たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

脱所有は? <そこが聞きたい シェアリングエコノミー >などを読みながら

2017-09-27 | 不動産と所有権 土地利用 建築

170927 脱所有は? <そこが聞きたい シェアリングエコノミー >などを読みながら

 

今朝出かけにNHKのニュースが目にとまりました。早朝から地震情報があり、ついFMのバロック音楽を聴いた後、ニュースも雑用の合間に見ていました。ここのところたびたび取り上げられる所有者不明の空き家問題などでした。ちらっと見ただけなので、中身はあまり理解するところまで言っていませんが、画像からは今にも倒れてしまいそうなほど傾いている家、そして大量のごみの山。それを自治体職員などがゴミ袋に詰めているのは見たのですが、家の方は解体したのでしょうか。いずれにしても自治体の条例に基づく代執行なのでしょうかね。その費用は行政負担となるでしょう。所有者がわかれば費用徴収ができるでしょうけど、所有者がわからないからこんな事態になったのでしょう。

 

私もこのブログで耕作放棄地、森林の荒廃地に空き地・空き家が全国至る所で問題となっていることを繰り返し取り上げてきました。これらの問題の多くは所有者の所在不明と、判明している所有者の無責任さが主な原因かと思います。

 

そして所有者が不明になることは今始まった問題でなく、少なくとも公地公民制をとった律令時代から始まっているということも指摘してきました。この点、公地だから私有でないので、直接関係ないとみる向きもあるかと思います。しかし、村上一博ほか著『日本法史』でも指摘されていますが、この公地公民制で6歳以上の公民に提供される口分田は、土地公有主義を示すものではなく、私有主義を示すものとの理解が有力ではないかと思うのです。負担付きの口分田は、ときに農民に過酷となり、逃散が絶えず、休耕田・放棄地は、当時はもちろん、その後も長く続いていると思うのです。

 

なぜこのような過去のことを持ち出すかというと、私有制というのは古代や中世・近世と現代ではそれぞれ内容が相当異なりますが、それにしても個々人にとって扱いやすい場合もあるでしょうけど、扱いきれないことが当然のように生じていたことを少し指摘しておきたかったのです。

 

所有権は個人に帰属する、それゆえ所有権者となった個人は自由にこれを扱うことができるという建前は、常に基本的な前提がありますね。法令の規範と社会規範による制約といったものですね。

 

こういった規範は、私が時々取り上げている大畑才蔵のように、所有者の規範意識がその人の努力と社会秩序によって形成されていれば、きわめて個人としても社会としても有効に機能するように思うのです。

 

しかし、現代の複雑な、そして自由奔放な社会の中では、容易に所有者規範を個々人の中に育むのは容易ではないと思われるのです。といって直ちに私有制の基本構造を変更しようと言った話にはなりませんが、新たな利用秩序を形成する必要を感じるのです。

 

その中で見出しの毎日記事<そこが聞きたいシェアリングエコノミー 早稲田大ビジネススクール教授・根来龍之氏>は少し気になっていましたが、この記事の日は別のテーマを取り上げたので、脇に追いやっていました。今朝のニュースを見て思い出したのです。

 

シェアリングエコノミーといった観念は、類似の概念として縄文時代以降わが国でも、いや世界中で実態生活に使われてきたのではないかと思います。ただ、根来龍之氏が取り上げた「シェアリングエコノミー」は<時間単位のレンタルや個人と個人との間(Peer to Peer)の「シェア」のことです。>とりわけ<後者の場合、企業は仲介的存在にすぎず、所有権の移動もありません。代表的な例が米サンフランシスコで始まった二つのサービス、「Airbnb(エアビーアンドビー)」と「Uber(ウーバー)」=1=です。>とのこと。

 

<いわゆる「民泊」を世界中に広げたAirbnbは2008年に、個人が自家用車を使ってタクシーを代替するサービスを行うUberは09年に始まりました。>と、ある意味自動車や部屋が対象のように見えますが、実は個人と個人の利用契約を企業が媒介するもので、対象物なりサービスはいくらでも広がる普遍性のある企業活動でしょう。

 

<どちらも、部屋の貸手も借り手も、運転手も乗客も、基本は個人同士を信用して短期の契約を結ぶことで成立するサービスで、企業は間を取り持っているだけです。「使われていない資産や能力、時間を一時的に市場化する『個人間の取引仲介サービス』」と言っていいでしょう。>というのですから、これをシェアリングエコノミーと評するのが正確かといった疑問もありますが、そんな概念論をしても意味がないでしょうね。

 

ここでは「使われていない」資産、能力、時間を一時的に市場化するというシステムといった総括していますが、それは暫定的な見方ではないでしょうか。おそらくこのシェアリングエコノミーに適合するような商品化が進むのではないかと思うのです。その意味では使われていない現在のもの・サービスから、新たに生み出すもの・サービスが対象にもなるのではと思うのです。

 

使われていないもの・サービスを有効活用のためにこのサービスが始まったというのは、発祥地がサンフランシスコというエコロジー思想の強い土地柄の性もあるかもしれません。むろん根来氏が指摘するように、SF特有のIT産業が起爆剤となったことも確かでしょう。スマホにSNSという新しい個人識別媒体は、<「実名主義」=2=を原則としています。つまり、ネット上で取引(契約)しても相手が誰なのかが分かるため、利用者同士に「信用」が生まれます。そこが基盤にあります。>というのも理解できます。

 

わが国での普及について、根来氏は<駐車場のシェア>や<空いているスペース、例えば、お寺とか廃校になった学校、企業の会議室などを使ってイベントや研修、会合に使うサービス>、さらに都市近郊の農地も揚げています。残念ながら、農地については、農地法の規制緩和で緩やかになった賃貸借でも、現行法ではここまでは無理かなと思うのです。

 

ただ、この「シェリングエコノミー」は個人の履歴や特性をある程度情報管理して行えば、農地法の厳しい規制をも一定の条件でさらに緩和しうるヒントを提供してくれていると思うのです。

 

いずれにしてもこれは使われていないさまざまなもの・土地・サービスの活用化をはかるノウハウであり仕組みですので、これが有効に機能すれば、また、私たちの意識の中に定着すれば、過度なものやサービスの創出を抑制し、「足をもって知る」という日本人が培ってきた貴重な資産とも言うべきものを復活できるかもしれません。

 

他方で,不用意にもの・サービスを購入し、貯めてしまったり、積んでおいたり、使わなくなったら放置してしまうことに対する、サンクションといったことも、次第に容認できる社会になるかもしれません。

 

土地は先祖伝来だから手放せないといいながら、放置しているような場合、そもそも先祖伝来などという実態がどこまで本当に成立するのか疑わしいのが多くの土地所有の実態ではないかと思うのです。人間の歴史の長さを考えれば、ほんのわずか、場合によって明治維新後、あるいは農地改革以後といった程度が普通ではないでしょうか。

 

1時間を少し回ってしまいました。今日はこの辺でおしまい。

補足

 

所有はある種、独占的であり、最後は個人的な枠内に留まります。他方で所有概念がなくなる、あるいは形骸化すると、人と人との新たな関係が中心となり、その中でもの(土地も含め)やサービスが活用される、そういうあらたなコミュニティーの場になるのではと期待したいと思います。それは現在のSNSなどがより実在的な関係性を持ちうるのではとも思うのです。所有は投資や金融という飛躍的な経済の増大をもたらしましたが、他方でひとのこころは疲弊していないでしょうか。シェアリングエコノミーにはその新たな光を見いだしますが、まだ欠けているものを感じてもいます。



 

 


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