たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考その7 <大畑才蔵を現代においてどうとらえることができるか>

2017-08-04 | 大畑才蔵

170804 大畑才蔵考その7 <大畑才蔵を現代においてどうとらえることができるか>

 

8月に入ってからだと思いますが、いままで適当に日々書いてきたブログについて、カテゴリー分類ができることを知り、仮に分類するとどんな対象を取り上げてきたか、なにか方向性と行ったものがあるかなどと考えてながら、とりあえず今年の分を整理しました。

 

実際は、一つ一つのブログの中身はあっちこっちに飛んでいるため、カテゴリー分類が容易でなく、またそのカテゴリーの表現も、識別基準もいい加減ですので(時間をかけずに機械的に分類)、一応の目安みたいな物でしょうか。そうすると、若干、ある種の内容を割合とりあげていることがわかります。ま、好みありますし、閲読しているのが毎日ということもあり、偏りは当然です。

 

それはともかく、今日のお題はと新聞を見ても内閣改造がほとんど紙面を埋め尽くしていて、ちょっと興味をもてなかったので、しばらく才蔵考を書いていなかったこともあり、また、<大畑才蔵ネットワーク和歌山>では来春早々にミニシンポを開催する予定ですが、そのシンポテーマなり構成なりを一応、担当したので、たたき台くらいは用意しないと思いまして、思いつくまま、以前にも書いたこともあるでしょうけど、一時間ほどで思いつくまま、書いてみようかと思います。

 

いくつかのアプローチが考えられるように思っています。今回が何回目かと思い、カテゴリー欄を覗くと、6回ありましたので、7回目というのがわかりました。これだけでも分類した意味がありました。どんな内容を書いたかをフォローするのもいいですが、そんな時間があったらタイピングする方が有益と思い、過去の文書をチェックせずにやろうかと思います。

 

さて、彼はまず、百姓です。そして家族をもち自分の跡継ぎのことを思い、その指針となるべく、百姓渡世という百姓が日々すべきことを一年を通して農作物の播種や肥料などを書いています。これは家族向けでしょうか。この種の農法については、江戸時代に入り、多くの農法書が普及されており、才蔵も参考にしたかもしれません。ただ、近畿圏における農法はすでに大坂あたりの町に出荷するなどの商業性の芽生えがあったようで、特殊性があったのではと思っています。

 

それはともかく、私は、江戸時代の百姓は、士農工商という身分制の下、また、過酷な年貢取り立てのため、隷属的な地位にあった、それが封建制だと主張する歴史家が長く通説的立場にあったことが現在では相当揺らいでいるのではないかと思っています。そういう意味で、才蔵の生き方はそして自発的な開発意欲、創造性などを発揮し、自立した農民、いや当時はほとんどがそうでしたから庶民、あるいは市民に近い存在とみる必要があると思っています。そういった、西欧文化が登場する以前に、近代合理主義の考え方で生活を、職業を営むようになりつつあった市民像を示しているように思うのです。

 

いや、それは儒教思想が現れているだけであると主張されるかもしれません。その意味では、是非とも近世農民を代表する一人として、その生き方を現代的視点で見直してよいのではと思うのです。近世農民史を専攻する研究者の考えを伺いたい思いです。

 

これはどういう点でそういえるかというと、ひとつは彼の算術の実践的な活用でしょうか。才蔵が生まれた頃、算術は全国的なブームで、現代で言えば中高生でも解答に窮するような問題を10代前後の子どもから大人まで競って買い得に取り組んだ背景がありました。ただ、才蔵は、その算術を身につけるだけでなく、農業土木に見事に応用実践したのです。

 

そしてここが重要と思うのは、彼は生活や農業というもの、それを維持する道具やため池、井堰などのインフラといった多様な対象について、詳細に絵図を書き、名称を付していったのです。これこそ技術の伝達、習得に近代的な知恵ではないかと思うのです。その単語帳というか、絵図に付した名称の数は膨大で、これがあると、その技術を学ぶ上で容易となります。見よう見まねといった職人的なものに頼らず、合理的な教育方式を彼は残しているのです。

 

そして彼が成し遂げた小田井、藤崎井など多数の灌漑事業ですが、費用対効果をしっかりと事前に算定して、無用な工事は回避しているのです。灌漑事業を行うに当たり、当該地域の田畑の評価を丁寧に一枚一枚行い、そして新田開発に余力があるか、意欲があるかといったこともヒアリングを通じて配慮に入れて、事業計画を練っているのです。こういったことは、以前から流行のアメリカ流、plan, do, check, reformといったことを彼は各地の見聞というヒアリングで身につけていったのではないかと思うのです。その意味で、現在の灌漑事業をになっている農政の研究者の評価を仰ぎたいと思うのです。

 

そしてその成し遂げた灌漑事業における農業土木遺産としての価値を適切に評価することができる研究者によるアプローチが不可欠です。紀ノ川は大河川の一つですが、下流域には古墳時代に宮井用水がすでに開削され、和歌山市の平坦地を豊穣の田んぼにしています。しかし、宮井用水は平坦であるのと、その灌漑用水と交差して紀ノ川に流れる河川がほとんどありません。これに対して、小田井や藤崎井などでは、河岸段丘が紀ノ川より高い位置に高台があり、しかも複雑な地形があり、多くの中小河川が紀ノ川に流れ込んでいますからそれらを横断するのが当時の技術としてかなり困難なもんだいとして浮上していたのです。

 

それを才蔵は伏し越など、現地に応じて多様な手法を活用していったのです。

 

中でも、取水地の小田から灌漑する粉河までは長い距離のいわば導水路で、おそらくこれだけ長い規模の物は当時としてはほとんど亡かったのではないでしょうか。しかも用水路の高低差はほんのわずかしかないため、精密な測量なしには成し遂げられません。これを才蔵は水盛り台という自ら発案した竹製の測定器で、地形の高低差を正確に計りながら、開削を進めたのですから、その偉業はその技術の正確性・精密性において高く評価される小野でしょう。伊能忠敬などのその後の測量技術は西欧文明の技術を活用した物ですが、才蔵のそれは日本独自のものです。それだけ彼の才能が優れていたというべきでしょう。それはもしかしたら縄文時代から受け継いできた精密な技術の伝統を彼が備えていたからかもしれません。

 

もう一つ、これはたぶんに日本文化の一端を示しているかもしれません。彼は安楽という、だれもが望むことがらを、懸命に働くことによって得られると考えたのです。それは誰からに言われて働くのではなく、まただらだらと考えもなく働くのではなく、みずからいかに知恵をつかえば、より効率的になるかを創造的に日々考えて、明日を見て、次世代を考えて、動くこと、そこに一所懸命になれば、それは安楽になるというのです。

 

それは江戸時代以前の、末法思想や、浄土思想とは隔絶した、いま現在をいかに生き生きと生き抜くかを、彼は考えていたのではないかと思うのです。その意味では、思想家の研究テーマになるかもしれません。

 

一時間がすぎてしまいました。思いつくまま書きなぐってしまいましたが、これをヒントにして、なにかいい考えが浮かべばと気楽に考えて、今日はこの辺でおしまいにします。

 

 

 


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