171011 至福の読書のあり方 <経済観測 今、図書館がおもしろい・・関幸子>を読みながら
五木寛之著『玄冬の門』で、五木氏は人間の一生について、次のような古代インド(左)と、中国(右)の分け方を紹介しています。
学生期(がくしょうき) 青春(せいしゅん)
家住期(かじゅうき) 朱夏(しゅか)
林住期(りんじゅうき) 白秋(はくしゅう)
遊行期(ゆぎょうき) 玄冬(げんとう)
著作のタイトル「玄冬」は最後に当たるわけですね。ところが五木氏は「玄冬というのは、生まれたばかりの、まだ何もわかっていない幼い子どものことで、生命の芽生えがそこからうまれてくる」という説があるとのこと。でも五木氏は、「高齢期、老年期だと考えます。」というのです。この玄冬に関する2つのとらえ方に人間の一生の妙があるように思えるのです。それはもう少し後で触れます。
五木氏は、上記の4つの区分について、第1期は勉学時代、第2期は社会に出て仕事をして家庭を持ち社会的役割を果たす時代。いわばここまでを従来の定年までとするのでしょうか。そして特徴付けるのはそれ以後を2つに分けていること。「白秋」を「生存競争の世界から離れて・・・静かな境地に暮らす時期」というのです。ではこの後の「玄冬」はなにか。それが本書で披露され展開されるのです。
私自身とからめていえば、もう朱夏が過ぎ、白秋に入っているかなと思いつつ、朱夏に後戻りというか、朱夏が何割か、白秋が何割か、そして玄冬にも首を突っ込んでいるという感覚です。
ではその玄冬はどんな時代でしょうか。場合によっては認知症になりおむつをしているかもしれません。でもそれは玄冬自体が赤ん坊時代をも表しているのですから、恥ずかしがることもなく、自然なことだと、五木氏は言うのです。
実のところ五木氏はいま85歳ですが矍鑠としています。いろいろ核心的なことを書いていますが、そのいくつかを紹介します。まずは家庭内自立です。それは自立の獲得でしょうか。配偶者、子どもの世話にならず自分で自分のことをするというのです。ですから孤独は求めるもので、そこに初めて真の解放された自由が生まれるといっているように思うのです。
孤独は苦しみではないのです。たとえば読書です。これほど古今東西の豊かな知見と対話できる時間は心の豊穣さを培い満たすといっているように思えます。絵画や音楽などさまざまな芸術も直接美術館や音楽会にいくのでも、図書館で書跡やCDを借りても十分楽しめる(これは私の見方)と思うのです。
で、五木氏の『孤独死のすすめ』や、『玄冬の門』の話からすると、若干、牽強付会のきらいはないわけではありませんが、図書館の役割は大きいと思っています。
毎日朝刊の<経済観測今、図書館がおもしろい=ローカルファースト研究所代表取締役・関幸子>という小さな記事、興味深く読みました。
まず図書館の最近の変容をとりあげています。<日本には公共図書館が3261カ所あり、この10年でその姿は静から動へ、大きく変化してきた。きっかけを作ったのが佐賀県武雄市図書館だ。蔦屋書店を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)に指定管理者制度で企画・運営を任せ、カフェの併設、新刊本の販売、ビデオレンタル、Tポイントカードによる貸し出し等、民間企業のサービスを前面に押し出し、滞在時間と利用者数を倍増させた。>
さらにビジネスパースン向けの例もあります。<東京の千代田図書館は携帯電話、打ちあわせOKゾーンの整備、あえてビジネス関連図書を貸し出さず常に閲覧できる状態を作り出すなど、ビジネスマン重視の運営を行っている。>
他方で、中心市街地活性化の起爆剤として作られたものも<筆者が基本コンセプトを書いた富山市立図書館は、ガラス美術館との合築。中心市街地の集客施設と位置付け、公共交通で来場してもらい、帰りに商店街で買い物や飲食へと回遊性を高める仕掛けだ。また、雑誌500タイトルはすべて企業の寄付で賄うなど、官民連携体制を組み込んでいる。>
海外の例も紹介されています。<海外でも図書館の進化は著しく、台湾では24時間の無人自動貸し出し図書館、シアトル図書館ではジョブセンターが併設され、仕事に必要なパソコンスキル研修を行っている。>
最後に<日本では団塊世代が70歳を迎え、24時間地域で過ごす人口が増加し、図書館は読書や貸し出し機能だけでなく、本を通じた交流が育まれる居場所としての機能が大いに期待されている。例えば、毛糸の本を見ながら編み物教室が開かれてもいいし、子どもたちが宿題を広げるなど、にぎやかな図書館こそ望まれている。>
五木氏がおすすめの玄冬の門で描かれた生き方とは異なる意味合いとなっていますが、図書館機能のあり方という面では検討されてよいのではと思うのです。
ところで、私はたぶん図書館のヘビーユーザーの一人でしょう。当地和歌山に来る前に、書跡・資料を10トントラック一台分で処分してもらってきました。それでも処分せずにもってきた書籍類はまだ残っています。では読むかというと、現在の関心からは少し遠のいたので、果たして今後再び手にするかは怪しい状況です。
むしろ図書館には膨大な数の書籍がありますね。むろん国会図書館やそれぞれの専門図書館と比べると、地域の図書館は大阪府立でも和歌山県立でも、かなり見劣りします。でも私程度だと、これで十分で、当地にやってきて来年で10年になりますが、まったく読めていません。古今東西の著者との対話は至福の時間でしょうか。
ところでたしかに図書館の書籍提供サービスと、さまざまな最新のサービスとの連携を探ることは一つの選択として、今後も検討してもらいたいと思います。しかし、図書の自由な利用という点ではさらに工夫があってもよいかと思うのです。一回の貸し出し本数の制限を拡大したり、制限自体をなくしたりするのも一つの策です。
他方で、返却期限は一定の合理性があるものの、異なる方式の選択も検討してみる価値があると思うのです。たとえば私が経験したカナダの大学の例ですが、書籍はいつまでも借りることができます。しかし、借りたい希望者が出てくると、返却催促が図書館から借りた人に送られてきます。返却猶予期間は若干あったと思いますが、それに遅れると制裁金的に一日当たりだったかお金を払わないといけなくなります。一冊くらいならたいしたことがないのですが、10冊とか20冊以上借りていると、すぐに本一冊分を超えることもあり、驚きます。
なかなか簡単ではないですが、あまり利用されていない本なんかだと(私の場合それがほとんど)返却期限があると気になります。いい工夫があるといいのですが。
今日はこの辺でおしまいです。
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