180114 大畑才蔵考その14 <津本陽著『大わらんじ』で吉宗を驚かせた才蔵について>
津本陽氏については、当地にやってくるまでは『下天は夢か』以外にその著作を読んだことがなく、あまり知りませんでした。しかし、当地で徳川吉宗に関心を抱いたこともあり、その歴史小説を次々と読んでいくうち、その原書に依拠する誠実な姿勢、さらに空白を埋める大胆な着想と惹きつける描写で、その後はかなり魅了され続けています。
その吉宗作品では『大わらんじ』と『南海の龍』が吉宗の魅力を遺憾なく発揮させています。そしてその輝きを支える重要な要素として、私が関心を抱いている大畑才蔵をかなり詳しく、その著作『地方の聞書』などの原書を引用しています。それだけでなく、吉宗が才蔵の特異な才能に多大な影響を受け、藩主時代に、才蔵と上司弥惣兵衛を江戸まで呼び寄せ、才蔵から直接話しを聞く場面まで設定しているのです。
たしかに吉宗の藩政改革の成功、そして徳川8大将軍への抜擢は史実ですが、その背景というか基礎となった大きな要因の一つを才蔵による、科学的土木技術の活用と、近代的農業経営、そして合理的な年貢徴収方法などによっているとの見方は、意外と正鵠を射ているように思えるのは才蔵びいき故でしょうか。
ともかく津本氏は、才蔵著作を含め関係資料を相当読み込んでいることがわかります。で、今日は久々の才蔵考ということで、著名な津本氏が取りあげたその一端を引用して、名伯楽ともいうべき津本氏が描くと、才蔵もより際立つというか、多くの人に知ってもらうきっかけになるかと思って、著作権に抵触しないよう配慮しつつ、引用させていただきたく思います。
なお、引用本は日本経済新聞社発行のものです。3巻に別れていて、巻数と該当頁はたとえば第1巻123頁なら1-123と表記します。『南海の龍』でも少し違った趣で取りあげられていますが、今回は『大わらんじ』に依拠します。
吉宗が藩主となったときの紀州藩の財政は火の車でした。それで吉宗は、一方的藩士に給金の支払の猶予をする一方、徹底した緊縮財政を実施し、他方で収入増をはかるため米生産の増大のため用水開発に乗り出すのです。
その担い手として目をつけたのが大畑才蔵だったのです。彼の評価についてまず、「土木工事に天才の手腕を発揮する技術者がいた。」と客観的な意味合いで言及します(1-269)。
吉宗が藩主になる前に、「熊野地方を探査し『熊野絵図』を作成」とか、「伊勢国一志郡の雲出川の原野に新井堰」(あらゆせき)の新渠とか、「紀の川北岸藤崎井用水」の新設とかを指揮したことが取りあげられています(1-269)。
とりわけ吉宗が才蔵の能力の高さを見いだしたのを『才蔵記』(地方の聞書)の内容でした。
津本氏は「才蔵の説くところは実情に即し,百姓を啓発する機智が随所にひらめいていた。」として、例として「種まき」の箇所を引用しています。
「種子播きの時期は、その年の草木の芽出し,開花が,春の彼岸前後に早かったか、あるいは遅れたかを見て'判断する。
水の足りない土地では種籾を播く際に、前年の冬至の頃と似たような雨量の雨が、五月の夏至の頃にも降るのを考えあわせ、冬至の頃の雨量を注意してはかるべきである」
単なる栽培方法だけではなく、収支を計算に入れ、どのようにすれば適正な利益が生み出されるか、土地ごとに具体的に計算して収益予測をしながら農業経営を行うことが書かれていることに驚くのです。
そして「吉宗は、施政方針をうちだすうえで『才蔵記』を参考にし、彼を登用しようと考えるようになっていた。」(1-270)とまで才蔵を評価するのです。
吉宗は江戸表から新たな灌漑事業を才蔵と上司の弥惣兵衛に命じ、二人に小田井の目論見書を提出させると、その企画の壮大さに驚き、二人を江戸に来るよう命じるのです。
そして江戸に出府した才蔵についての記述がさえています。「才蔵は還暦を過ぎ撃髪に霜を置いているが、壮者のような華やかな身ごなしである。」と(1-340)。
吉宗は引見に現れた才蔵・弥惣兵衛を前に、「そのほうがさしだせし、紀州小田井堰普請の目論見書には、目を通しておる。このたびは普請について詳細に聞き及びたい。」と早速語りかけ、遠くに座る才蔵に絵図の近くで説明するよう催促するのです(1-340)。これは当時の身分関係でありえたか疑問の声もでるでしょうけど、一人で城外に出て一般人とも会話したとも言われ、身分の隔てを超えた実力主義を打ち出した吉宗であればありえることではないかと納得しています。
昨年暮れ世界かんがい遺産登録された小田井用水の主要資産の一つである、龍之渡井についてもしっかり言及されています。
「吉宗は紀州那賀郡四十八瀬川のうえを、一本の支柱もなく、十六間の石造り通水橋を架けわたす工法について、絵図面を見つつ聞きとった。」(1-341)として、その会話を再現させるのです。
「これが川のうえを渡す掛渡井か。紀州の石工もこれほどのものをこしらえおるか。尋常ならぬ精妙の技というべきじゃ」と吉宗の嘆息を著しています。
そして才蔵発案の測量機、「水盛台」についても吉宗が取りあげて、「「そのほう牲いかなる土地に通す渡井にても、一本の竹竿と手作りの水盛器を使うて、一分の狂いものう仕上げるというが、渡井の勾配を誤たぬはなかなかに難事であろうがや」とその科学技術についての能力の一端を示す質問をさせているのです。
これに対して才蔵の答えも用意し、「「おそれながら、さほどの難事にてはござりませぬ。夜中に水路のうえに一間ほどのあいだをあけ、蟻燭をたて、火をともしまする。さすれば情の高低をすかし見て、地形の高低があきらかとあいなり四、五十町ほどの水路勾配は一夜のうちにあきらかとなりまする」(以上1-341)。
吉宗の知的探究心はとどまることを知りませんので、「伏越」「尺八樋」の構造・機能についての質問が次々と飛びだし、才蔵が明快に答える様子を描いています(1-342)。
吉宗は実務家で現場主義者です。亀池や小田井・龍之渡井も訪れ、とくに前者では詳細な会話が弥惣兵衛との間で生み出されています。
たとえば「尺八樋には、尺八の穴のように直径三、四寸の孔が五個あいていた。
『これが尺八の名のゆえんか。江戸で大畑才蔵にこの仕掛けを聞いたが'なるほどのう』」と(2-28)。
当然、吉宗は小田井用水の検分し、才蔵とも再会しています。
「土木技術の高名を天下にとどろかせた大畑才蔵が、延べ数万人の人夫を動員してすすめている、治水工事の現場を検分する。
農業用水路、溜池の普請に神技といわれる才腕を発揮する大畑才蔵は、六十七歳であったが、立居は壮者を凌ぐたしかさであった。」(2-75)と改めて才蔵の一流の武芸者の面影を指摘するのです。
さらに才蔵が取りあげた定免法について、吉宗は才蔵と年貢査定方法について才蔵と議論したことで一定の見識をえたとして(3-44)、次のように記述されています。
「吉宗は紀州で、モデルとなる田畑の作物を刈りとって、年貢高を決めた。この方法をとれば、豊作、凶作のいずれの年も正確、な年貢高を割りだすことができ、合理的な徴税法といえる。だが、検見をする郡代、代官に査定の権限があるので、四百万石の幕府天領をわずかな人員で支配する現状から見て、彼らの不正を防止できる実効ある措置はなかった。
定免法を採用すれば、年々の作柄の出来、不出来を問うことなく、一定の年貢率を決めればよい。」(3-45)。
さらに多くの才蔵に関する記述がありますが、この辺りにしておきます。
今日は少し引用場所を探すの時間がかかり、まとめるのも大変でした。津本氏の著作の趣旨と異なるようだと困りますが、おそらく津本氏も才蔵を高く評価していたのだと思いますので、ご寛容いただけるかと勝手に念じています。
今日はこのへんでおしまい。また明日。
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