171130 花と禅その2 <生きる目的>と<あるがままの姿>
今朝は少し気候が緩んだのでしょうか。2ヶ月に一度くらいのペースで出す生ゴミをもって外に出たら、向かいのご主人とばったり(定年後はゴミ出し担当でしょうか)、挨拶を簡単に交わしました。風もなく穏やかで、集積場までわずかですが、気分良く闊歩できました。
生ゴミコンポストはやは見事です。中を見るとダンゴムシをはじめうようよ動きまわっています。微生物は見えませんが中で活発に活動しているのがわかります。臭気は軽い酸味風で、微生物による分解がうまく進んでいることがわかります。
さて連載シリーズ第2弾は、なんのために生きるかというという問いかけが、高齢者、要介護者、認知症、寝たきりの方、・・・さまざまの立場の人がそれぞれ、一度は自問するのではないでしょうか。こういう私も、高齢者の一員ですが、かなり前からときどき考えることがありました。むろん10代のころが多かったかもしれません。だからというわけではないですが、中高生がそういう考えや悩みを持つのは自然と思っています。
平井住職の言葉を借りましょう。『花のように、生きる。』です。
<花は根を下ろしたその場所で生きています。もっと肥沃な土地なら、もっと日当たりがよかったら、より美しく咲くなんてことはないのです。>
そして<ここでひとつ考えてみて欲しいのです。「人間以外の命あるものの生きる目的は何か」ということを・・・。生きることそれ自体が目的なのではありませんか?>
他方で現代社会は欲望追求に限りなく邁進しています。そこから<求めすぎのスパイラル、欲望のスパイラルに陥りやすい、いや、すでに陥っているのが現代人なのではないでしょうか。>と問うのです。
たしかにその一面もあるでしょう。ただ欲望が生きる目的との前提で、その悩みを決めつけるような理解はどうでしょうか。若者や様々な病状を抱えた高齢者の思いの現実に答えたものになるでしょうか。
結論的なことば<生きているそのこと自体がすばらしい、というところに立てば、見える景色はよほど変わってくる。>はそのとおりだと思います。
ただ、生きる目的を求めたり、それを見失って悩んでいる人への、心に直接響くかどうか、少しミスマッチのように感じてしまう語り口に思えてしまいました。むろん平井住職はさまざまな悩みを抱えている現状を理解されつつ、簡潔に収めるよう編集者の希望に?あわせて取捨選択したのではないかと愚考しています。
それに比べ、次の<あるがままの姿になりなさい>という語りは、難しいですが、腑に落ちます。
幕末の剣豪で心の修行に励んだ山岡鉄舟の人となりについて、平井住職は、次のように語ります。
<外に向けていた目を、あるとき自分のほうに転じた。相手にこだわるのではなく、自分にこだわることに徹した、といってもいいでしょう。そうして、こだわりを持って自分を見続けることによって、あるがままにそうある姿、すなわち、自然の自分に近づいていったのではないか>と。
他人や社会の評価に右往左往するのではなく、あくまで言葉に表れない、自分の良心というものに対峙し、それを掘り下げ、その自分とは何か、どうすべきかについて心を鍛錬して日々をそのあるがままを切磋琢磨の中で体現していく意味を取りかけているのでしょうか。
その切磋琢磨は、それぞれのおかれた立場に応じて、自然にすればいいのでしょう。若く成長激しい花木はその勢いを素直に受け止めることなのでしょう。老いて枯れていく木は風雨に堪え忍びながらも命の有り様を緩やかに受け止めるのでしょうか。枯れかけた木は、キツツキなどの穴掘り名人には格好の子育ての場になりますね。見えない微生物や菌類の新たな生長と折り合いをつけることも多いでしょう。
あるがままの姿は人がどうこういようと、自分自身と向き合って一刻一刻、日々、年々を重ねることでしょうか。
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