意味では、美しい声にはトゲがある?という格言はないかもしれませんが、外部からの電話はそう思ってよいかもしれません。いやいや対面しても、外見はさほど魅力を感じないけれども、声を一旦発すると、一辺で脳細胞を蹂躙というか、魅了させてしまう人がいるでしょう。有能な営業パースンですね。こういう人は男性・女性を問わず、素敵な声の持ち主で、むろんサービス精神も旺盛でしょうけど、声だけで相手を惹きつけるものがあると思います。

 

そういえば、山崎氏の話では、クレオパトラの美人説について、実はそうではなく、カエサルも、アントニウスも、クレオパトラの声の魔力に魅了されたという説が最近話題になっているそうです。私もこの説に賛同したい気分です。オードリーヘップバーンはたしかに美人ですが、その吹き替えの、すみません名前失念、声優の方の声に魅了されます。最近は、原音で見ていますので、少々がっかりするのですが、それはともかく、声優のすばらしい音声でどのくらいその人柄をイメージしてしまうか、自分の脳細胞が試されている思いがします。

 

で、声の話しはこの程度にして、少し声とは飛びますが、私自身は、若干関連性を感じている、<今週の本棚佐藤優・評 『発達障害』=岩波明・著>を取り上げておきたいと思います。佐藤氏は外交・軍事問題を含め広範囲に実践的で貪欲な追求をされる方で、必ずしも賛同する分けではありませんが、鋭い指摘が多く傾聴に値すると思っています。

 

さて彼が取り上げた書籍は、<発達障害の代表的な疾患であるASD(自閉症スペクトラム障害、最近までアスペルガー症候群と呼ばれていたものが含まれる)、ADHD(注意欠如多動性障害)について、最新の医学理論、岩波明氏の臨床経験、さらに刑事事件の解説や文学作品の読み解きを通じて重層的に明らかにしている。>と、この問題の刑事司法におけるあり方をも視野において言及している点をまず指摘しています。

 

これまでも私は精神鑑定のあり方について、なんどか簡単に言及してきており、いつかしっかりと取り組んでみたいと思っていますが、この書籍はそのヒント的なものを提供してくれているように思えます。

 

刑事事件、とくに酷たらしい、非人道的な死傷事件や大量惨殺事件などで、精神鑑定が争点になることが少なくありません。当然、専門家である精神鑑定医が複数人、検察・弁護の双方で鑑定合戦という表現が軽薄ですが、外見的にはそういう様相を示すことがあります。しかし、現在行われている精神鑑定のあり方は、真にその障害の有無、程度を的確に把握するものであるかは検討してしかるべきではないかと思うのです。

 

ここでは発達障害をとりあげて、<人間を支配するのは理性だけではない。岩波氏のように、冷徹な頭脳と人間的な共感力と幅広い教養があわさった専門家が積極的に発信することで、発達障害に対する偏見が除かれ、障害のある者とないものが共存する社会の構築が進むと期待する。>と岩波氏および佐藤氏が警鐘を鳴らすとともに、改善への期待を示しています。

 

では声は、どう関係するのかですが、山崎氏が言及している聴覚と脳への作用について、刑事司法においても、改めて検討することも重要ではないかと思うのです。聴覚は視覚と異なり、視覚で有効な働きをする、嫌な物、見たくない物を回避したり、見たい物だけに焦点を当てるといったことは、聴覚ではできないと山崎氏は述べられていたかと思います。私の聞き違いかもしれませんが、そうだとすると、それは正確ではないように思うのです。

 

騒音事件などを担当していると、いかに人は音を識別し、嫌な音をなるべく聞かないようにしたり、騒音への聴覚の慣れという順応を示すかということが一つの争点なり、事実として取り上げられます。人は本能的に、音の善し悪しを判断し、聴覚作用が識別して、脳を含め全体で回避したり、順応したりする能力を身につけてきたように思うのです。

 

で、発達障害の児童などは、その作用が十分に機能していないのではないかと素人ながら思うのです。そうすると、最近、とりあげた動画<BS朝日 「自閉症を旅する」>では、自閉症の方が体験するのは、社会の風景・音・臭いなど感覚器官すべてに略奪的に侵入してくるインベーダー的存在が跋扈している状態で、それはまさに恐怖でありパニックに陥る状況ではないでしょうか。

 

このような障害者の視点で、刑事司法の責任能力の有無・程度を精神科医は社会的実態を踏まえて検討する必要を感じています。

 

なにを語ろうとしたのか、今日もあまりすっきりしない形で終わりました。とはいえ、しばらく2000字程度に抑えてきたので、指の痺れや体全体の違和感が和らいできたように思います。fbでは半年くらいが最長不倒距離?でこういう物書きを続けましたが、いつも具合が悪くなり断念してきました。この調子だと、fbの記録更新は見えてきたように思います。

 

なにせ千日回峰行ならぬ、千日ブログを目指しているので先は長いです。自重しながら適当に日々のブログを続けていこうかと思います。


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