190113 歩く道(その6) <紀伊国桛田荘・文覚井周辺歩いてみる>
今日は天候が良さそうな空模様。どこにでかけようか迷いながら中世の水争論があった名手荘の水無川周辺と粉河寺周辺を歩いてみようかと思い出かけました。ところが京奈和道路が途中工事中で、24号線が渋滞。粉河まで時間がかかりそうなので、今回は断念して文覚井を歩いてみることに作戦変更。
ただ、文覚井がどのような経路を通って紀伊国桛田荘に灌漑用水を流していたか、以前読んだ和歌山県立博物館編集・発行の「紀伊国桛田荘と文覚井」をうろ覚えで、とりあえず宝来山神社周辺だと思いだし、そこをまず参拝して歩くことにしました。
神社の左側には宮池という小さな池があり、とりあえずその脇の道を登っていけば、山の向こうに流れている穴吹川(昔は北川とか、静川とかとも言われていました)に降りれるだろうと高をくくって歩き始めました。きれいに舗装した道なので、今日はくっつき虫に遭遇することはないだろうと思っていました。
ところが神社の案内図では道が続いているはずだった?のに、途中で切れていました。元来た道に引っ返そうかと思いつつ、その先を見るとどうも人が歩いたような跡があります。一尺くらいの踏み跡です。これはちゃんとした?道ではないかと前に歩を進めました。一方が竹藪、他方が柿の木が放置された状態でした。少し不安になりつつも、人が歩いていることは確かなので、大丈夫と考えてさらに進みました。
私はこの「歩く道」ではスマホのグーグルマップを頼りにして歩いています。これは便利ですね。道に迷っても自分がどこを歩いているか分かります。今回歩いているところはこのマップには当然ながら道の表示がありません。ただそれほど離れた距離に道の表示があったので、そこを目指して行けばよいと軽く考えました。
案の定?、人の踏み跡は途中で消えてしまっていました。それから先は藪漕ぎですね。それ自体は若いころからやってきましたし、熱帯のジャングルでもやりましたので、年をとってもそんなもので怯むことはありません。が、やはりひっつき虫が出迎えてくれました。
よく晴れた日なのと、すぐに工事をしているような作業音も聞こえてきましたので、藪の中でも不安はありません。そういえば昔、白神山で遭難したときは、少々あせりました。昼過ぎに迷った後雪山の中、沢を下っていったのですが、夕闇になり、これは危ない領域に入ったなと不安になり始めたころ、ようやく道路に出られました。何時間でしょうか、遭難でした。実際、救助隊が出たそうで、皆さんに迷惑をおかけしてしまいました。まだ若かったのですが、この年で同じことをやったらアホと言われそうです。
そこはGPSで位置表示がされていますので、道路表示を目指して藪漕ぎしたら、それほど時間をかけず出られました。手は薔薇や何かでいくつか傷跡が残りましたが、支障なく済みました。それから立派な陸橋を渡りました。なんと下は高速道路が通っていました。さきほどの作業音は工事作業車の音だったのですね。道路上には一台も車が走っていませんでした。本来なら車の騒音が響いていたのでしょう。昔高速道路建設工事中の現場を現場検証で訪問したことがありますが、開通後のこういう状況も興味深いです。
ところで目的は文覚井の取水口を探ることでしたが、どうやらそれらしい下る道はなく、藪漕ぎしないといけない状態でした。街中を歩くつもりで来ていたので、トレッキングシューズも衣服も用意してないので、今回はあきらめました。
はじめ当該箇所の高速道路は堀切で山を掘削して通していましたので、こんな全体が山地形では灌漑用水を通すことはできないな、なんて思ってしまいました。でも高速道路の左右に落ち込んだところがあり、山の東側は谷地形となっていて、そうかあの谷部分に用水を通したのかと気づきました。
再び山を下りて、神社付近に降り立ちました。改めて山の麓から紀ノ川にそって河岸段丘上に広がる桛田荘の農地を見ますと、かなり低い位置にあって、伝統的な瓦屋根で白壁の家並みは高台に配置しているようです。神社の少し下に、「船つなぎ松跡」という立派な石碑が建っていて、伝承と言うことのようですが、昔はこの高台に大きな松があり、そこに船をつないでいたということのようです。
神社の裏はもっぱら立派な照葉樹林で覆われているように思えます。改めて文覚井の水路を確かめようと、東側の谷間に足を伸ばすと、小規模な護岸があり、水の流れもわずかながらありました。他方で、すぐそばには小田井用水が以前歩いたときと同じように結構な水量で流れています。環境用水でしょうか。暗渠となったり、開渠となったりして、東から西に誰にも注目されていないかのように静かに流れています。
さて文覚井、先の「紀伊国桛田荘と文覚井」では、文覚が開設したことについては(12世紀ころ)異論があり、私も同意見です。たしかに12世紀末には重源といった中国の工法を学んだとかで、東大寺大仏の復興を成し遂げた僧侶がいますが、同時代の文覚がそのような土木技術を会得したとの裏付けが乏しいのではないかと思うのです。上記文献では、絵図など多数の文献資料から文覚井の成立が室町以降との見解があり、それに賛同したい気持ちです。
ところで、文覚井が開設されたのがいつであったとしても、少なくとも大畑才蔵が18世紀初頭に小田井用水を開設するまで、紀ノ川の大量の水を灌漑用水として利用できなかったことは確かです。桛田荘としては山向こうの北方に流れる小河川、穴吹川(北川)に堰をつくって用水を取水する以外、ため池灌漑しか方法がなかったのですね。
この文覚井は、穴吹川(北川)から取水した後、山越えしないように、谷間を流れる風呂谷川まで水路を作り、風呂谷川を南下し、その後東側と西側にそれぞれ配水してきたのです。その東側の用水は東村(現在の笠田東でしょうか)、西側の用水は萩原村(神社の西方)の田畑を潤してきたのですね。
以前、多数の絵図のいくつかを紹介したように思いますが、それぞれおもしろくいつか丁寧に一枚一枚、紹介できればと思います。関心のある方は博物館で購入を・・・
私は紀ノ川の水を利用できなかったのは、技術的な問題に加えて、荘園の領主が異なっていたこと、紀ノ川を一円支配できる状況になければ、堰を設けてその水利を使うことができなかったのではないかと思っています。その意味で、やはり1692年の高野元禄裁許が重要だと思っているのですが、まだ根拠らしいものがないので、ここだけの話です。
今日はこのへんでおしまい。また明日。
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