たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

強制連行された男性は <花岡事件 賠償訴訟 16時間働き、寒くて飢えた・・>などを読んで

2017-11-29 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

171129 強制連行された男性は <花岡事件 賠償訴訟 16時間働き、寒くて飢えた・・>などを読んで

 

性差別問題を起点に、最近著名人のセクハラやレイプに等しい卑劣な言動が話題になっています。慰安婦問題も、そのような世界の潮流や国連を構成するメンバーの変化もあってか、大きく取り上げられるようになった一因かもしれません。とはいえ、国連のレポートが正確な事実に基づいているかは疑問を感じています(残念ながら精査していませんので具体的な批判はできません)。他方で、朴裕河(パクユハ)著『帝国の慰安婦』は相当な合理性のある根拠に基づく指摘で、十分とまでは言えなくても相当の説得力をもっていると思います。

 

ところで、慰安婦という女性問題については性奴隷といったキーワードも常套用語として使われ、人権無視を特徴付けるかのように、韓国だけでなく欧米でも取り上げられているように思えます。そういった側面があったことについて具体的事実を踏まえて糾弾することは望ましいのですが、現在の議論は少々粋すぎているように感じています。

 

これに対し、まさに実際にも奴隷的扱いを強いられた男性の場合は、慰安婦問題と対比すると、中国という別の国でもありますが、さほど問題になっているような様子は窺えません。

 

ただ、今朝の毎日記事<花岡事件賠償訴訟 16時間働き、寒くて飢えた、仲間は殺された 94歳中国人証言「日本は強制連行、謝罪を」>は、遠藤浩二記者がその悲惨な実体の一面を簡潔にまとめていますが、その環境は女性の扱いより厳しいものだったのではないかと思われます。

 

「性奴隷」と一緒にするなとの批判がでるかもしれませんが、朴さんが指摘しているように、そういう女性はそれほどおおくなかったのではないかと思っています。むろん、好き好んで応募したとは思いませんが、戦時下で生活のため自由のない状況でやむなく過酷な条件を受け入れたのではないかと思うのです。それでもまだ中には軍人との間で心の通い合いもあった場合もありえましょう。

 

しかし、男性が強制連行された花岡事件では、そのようなことは一切なかったと思われます。花岡事件の概要は記事にまとめられていますので、引用します。

 

<戦時中の1942年、政府は労働力不足を補うため中国人労働者の国内移入を決定。約4万人が日本に連行され、35企業135カ所の炭鉱や港湾施設などで過酷な労働を強いられた。秋田県の花岡鉱山(旧鹿島組花岡出張所)では986人が働き、飢えや虐待による死者が相次いだ。中国人労働者らは45年6月30日に一斉蜂起し、日本人補導員らを殺害して逃走したが、憲兵隊などに鎮圧され、終戦までに419人が死亡したとされる。>

 

そしてその一部である<生存者と遺族計11人が鹿島(旧鹿島組)に損害賠償を求めて提訴。東京高裁で2000年11月、鹿島が11人を含む986人全員の解決を図るため5億円の基金を設立することで和解が成立した。>ということで、一定の決着が一旦つきました。

 

いま大阪地裁で提起されている訴訟は、<日本に強制連行され過酷な労働を強いられたとして、中国人の元労働者と遺族ら17人が国に謝罪と1人当たり550万円の損害賠償を求めた訴訟>です。

 

その一人、<生存者で原告の李鉄垂さん(94)=河北省=が28日、大阪地裁で証言した。>

 

その内容は<李さんは中国共産党軍にいた1944年春、河北省で日本兵に捕まった。収容所生活の後、青島から鉄鉱石を運ぶ船で下関へ。8月、陸路で秋田に連行された。

 花岡鉱山では河川工事を命じられた。1日15~16時間働き、水に足がつかり凍傷になった。三度の食事はドングリの粉を使ったものだけで、食べる度に腹を下した。山で野草や木の葉を取って飢えをしのいだ。

 冬でも服は1枚。板の間で仲間と身を寄せ合って寝た。飢えや病気で死者が相次いだ。>それは日本人のシベリア抑留と比べても、強制連行の点でも、その環境の面でも、人間の尊厳を無視し、人権侵害が著しいものであったといえると思うのです。

 

そしてついに一斉蜂起になったのです。<一斉蜂起のきっかけは、日本人の現場監督による虐待だった。仲間の1人は日本人からおにぎりをもらったなどとして衆目の中で殴り殺され、もう1人は熱した鉄を体に押しつけられた。「これ以上我慢できなくなった」

 暴動後に労働者らは近くの山に逃げ込んだ。すぐに憲兵隊に囲まれ発砲を受け、李さんのこめかみには銃弾がかすめた傷痕が残る。警察官から爪の間に竹串を入れられるなどの拷問を受けたが、日本の敗戦で解放された。>

 

このときの遺骨の処理などもとても耐えがたいものです。一年前の記事<人・あきた

「花岡事件」散乱遺骨第一発見者の1人 佐藤和喜治さん /秋田>で、それを語っています。

 

<1950年の春。時折雪が舞うものの穏やかな日だった。その“現場”には知人の金一秀さんと行った。金さんは朝鮮半島の慶尚北道(現・韓国)出身だったが、花岡鉱山に強制連行された中国人が過酷な労働に抵抗して一斉蜂起した「花岡事件」の中国人殉難者の遺族代理を務めていた。その金さんが、まだ多くの遺骨が現場にある、と言う。花岡鉱山で死亡した400人以上という中国人の遺骨は進駐軍により母国へ送還されたが、多くの遺骨は野ざらし状態とうわさされていた。>

 

遺骨発見の様子は痛ましいです。<その廃虚の黒土の地面の至るところがチョークをまいたように白くなっている。手に取って分かった。人骨だった。二人で拾い集めると両手で持ちきれないほどになった。>あちこちに<白い人骨が散乱していた。>

 

事件は終戦の日の2ヶ月も前です。遺骨を散乱するに任せてしまう、日本人の対応は遺骨を大事にするという気持ちになにか差別意識が少なくとも戦時中にはあったのでしょうか。いや、現在でも、そういった敵視したとき人の心は変わってしまうのかもしれません。

 

今日はまた遠くまでドライブして帰ってきたので少々疲れてしまいました。この辺でおしまいです。また明日


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