たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

障害と不幸と差別 <NHKおはよう日本 相模原障害者施設事件被告との面接報道等>を見ながら

2018-01-25 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180125 障害と不幸と差別 <NHKおはよう日本 相模原障害者施設事件被告との面接報道等>を見ながら

 

今朝は、この冬初めてといってよいほど、外は銀世界。朝目覚めたとき寒さを感じたので、少しは冷えたかなと思いましたが、見事に道路もどこも白雪で覆われていました。といっても数㎝程度ですので、スノータイヤはまたしても必要がない程度。とはいえ安心なので坂道も普段通りに運転してきました。

 

温暖化どころか、短期的な間氷期という意見もあるとか・・・そういえば映画“The Day After Tomorrow”では突然の氷河期がやってきて極寒の北アメリカを描いていました。気象変動現象ですから、その一環としてはありうる想定で、トランプ氏のように温暖化はフェイクだといった議論の根拠にはなり得ないでしょう。

 

ところで、今朝のNHKおはよう日本では、横濱拘置所が突然、報道されました。昔なんども通ったところで懐かしい?感覚を覚えつつも、内容が深刻な物でしたので、NHK記者の熱心な取り組みに感心してしばらく見ていました。

 

取材対象は、あの相模原障害者施設事件(相模原市の知的障害者施設で重度障害者19人を殺害し、27人を負傷させた)の被告人です。かれは障がい者は不幸を生み出すとか、死んでも良いと事件前後から公言してきました。このことについて、反論ばかりか賛成するような意見もネットで拡散されたようで、社会的な反響は大きかったと思います。

 

記者は、事件後1年半を経過した中で、これまで手紙のやりとりを通じて、被告人の真意を問いただそうとしましたが、手紙でははっきりせず、何回かの面会申し入れの結果、ようやく拘置所での面会を果たして、直接彼の声を、話しを確認したレポートでした。

 

彼の答えは、同じでした。亡くなった方、深い傷を負った方や遺族・家族の方に対して、反省の気持ちを確認しましたが、彼には自分が正当なことをした意識に変わりがなく、そのような気持ちは示すことがなかったそうです。

 

ある意味、いま問題になっている優生思想が彼の心を支配しているようでした。それを報道することの是非も、NHKで検討したのでしょうけど、そのこと自体は議論されませんでした。

 

彼がなぜそのような考えになったかを聞いたところ、彼は施設内の風呂で溺れそうになった障がい者を必死に助け出したのですが、家族からはなんのねぎらいの言葉もなく、無視されてしまったことから、本人は意思疎通できないし、家族も助かって良かったとは思わないと、考えたことから、障がい者に対する気持ちが変わったようです。

 

その意味では、従来の優生思想が国家からの押しつけであったり強制的な意識付けであったのと違い、彼の中でそのような意識を醸成させたものがあったことが窺えます。

 

しかし、彼の回答をそのまま受け止められるかは疑問が残ります。だいたいその溺れそうになった事件でも、家族の対応といってもすべてがそうだったかはわかりませんし、たまたま安否を確認してきた家族の一時的な感情だったかもしれません。

 

障がい者の家族でも一人一人違います。すべてが同じ気持ちで接しているわけではありませんし、心を込めて接している人でも時に折れることもあるでしょう。そこから、一方的に障がい者は不幸を生み出すとか、死んでもいいといった結論は容易に生まれるものではないはずです。

 

以前にも書きましたが、もう少し彼の家庭環境や育った環境、精神的な障害の有無・程度をも検討する必要があるように思うのです。

 

他方で、記者が彼に、あなたの子どもにそういう障害の子が生まれたら同じ気持ちですかとか、どうですかといったような質問をしたら、彼は一瞬黙って、答えはなかったそうです。

 

優生思想の意識は、通常、自分や家族は、違うというところから生まれるのかもしれません。ナチスでいえば、ユダヤ人は異なる民族だから、自分や家族は一緒ではないと差別化が容易なのかもしれません。しかし、民族は遡ってみれば、突然変異で、それぞれの民族が生まれたのでしょうか。すべて交流・雑婚が濃淡はあってもあるのではないかと思うのです。とりわけ日本人の血統の純潔さなんてものは私には到底理解できません。

 

また知的障がいや精神障がい、視覚・聴覚・発語その他の障がいも、なんの必然もないように思うのです。私たちの生命は偶然に誕生し、偶然の中で死を迎えるように思うのです。それぞれの個体は、神様?でもないわけですから、完全無比な人は存在しないと思うのです。

 

ま、いえば欠陥だらけの人間が社会に存在しているからこそ、ある意味で努力というものが生まれ、挫折に耐え、苦労をして、なんらかのわずかな幸せを求めるのではないでしょうか。幸せは、個々がそう思うことで、どのような逆境に遭っても生まれるもので、ちょっと気を許すと手のひらに貯めた水のように指の間からこぼれ落ちてしまうものではないでしょうか。

 

障がいの子どもを抱えた女性が登場していましたが、障がいの子が生まれたから、不幸になるのではなく、その子への思いを尽くせない、愛せない自分に気づいたとき不幸と感じるかもしれないように思えました。彼女は、障がいのある子とともに、すがすがしい笑顔で人生への希望に満ちているように見えました。むろん苦労は日々、終日、あるでしょう。

 

でも苦労しない人生には幸せはやってこないのではないかと思うのです。はじめから幸せだけの人生はありえないように思います。

 

昨夕の毎日記事<優生思想に「反論」の半生 望まぬ不妊手術受けた女性 故佐々木千津子さん=学芸部・反橋希美>も、旧優生保護法の下、半強制的に不妊手術を受けながらも、自分の個性を、その意思を常に大切にして生きた女性が語られています。

 

また、同様に施設で個人の自由な意思が尊重されない、あるいは一方的に決めつけられる生活を送った女性の話も貴重です。

 

優生保護法の解説は<質問なるほドリ旧優生保護法って何? 同意なしで不妊手術可能 日本は補償応じず=回答・遠藤大志>が参考になると思います。


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