180128 隅田画像鏡と紀ノ川その6 <閑話休題 古墳の変遷 コモンズとして持続性と未来>
わが家からは谷間の集落の墓地が杉林の一画にこじんまりした姿を見せて、全体の景観に溶け合っているようにも見えます。和歌山では長く個人墓地が残っていたようで、こういった集落墓地も、以前は共同墓地として埋葬されていたのかもしれません。
以前、こういった集落の共同墓地の改葬があり、土を掘ったけども骨はほとんど残っていなかったそうです。現在は墓石が建立され、通常の墓地形態になっています。時代の意識、環境の変化は墓地のあり方に影響を与えるのは自然ですね。最近の新様式をとりあげるのではなく、古墳をここでは取りあげたいと思います。しかも天皇陵と比定されている古墳群について。
隅田画像鏡の銘文からなにが読み取れるか、学者は一部を除きさほど議論していないように見えますが、一般の考古学・歴史学などの「素人」研究家は諸説を論じていて、興味深いですが、まだこの問題に立ち入るには時間がかかりそうです。
そのような議論の中に、大きな問題の一つが今回世界遺産登録を目指す、中百舌鳥・古市古墳群のそれぞれの古墳の被葬者が誰かという点です。
で、今日は現在の前方後円墳の姿がほぼ形成された「文久の修陵」を中心に、それ以前と以後の姿、それ以前を中心とする状況について、外池昇著『幕末・明治期の陵墓』の記述を主に参考にしつつ、その前後の陵墓を絵図で明らかにし解説を施している『文久山陵図』を見ながら、少し考えてみようかと思います。
ここまで書くのに30分を使ってしまいました。NHK囲碁トーナメントまで1時間しか時間がありません。要領よくまとめることができればいいのですが、とりあえず始めて見ます。
いや、この『文久山陵図』は素晴らしいですね。文久2年(1862年、黒船到来後維新直前)宇都宮戸田藩もよる建白で突然、動き出した、陵墓の比定・造営が「文久の修陵」ですが、この図は、修復前の現状と、修復後の姿が描かれています。加えて外池氏らによる解説も加わってよくわかります。
ここでは個々の終陵の内容には触れません。全体的な外観を、『幕末・明治期の陵墓』を基に素人なりの考えを述べてみようと思うのです。
現在私たちの前に存在する大仙陵古墳や誉田御廟山古墳などは、5世紀に築造されたということですが、その原型をとどめていないことはよく知られています。ではどのような変遷を辿ったかについては、必ずしも明らかではないと思うのです。
当時の築造された原型がシミュレーションで3D画像化されたり、模型や再現したものがありますが、その考古学的・歴史学的などの根拠が十分確保されているのかは私自身まだよくわかっていません。
よく話題となる築造目的についてもはたして合理的な根拠があるのか疑問を感じることもあります。墓であることは間違いないでしょうけど、祭祀崇拝や権威確立および承継の場所的意味も、その要素を否定できるわけではありませんが、まだ疑問を感じています。
天皇制が神武天皇以来、連綿と継続してきたという点で言えば、最も重要な古墳での祭祀における連続性を感じないのです。記紀の記載の中で、そのようなことを窺えるのは部分的ではないでしょうか。
大仙陵古墳を含む中百舌鳥古墳群は、ある種瀬戸内海を通ってくる異国船への権威を示すとかいう立論は、地形的に見ても、船舶交通から見ても、どうも理解できません。
それに仮に大仙陵古墳に被葬者を仁徳天皇(これは宮内庁とか特定の立場だけでしょうか)と比定する場合、父親である?応神天皇の陵とされる誉田御廟山古墳より海洋側にすべて築造するという考えも理解に苦しみます。
だいたい、仁徳といった諱自体が後世で権威付けで名付けたとも言えるわけですから、あまり気にする話しではないですね。高台から見て民の家の竈から煙が見えない、生活に困っているから3年間免税にするといった美談は取って付けた印象をぬぐえません。
こういう余分の話しをすると、本論はどんどん遠ざかってしまいますので、この程度を起動を戻します。
少なくとも古墳時代の大王から、聖武天皇が日本国、天皇制を確立?した後桓武以降、一定の変遷があるものの、藤原摂関政治に入るまでは、長く天皇制が強化されていったように見えます。
しかし、そうであれば、先祖の古墳の祭祀継承は、最も大事な物として行われたはずです。ところで、そのような形跡が各天皇陵とされる古墳、さらには巨大前方後円墳においてすら行われていたか、どうも判然としません。
そして外池氏の解説だと、藤原摂関時代に、陵墓について、「浄」と「穢」を大事にするようになり、陵墓は「穢」とされ、遠ざける、近寄らない、立入禁止になっていく、そんな場所にされた見方になったというのです(ちょっと昨夜ざっと読んだ印象です)。
それが藤原摂関政治から、上皇政治が始まった平安後期、さらには武士の時代となった鎌倉期や室町期、さらには江戸期まで、幕末の尊皇攘夷思想が高揚するまで続いたというのでしょうか。
そういう要素もあると感じつつも、もっと現実的な実態に迫れないものかをふと、『文久山陵図』の絵を見ながら、また『幕末・明治期の陵墓』で言及されている地域住民による共同利用形態を知ったとき、従前から抱いていた感想をつい抱いてしまいました。
文久山陵図は修復前の陵墓の様子と、修復後の様子を並べて描いています。それぞれの陵墓によって、状態は異なりますが、ほとんどがビフォーは「荒蕪」図として、アフターは「成功」図としています。
この「荒蕪」とはなにかというと、雑木林や下草に覆われ、また壕は埋められ、田畑として利用されていたのです。いまでいう耕作放棄地とは違います。地域農民にとっては有効利用していた土地でした。用水が残っている壕では、まさに田んぼのため池貯水池の代替地となっていたのです。
いわば、地域農民にとって、最も大切なコモンズ的利用を有効に行っていた場所でした。これがいつ頃からそのような利用がされてきたかは、明らかではありません。
ここで大胆な仮説をいえば、中百舌鳥・古市古墳群のある地は、大和川の流れ込む河内湿原から少し高台で、河内湖・湾・湿原の干拓事業に伴う土木事業の延長で、古墳が作られた可能性がありえないかという点です。だから低地である上町台地の東側には古墳は一切なく、南方に大量に築造されたのではないかと思うのです。
それは田畑に必要なため池の代替施設として、また、里山として生駒山や二上山などは遠いこと、また神聖な場所であることから、古墳形状の里山を身近に必要としたと言えないかです。
少なくとも江戸期までは、田畑の肥料は、山から手に入れ、燃料も山からです。そういう役割を似合っていたから古墳は、権威者による強制だけで作られたのではなく、地域住民の任意の参加によっても作られた可能性を考えてみました。
だからこそ、少なくとも尊皇攘夷という硬直した思想が極度に高まった文久時代まで、地域住民が古墳を共同で合理的利用していたのではないかと思うのです。そして用水利用は、明治期になっても、長く継続されたようで、宮内庁も大仙陵古墳の壕の用水利用を認めていたようです。
ちょうど一時間となりました。またまた不完全なものになりましたが、さわりですので、またいつか訂正を交えて書き加えてみたいと思います。
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