たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考その10 <雲出川をめぐる左右の灌漑用水の技術伝承を考えてみる>

2017-09-13 | 大畑才蔵

170913 大畑才蔵考その10 <雲出川をめぐる左右の灌漑用水の技術伝承を考えてみる>

 

今日もなにかと忙しく過ごし、午後6時すぎまでの来客対応が終わったら、大事なメールが来ていて、その応答をして、いま時刻はもう7時間近。こういうときは才蔵ネタを材料にして短時間でまとめるのが一番と勝手な算段となりました。

 

私が継続的に書いてきた才蔵については、いろいろな切り口があり(これは私の独断と偏見が混じっているというかそのままかもしれません)、今日はとりわけいままでだれも触れていないのではと思うアプローチです。といって根拠はありません。推測というか、なんとなくありそうかなと考えての考察です。

 

雲出川(くもずがわ)をご存じの方は才蔵ファンか、地元の方くらいでしょうか。三重県津市と松坂市の市境を流れる長さ55kmの小ぶりの河川です。といっても、私も伊勢参りをしたとき、立ち寄りたいと思いながら、家族の冷たい目に勝てず、結局これまでいったことがない場所です。

 

でも才蔵のことを勉強しだしてすぐ雲出川のことが気になりました。才蔵が藤崎井、小田井などといった大灌漑事業を紀ノ川沿いに成し遂げる前に、やり遂げたのが雲出川での灌漑堰と用水事業でした。いわば才蔵の土木技術の出発点です。当然、そこに彼がその後に開花させた農業土木技術をそこで得たに違いないと思ってきたのです。

 

ただ、最初の頃は場所が適当に考えていてはっきりしませんでした。だいたい三重県の地理もほとんどわかっていませんでした(今も同じような状態ですが)。

 

で、だいぶ以前に、雲出川を調べていたら、あるいは江戸時代の土木技術を調べていたらかもしれませんが、藤堂高虎とか、その家臣の西島八兵衛とかがでていて、八兵衛は雲出川河口で用水事業を成功させたということで評価されていました。しかも八兵衛はあの満濃池の改修事業にも携わったというのですから、波の土木技術者ではないことは確かです。

 

農水省の<雲出川河口に穀倉地帯を拓いた雲出井用水>では、1646年~48年で完成したというのです。津市の<西島八兵衛>によると、<雲出井の工事は、戸木村(現戸木町)を流れる雲出川に堰を設けて取水し、少し下がったところから大谷の稲代川を併用して、久居台地を迂回して雲出地域まで水を流す、延長 7,200間(約13キロメートル)に及ぶ大工事であった。>というのです。

 

でこの現在の戸木町のところに、堰を設けて取水し、久居台地を迂回して雲出地域まで水を流すというのを地図で確認したところ、まさに雲出川下流左岸から河口付近に広がる現在の津市の区画に灌漑用水を通したのです。

 

では、才蔵の場合はどうでしょう。ウィキペディアの<『南紀徳川史』「郡制第五」>によれば、

 

<小木戸橋の近く、現在の一志町其村に井堰をつくり>とあります。この堰を作った場所は、上記の堰の場所と近接しているように思います。

 

才蔵の古文書では、これまで「伊勢一志郡新井」と呼ばれていて、新井という場所の名前と思っていたのですが、これは新しい井(堰)を呼称していると思われるのです。

 

その堰から、<宮古村(現嬉野町)前の中村川までの水路を整備し、古田井同様、中村川へ落とし、そこからは旧来の星合井の井溝を拡張し、村々への灌漑用水とした。>と雲出川右岸に広がる現在の松阪市に灌漑用水を引いたのです。

 

それが1698年のことですから、八兵衛の用水事業から半世紀後です。藤崎井の開削を開始したのが96年ですし、翌年97年に伊勢一志郡新井の水盛(測量)を行ったというので、必ずしも八兵衛の用水事業を学んで技術を習得したと言えるかは明確ではないですが、雲出川では先人が左岸を開削していたので、それをほぼ同じ場所で新堰を設けて用水事業を行おうとする才蔵が八兵衛の技術を学ばなかったはずがないと思うのです。かれは「地方の聞書」を残していますが、いかに彼がヒアリングを重視したかを示す一端です。

 

興味深い測量事情もなにか共通するものを感じます。上記津市の八兵衛の記事には<八兵衛は工事の陣頭指揮をし、土地の高低差を調べるのに夜間松明を灯し遠望して測量し、井水の側溝斜面には竹を植えて崩壊を防いだ。>とあります。

 

八兵衛の測量は単に夜間松明を灯して遠望したとしか書かれていませんが、才蔵の場合は水盛り台という測量機を図入りで示して具体的に高低差を科学的に測量できることを解説しています。

 

だいたい、夜間松明では、身近に寄せても書籍も読めなかったと思うので、土地の高低差が測れるのか疑問を感じるのですが、八兵衛がその土木技術を秘伝として解説書を残していないのかもしれません。では才蔵はどのようにしてその技術を学んだか。地元の農民に聞き取ったのではないかと思うのです。水盛り台に近い測量器具が必要だったのではと思うので、才蔵考案の水盛り台の前身が八兵衛が使っていたのではと勝手な想像を働かせています。

 

ところで、夜間松明で土地の高低差を測ることなど緻密にはできそうにないと思うのですが、では水盛り台なら可能か。私は用水路の天端は可能と思うのですが、水底部分は無理ではないかと思うのです。短い距離なら可能でも、長い距離の見通しは用水路の壁が邪魔して見えないと思うのです。すると、小田井の超緻密な勾配をどのようにして達成できたのか、それが私にとっては地下鉄はどこから入るのに近い疑問なのです。

 

30分以上経ちました。今日はこの辺でおしまい。


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