たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

漁業の担い手像 <森健の現代をみる 被災地の漁業の現状>を読みながら

2019-02-23 | 海・魚介類・漁業

190223 漁業の担い手像 <森健の現代をみる 被災地の漁業の現状>を読みながら

 

たまたまBBCのウェブサイトを見ていたら、REELという項目で?<How to get more time in your day>という動画が配信されていました。リスニング力の劣る私としては、ほどほどのスピードで話すのと、英文字幕(これはTVソフトの関係かもしれません)があるためフォローしやすく、これはなかなかいいとつい紹介することにしました。

 

上記テーマもなかなかウィットに富んだ内容で、現代人を不思議の国のアリスにでてくる忙しく駆け回るウサギのようとまず出だしから興味深いです。終日、ネットやSNSなどの通信手段を駆使し、電話で話す時間も惜し多忙で悩むことも忘れる状況を揶揄しながら?ぼっとして何も考えないでいる時間をもつことを提案しています。UKEU離脱を目前にしてカオス的状態ですが、その中で国民個々もそれどころではない状態なのでしょうか。成熟した社会であり、個人とも言われてきたように思うのですが、どんなもんでしょう。

 

それは別の見方もあるでしょうから、ここでは議論しませんが、このREELではさまざまなたくさんのテーマを無料配信していて、これはなかなかいいですね。さすがBBCと思う次第です。

 

さて本日のテーマは、漁業の担い手、漁業者、漁協を考えてみようかと思うのです。第一次産業といわれる、いずれも(協同)組合が法律でつくられています(農業協同組合法、水産業協同組合法、森林組合法)。漁業では漁協ですが、農業だと農協、林業だと森林組合です。しかしながら、名前は似通っていて、法律上の組織や構成員も大筋同様の仕立てに見えますが、いずれも似て非なるものかなと思うほど違っているように感じています。

 

ざくっといえば、漁協は漁業者だけを構成員に絞り、主に漁業管理に集中し、農協は農業者に限らずむしろ多くの一般人を受け入れ信用・共済事業を含む綜合事業体となっていて、他方で森林組合は森林所有者者等を組合員としていますが、実際に林業を担う組合員比率がかなり低い状態で、森林管理を担う権限もなければ担うだけの力量があるところは希でしょうか。

 

余談が長くなりました。毎日の朝刊記事<森健の現代をみる被災地の漁業の現状 今回のゲスト 濱田武士さん>では、<日本の漁業は高齢化と資源減少などで危機に直面してきた。さらに東日本大震災により被災地の漁業は大きな被害を受けた。どこまで復興したのか。課題は何か。震災直後から被災者を取材している森健さんが、被災地の漁業に精通する濱田武士・北海学園大(札幌市)教授と議論した。【構成・栗原俊雄、撮影・宮本明登】>と大災害に襲われた地域での漁業の復興如何を取り上げています。

 

<国は、基本的には農林漁業を税金がとれる産業に育てたい。だから漁業の近代化政策を進めるとともに、漁業経営を従来の個人事業型から企業型に転換するよう誘導してきました。>

 

そこでは、国の姿勢が問われています。震災前から始まり、震災後は顕著になった漁業の生産性向上という名の企業経営化です。これは昨今の法改正や新法で見られる経営管理の強化策と一次産業共通のテーマかもしれません。

 

原発被害のあった福島の漁場では今なお厳しい状態であることはよく指摘されているところですが、それ以外の地域について、国のハード面での施策が紹介されています。

 

<ハード面、漁港などはそうですね。漁業も、水産加工も、港と市場が使えなければ事業が成り立ちません。水産都市経済の拠点です。復興で第一にやるべきはそこの再開でした。特に水産加工業者は、再開が遅れるだけ売り先を失いますから。岩手県は「市場を核に復興」を方針とし、順当に市場と漁港区の復旧をまず進めました>と。

 

他方で、<宮城県は水産業復興特区や漁港集約化を復興の目玉にしたため復旧の出足が遅く、混乱しました。><漁協と宮城県知事の対立になり、メディアのネタになりました。その中で漁業権が漁協に優先的に付与されていること、それが企業の参入障壁になっていることなどが批判的に報じられました。「みんなの海を漁協が占拠している」といったように。>

 

この記事を読んで、あの場面が思い出されました。当時、復興担当相に就任したばかりの松本 龍氏が岩手県知事、宮城県知事と続けて会談したときの発言が問題になり、彼は辞任しましたね。そのときのとくに宮城県知事に対する発言が放映されたのを見て驚きました。とくに<「お客さんが来る時は、自分が入ってからお客さんを呼べ。」>とか。そのときはひどいと思いつつ、漁協との対立、その声を無視したような知事の対応を問題にした発言はなぜかあまり問題にされなかったように思うのです。

 

上記と同じウィキペディアの<松本龍>では<「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと、我々は何もしないぞ。ちゃんとやれ。」(被災した漁港を集約するという県独自の計画に対して)>という点は、松本氏がきちんと地元漁業の聞き取りをしていて県の対応に問題があること、それに強い憤怒の気持ちがあったのではないかとも思われるのです。

 

松本氏は、全国を率いた祖父の意思を継いで差別された人たちへの強い気持ちがあって政治家として活動してきたように思えますし、前年の環境大臣の時は名古屋市で開催された第10回生物多様性条約締約国会議では、議長として見事に立ち回り、名古屋議定書の採択を成し遂げており、当時TVでの発言などなかなかと思っていましたので、被災知事に対する発言には違和感を抱きつつも、漁業者への熱い思いの表れであったようにも思った記憶です

 

特区構想に反対する漁協について、性悪説が広がったのですかね、松本氏もその仲間とみられたのでしょうか。

 

この点、ゲストの濱田武士氏は、<漁協は漁民が出資し、運営する法人組織です。漁民と別物と認識されて、漁協が中間搾取団体であるかのような誤解があります。他の業界同様の問題を抱える組合もありますが、全体としては漁村が健全に維持、発展するための組織です。>と漁協が担ってきた役割を高く評価しています。

 

私は以前、いくつかの漁協を相手に交渉したことがありますが(実際は漁協の代理人弁護士ですけど)、すべての漁協が適切な漁業管理を行っているとは限らないとの思いがあります。といって、濱田氏の見解に一般論としては異論ありません。私の友人というか昔の勉強仲間で長く漁業権問題に携わってきたある教授は国との関係ではとくに濱田氏と同じような考えをしっかりもっていますね。

 

漁業も構成員である漁民がしっかりすれば、いい組織になれると思うのです。その意味で、濱田氏が最後に<エネルギッシュな若い人たちがにょきにょき出てきました。全国の過疎地で新しい人たちのうねりが出てきた気がします。それは大震災がきっかけになったのかな、とも思います。ただそういう人たちだって万事うまくいかない。ぜひ、そのエネルギーを我々の社会が吸収し、また政策的に支える仕組みが必要ですね。>というのは、期待できますし、どのような制度設計を考えているのか聞いてみたいですね。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


地域インフラの行方 <みずほFG QR決済混戦><地銀 地域に活気><24時間コンビニ、転機>などを読みながら

2019-02-22 | 地域力と多様な価値

190222 地域インフラの行方 <みずほFG QR決済混戦><地銀 地域に活気><24時間コンビニ、転機>などを読みながら

 

成年後見の仕事をしていると定期的に銀行を訪れますが、窓口は昔に比べ空いている印象です。私自身の銀行利用は基本、インターネットバンキングですので、滅多に行くことがありません。昔、首都圏で仕事をしているとき、シティバンクを利用していましたが、ここも銀行を訪れる必要がないシステムになっていました。90年代北米でそういう生活をしていましたので、シティバンクのやり方は結構私には具合よかったように思います。他方で、当時は都銀・地銀でもそういうスタイルではなかったのですが、最近はネットバンキング利用増やキャッシュレス化で、銀行の地域における位置づけ、機能も変わってきたように思います。

 

といっても私のキャッシュレス化は限定的で、流行のQR決済には手を出していません。221日毎日記事<みずほFGQR決済混戦 参入「Jコイン」 60地銀参加、アリペイ加盟店でも>では、ついにメガバンクみずほも参入したようで、支店やATMの思い切った整理をしている中で当然のことかもしれません。キャッシュレス化参入は他のメガバンクも始めているようですが、その結果、決済情報を集約して次の新しいサービス事業を展開しようと、まるでGAfaなみの情報争奪戦でしょうか。それで地域に暮らす人たちの生活がどう改善するのか、そのアイデアが今のところ見えてきません。個々の消費者の消費・嗜好の動向はデータ蓄積・分析で割り出すことができる?かもしれませんが、地域社会というものが形成されないと、心豊かな生活を実感できなくなるかもしれません。

 

その点、今朝の毎日記事<地銀地域に活気、後押し レストラン・就活カフェ・保育所…空きスペース、活用広がる>では、地銀らしい地道な発想での浮いたスペースの活用が提案されていることが紹介されています。

 

<銀行店舗の空きスペースを外部に開放する取り組みが地方金融機関を中心に広がっている。インターネットバンキングの普及などで来店客数が減少する中、一等地に位置する銀行店舗の空きスペースを有効活用することで街のにぎわいや来店者の増加につなげるのが狙いだ。【久野洋、鳴海崇】>

 

店舗の閉鎖といった思い切った措置もときには必要かもしれませんが、有効活用することもこれからの銀行のあり方の一つかもしれません。

 

ここでは空きスペースを使って、<山口銀行が同県長門市の油谷(ゆや)支店に地元食材を使ったスペイン料理店を開設>とか、<みなと銀行(神戸市)は就活支援会社と提携し、飲料や公衆無線LANを無料で利用できる大学生専用のカフェを神戸市内の学園都市支店に併設>とか、<世田谷信用金庫は東京都世田谷区の船橋支店の3階を認可保育所の分園に使ってもらっている>とか、いろいろ取り組み例が紹介されています。

 

金融機関は元々、利用者が集まりやすいところに店舗を配置していますので、従来の預金取引機能に代わって(そういうと言い過ぎですが、その一部をでしょうか)、地域の需要に応じた新たな機能を持った場所として活用してもらえば、地域のある種公益的な機能を代替できる可能性を秘めているでしょう。むろん慣行農法のように、慣行金融を旨とする金融機関に、無理矢理、そういった機能を押しつけても、結果は逆効果となる可能性がありますね。

 

<金融庁は2017年9月、中小や地域の金融機関が所有する不動産について、公共利用される場合は柔軟に貸し出すことができるよう監督指針を改正。>したことは是とされるかもしれませんが、問題はどのような<公共利用」が地域に求められているか、そして具体的なスペース活用法が地域のニーズにあっているかは、ある種丁寧な市場調査や民意の反映を工夫する必要があるでしょうね。金融庁の監督指針を読んでいませんが、はたして相違点について配慮があるのか少し心配です。

 

他方で、商店街の空き店舗問題が累積している現状をも検討されるべきでしょう。当該空きスペースが一つ単独で公共目的に整合していたとしても、周辺の空き店舗、空きスペースに効果的な影響を与えないものだとすると、それは差し引きして然るべきかもしれません。

 

そんな空きスペース問題が頭をよぎっていると、毎日記事<クローズアップ2019 24時間コンビニ、転機 短縮営業で対立 加盟店、人手不足不採算/セブン、顧客のため必要>も気になりました。

 

コンビニの24時間営業はたしかに便利かもしれません。でもほんとうにそうでしょうか。私自身は夜間出かけることもないので、必要性を感じませんが、夜間利用者にとっては可欠かせない存在かなとも思ってみていました。ところが記事では次の調査が紹介されています。

 

<ヤフーが消費者を対象に今月19日から行っているインターネット調査の21日時点の集計では、回答者の9割以上が「24時間営業は減らしてもかまわない」と回答している。>この比率は消費者の意識の変化でしょうか。まあ、この調査だけで結論づけるのは拙速でしょうけど、これだけ各地というか、至る所にコンビニがあると、24時間いつも営業していないと不便とまで思わなくなっているのかもしれません。

 

他方で、コンビニ経営者にとって24時間営業は、過重労働で健康・命の危機にさらされているだけでなく、強盗被害のおそれもつきまとっていますね。すでにコンビニも、ファミマやローソンは加盟店との協議で対応を決めるとなっているようですね(実態はどうかは調べないとなんとも言えませんが)。他方でセブンイレブンはなにか強行というか、固持しすぎるようにも見えます。

 

将来、外国人労働者受け入れ、ロボット導入、AI化、さらに無人化の動きが見える中で、人手不足の問題はいずれ解消するのかもしれません?でもそのようなコンビニはますます社会インフラとして何かを失っていくことになりませんかね。

 

コンビニはわずかの間で、さまざまな機能を担うスーパーサービス店舗として、地域にとってなくてはならないものになりつつあるかのように思います。しかし、他方で、そうであればあるほど、ゆとりスペースをもつなど、機械化、効率化した空間に、彩りを備えて欲しいと思うのはいらぬおっせかいでしょうかね。

 

ちょうど一時間となりました。きょうはこれでおしまい。また明日。

 


いじめと自死を考える <大津中2自殺 いじめとの因果関係認定>などを読みながら

2019-02-21 | 教育 学校 社会

190221 いじめと自死を考える <大津中2自殺 いじめとの因果関係認定>などを読みながら

 

弁護士という仕事をしていると、関係する人の話がどこまで本当かいつも意識しながら、なにか客観的な資料はないか、その内容との整合性があるかを模索します。それでもその資料を見つけるのも一苦労です。

 

たとえば家人から亡くなった人の通帳など見たことがないなんて言われると、とりあえずはそうですかと聞き置くのですね。いろいろ雑談をしているときちょっとぽろっと出たことばを便りに、ある銀行の窓口に行き取引履歴や払戻請求書を確認するのです。亡くなった後誰かが引き出しているのが分かったり、その請求書が個人の筆跡と違うといったこともわかったりすると残念な思いになりますが、そんなものかと思うのです。また年金を受給の有無などを年金事務所に行って問い合わせれば、支給額も支給先口座も分かります。ないはずの銀行口座が次々とでてくることもあります。

 

むろん人の認識は完全なものではないので、記憶違いがあったり、そもそも誤認している場合もありますので、嘘とはなかなか決めつけられないこともあります。そういった事実の調査はやっかいなことが多いですが、とりわけ取引(これまたゴーン事件のように簡単というわけではないですが)以外のあらゆる行為の有無・内容は事実を把握するのは容易でないことが多いです。表題のいじめの有無と自死への予見可能性となると、事実認識も大変ですが、予見可能性となるより困難となるでしょう。しかもいずれも一定の規範的な評価が含まれるので、やっかいでしょうね。

 

そのむずかしい問題を昨日は避けて、今日も別の話題にしようかと思ったのですが、少し気になっていましたので、えいやと取り上げることにしました。

 

昨日の毎日朝刊は大きく取り上げていました。まず<大津中2自殺 いじめとの因果関係認定 元同級生側2人に賠償命じる>では、<大津市で2011年、市立中学2年の男子生徒(当時13歳)が自殺したのはいじめが原因だとして、遺族が当時の同級生3人と保護者に計約3850万円の損害賠償を求めた訴訟で、大津地裁は19日、いじめ行為と自殺との因果関係を認め、元同級生2人に、請求のほぼ全額となる計約3750万円の支払いを命じた。>

 

しかも興味深いことに<西岡繁靖裁判長は「生徒の自殺の主たる原因は、2人の元同級生の行為にあったと優に認められる」と判断した。>とより積極的な判示となっていることに驚きました。判決をどうこう言う場合最低でも判決文を読んだ上でと思うのですが、それは少し後になりそうですので(昔の雑誌だけの時代に比べて最近はすごく早くなったと思いますがそれでも数ヶ月以上先でしょうか、関係弁護団とコネがあれば即入手可能でしょうけど)、とりあえず記事だけで中途半端な意見を述べておこうかと思います。

 

記事によれば、主要な争点が3点となっています。第一は、被告の行為として数々の非道な内容が原告から主張されていましたが、まずそれら行為の有無、評価、第二にその行為と自殺との因果関係の有無、第三に自殺の予見可能性の有無です。

 

私は一般的には、いずれも原告側にとって難しい壁だと思いますが、とりわけ第二、第三は厳しいと思っています。

 

ところが、本件では第三者委員会の調査報告で第一、第二について詳細な調査の上で積極的な認定があったようです(この報告書を見ていないのでいい加減な表現となります)。

 

判決文はどうやら<市が設置した第三者調査委員会も2人の行為を「いじめ」と認定し、「重篤ないじめ行為は、自死につながる直接的要因になった」としており、この判断をほぼ踏襲する形となった。>と報道には見られたようです。

 

ところで、判決が認めたいじめ行為ですが、相当亡くなった少年には自殺を余儀なくするほど深刻なものであったとされています。

<判決は、自殺の約1カ月前から2人の暴力などの行為がエスカレートし、生徒との間に「いじる」側と「いじられる」側という役割の固定化を生じさせたと指摘。連日顔を殴ったり、蜂の死骸を食べさせようとしたりした行為の積み重ねが、生徒に孤立感や無価値感を形成させたと認定した。>

 

その被害少年の状態について、判決は<この関係が今後も継続するとの無力感、絶望感につながり、死にたいと願う気持ち「希死念慮」を抱かせたと言及。>という特殊な用語を使って説明しています。

 

さらに予見可能性について、<こうした心理に至った人が自殺に及ぶことは「一般に予見可能」とし、2人の加害行為と自殺との間に相当因果関係が認められると結論付けた。>と記事では因果関係と予見可能性を同視するかのような記述になっていますので、それは判決文で丁寧に見ておかないといけないでしょうね。

 

被告側は、いじめの事実を否定してそこに主力をおいて争ったようで、当然、因果関係についても結果の前提たる行為がないという争い方をしたり、いじめがないから予見可能性もないと言った、第二、第三の争点を一見、軽く見たかのような記事上の争点整理となっています。

 

ただ、普通は原告主張のいじめが合った場合の予備的な備えもして争うのですが、判決文が指摘するような「希死念慮」といった状態をきちんと議論したのかどうか、気になるところです。

 

もし十分な議論がされていないとすると、被告側としては第二、第三の争点をより強力に主張して控訴審で争う可能性があるでしょうか。

 

私自身、事実関係がわかっていないものの(これが問題であることを承知しつつ)、ある程度良好な関係であった少年たちが約1ヶ月の間に、一方が「希死念慮」の状態に陥ることを他方が、しかも大勢が関与しているとき本当にその結果として自殺するに至ることまで予見可能であったかといえば、疑念が残ります。

 

子どもたちの関係は(大人でもありえますが)、いつ急変し急激に悪化することは一般論としては肯くことができます。しかしそれが自殺に追いやるほどの状態(相当因果関係としても状況によってはあり得ると思うのです)であることを中2の少年が予見可能であったとすることには少し違和感を感じています(それは事実をしっかり見ていないからといわればそれに反対できません)。

 

ただ、別の記事<大津・中2自殺いじめ損賠訴訟 「暴行、絶望感抱かせた」 裁判長説明、父は涙>で指摘されているように、<「元同級生2人の暴行は孤立感、無価値感、無力感、絶望感を男子生徒に抱かせた」。・・・西岡裁判長は主文の後、生徒の父親に語りかけるかのように5分以上、理由を述べ、父親は閉廷後も涙を抑えきれずにいた。>ということは評価してよいかと思うのです。

 

この事件が大きく注目されていること、学校を舞台にいじめがあったが争われ、しかも突然、幼い息子が自殺し、一時はだれも責任が問われない状態でその親がさまざまな意見に晒されながらも長い間事実と責任を追及していたことを踏まえて、裁判長が口頭で理由を述べたのはよかったと思います。もっと多くの事件でやって欲しいですが。

 

他方で、気になったのは、少年2人の予見可能性を認めながら、その保護責任者の監督責任を安易に否定しているように見えて、少年と親とでバランスがどうかも気になりました。

 

賠償責任を認めたとしても、少年の場合どれだけ賠償能力と意識があるか懸念されます。

 

親であれば、なんらかのちょっとした異変があれば(このアンテナが大事でしょうけど)、子がいじめられていないか、あるいは子がいじめていないか、両面でしっかり子と対峙し、また担任教師などにもうわべだけの報告を鵜呑みにすることなく調べることが必要ではないでしょうか。それは子の友達や保護者からも情報を得たり、被害者とされる子の情報があれば、その保護者となんらかの形で話し合うことも一つの方法として検討されることではないでしょうか。

 

こういったいじめや虐待の発覚が増えてきたことなどを踏まえ、弁護士の学校派遣などの制度化を検討しているようですが、それ自体を問題視するつもりはないものの、それで解決するような状況ではないように思うのです。弁護士一人でなにかを対処するというのは一面的な法的解決の話ではすまないのではないでしょうか。いじめの背景をしっかり掘り下げる必要があるでしょう。やんでいるのはいじめを受ける少年少女だけではないでしょう。加害少年やその家族も、また過重労働に追いやられている教師も。福祉関係者、精神的なケア、さまざまな支援体制が必要でしょう。

 

と最後は中途半端になることを承知しながら、つい書き出してしまいました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


190220 枯山水の秘技 <NHKおはよう日本 日本庭園驚異の技術>を見て+<産廃不法投棄><京都市が適法>

2019-02-20 | ものの見方・考え方

190220 枯山水の秘技 <NHKおはよう日本 日本庭園驚異の技術>を見て+<産廃不法投棄><京都市が適法>

 

京都を訪れたのは何年前でしょうか、もう20年以上は行ったことがないような記憶です。まあ京都に滞在しあちこちと散策していたのは40年前ですので、どのお寺塔頭を訪れたかも記憶が曖昧です。

 

今朝のNHHKおはよう日本では、日本庭園・秘められた技術ということで、相国寺と真如寺が紹介されました。いずれも訪れたことがあるようなないような曖昧さですが、なんとなくなつかしく感じながら見ました。枯山水の庭園です。人が大勢訪れる時期や時間帯を避け、のんびりと佇む機会をねらってあちこちの寺社仏閣を訪れたものです。その中に枯山水に魅了された一人でした。

 

ところが、NHKが取り上げたのはその枯山水の禅的な風情というか神髄とは少し次元の異なる隠された高度な技術でした。

 

枯山水ですから、雨の日に行っても、水が貯まっているといったことほぼ見ることがないでしょう。でも豪雨のときは?たいていの人は外出も避けますね。ましてやお寺を見学するような人は希というかほとんどいないでしょう。そこに隠れた秘密がかくされていたのですね。

 

相国寺の場合は枯山水の庭全体で大雨が降っても累積で850mmまで排水能力があるとのことだったと思います。他の用事をしながら見ていましたので、排水構造も説明していたと思うのですが聞き逃しました。たしか鴨川の砂礫を下部に敷き詰めているとか、そういった透水性に配慮した構造にしているとかの話だったと思います。

 

もう一つ、真如寺の場合、小さな溝が帯のように庭の一部になっていますが、大雨になるとそこが川水のように貯められ、小さなダム機能をもたすようになっているそうです。

 

前者の排水構造と、後者の堰止め湖構造とは、両立するものではないかと思います。いずれも二つの構造・機能をもっているのではと思うのです。

 

枯山水の神髄が禅的世界を示すと行ったことだけでなく、京都の地形の脆弱性を補う現実的な貯水・排水機能をも考えた高度な土木技術の成果であったとは驚きであるとともに、当然かなとも思うのです。

 

鴨川の氾濫は平安時代から頻繁に起こっていたわけですから、その氾濫源ともいうべき場所に境内をつくる以上、洪水対策をしっかり念頭において設計施工されたのでしょうね。

 

相国寺は夢窓疎石、真如寺は無学祖元が開山で、当時の最高レベルの臨済宗僧でしょうから、中国の最高レベルの土木技術をももっていたのでしょう。いずれも京都だけでなく当時の中心地・鎌倉の寺でも大きな足跡を残していますね。

 

枯山水という表面的な?景観だけを見て理解した気分でいると、当時の本当の技術の妙を見落とすことになることを示唆する報道でした。それは新たな開発をするときに肝に銘じておかなければならない風土の故事来歴を知り、それを踏まえることと言う基本を教えてくれているようにも思うのです。

 

話は飛びますが、いまちょうど澤田瞳子著『若冲』を読んでいて、若冲がいろんな煩悩をかかえつつも、「動植綵絵(サイエ)30幅などを<相国寺>に寄進するところにさしかかったところでした。若冲人気が高まっていますが、私自身その精緻な筆さばきに驚きつつも、その趣が理解できているわけではないので、この書を読みながら少しは近づけるかと期待しているところです。

 

若冲が相国寺枯山水にどういう思いをもったかは分かりませんが(どうも彼の画風とは相容れない?ような気がするのは皮相な見方でしょうけど)、いずれにしても枯山水にかけた禅僧の高い精神性と真摯な技術力には驚かされます。

 

再び飛躍する話ですが、隠れた技術といってもこれはいけません。今朝の毎日記事<廃棄物処理法違反 産廃、宅地造成流用疑い 埋め立て用販売 京都の業者逮捕>では、<建設現場や解体現場の廃棄物にはプラスチック類やがれき類、金属、ガラス、紙のくずなどが混在する。今回、不法投棄が疑われるのは、この選別処理過程で「ふるい」にかけられた後に残る「ふるい下残渣」。・・・ 逮捕容疑は同社の汚泥処理施設で2016年9月~18年4月、許可されていないふるい下残渣473トンを混ぜて固化処理し、その残渣と汚泥の混合処理物162トンを滋賀県内の2カ所に捨てたとしている。>

 

産廃を「再資源化」した資材として有価物として販売して不法投棄していたようです。

<府警によると、平山容疑者は土地造成の埋め立て資材として取引業者に10トン車1台あたり500円で購入させていた。府警は正規の処分に必要な700万円以上の費用を免れたとみている。>

 

産廃の適正な監視システムがなかなか確立しないことで、こういった不法投棄がなくならないのも困ったことです。枯山水のような高い精神性をもって事に当たってもらいたいものです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

補足

 

帰宅して夕刊を見たら、毎日記事<「残渣」不法産廃 京都市「適法」 逮捕の業者廃棄物「再生砂」>とありました。京都府警が不法とした行為について、京都市は適法と表明しているようです。

 

記事は<産業廃棄物とされる「残渣(ざんさ)」について、同市は「産廃ではない」として、投棄につながる再利用を認めていた。>として、次のように京都市の見解を示しています。

 

<京都市は同社が汚泥に混ぜたのは「ふるい下残渣」でなく、選別処理し有価物となった「再生砂」だとする。粒子の大きさは5ミリ以下の基準を設け、がれきや木くずなどの割合も5%以下だったとの見解だ。>

 

これに対し、府警の方は<残渣は粒子が細かく土砂に見えるが、府警は埋設物を掘り起こし、がれき類や陶磁器くず、木くずなどが混じっているのを確認した。同社が固化処理したものを土地造成の埋め立て資材として売っていたとみており、捜査関係者は「廃棄物を有価物に偽装するマジックだ。>

 

選別基準や割合比率が産廃かどうかの判断として妥当なものかが問われるのでしょうか。

 

他方で、京都市が府警に疑問を投げかけるのは、<市廃棄物指導課は「週2回の立ち会い検査を実施し、専門機関のサンプル調査でも問題なかった。>としっかりした検査実態をふまえたもののようです。

 

たしかに京都市の対応はそれなりに合理性がうかがえそうです。とはいうものの、週2回も立会検査を実施と聞くと、なぜそんなにするのということと、それ当然抜き打ちではないでしょうねと思うのです。しかもその立会検査がその日の営業時間のすべてとか、作業すべてを検査しているというのは考えにくいでしょうね。当然、事前通知して立ち会うのかなと予想できるのですが(実際は確認しないといけませんが)、そうだとするとその立会に合わせてサンプルを用意することは可能ですね。

 

京都市としては、現場の対応を鵜呑みにすることなく、改めて検査の実態をつぶさにチェックすることが肝要ではないでしょうか。大阪市水道局の事例は同じではありませんが、行政としては他山の石として、これまでの行政検査を見直すくらいの検討はしてもらいたいものです。

 


競争と人間の愚かさ <発掘・戦禍の証し 全国最悪の空襲>などを読みながら

2019-02-19 | 戦争・安全保障・人と国家

190219 競争と人間の愚かさ <発掘・戦禍の証し 全国最悪の空襲>などを読みながら

 

今日は終日雨でした。雨の中を歩くのはやっかいなことかもしれません。雨に濡れると寒さもあり嫌な気分になるかもしれません。幸い私の場合自宅・事務所の間ほとんど雨に濡れることがなく、そういった気持ちなることもなく過ごせます。それでも出かける前、事務所から持ち帰った枯れかかった花を庭に植えるときは小雨に濡れました。花にとってはちょうどよいお湿りかなと思いながら、土の中にいくつかの花を入れました。雨景色が好きといっても、実際ずぶ濡れになると、沿うも言って折れませんね。

 

歌川広重の「東海道五十三次之内 庄野 白雨」なんかを見ていると、すてきだなとおもうのですが、描かれた人たちはどうだったでしょう。

 

ところで今日も打ち合わせなどが続き多少忙しくしていたのですが、ちょうど時間が合ってぼんやりしていたとき、突然、昔の仲間から電話があり、長話となりました。仲間と言っても30年前、日弁連熱帯林調査に参加したニューフェイスでした。まだ学生風なかんじで独特な雰囲気をもった女性でしたが、いまではベテランとして活躍してるのだと思います。

 

私がブログ三昧の生活?をしている様子を聞いてくれまして、高齢者のちょうどよい聞き役を演じてくれ、楽しい時間となりました。そういえばZeroトイレ・イノベーターの友人の話も長いですが、この場合は私が聞き役です。

 

さて6時も過ぎてしまいましたので、そろそろ本題に入ります。

 

今朝の毎日記事<発掘・戦禍の証し全国最悪の空襲 1945年8月2日(富山市) 一夜で消えた町の99.5%>は驚くべき内容であると同時、いろいろと連想ゲームが始まりました。

 

富山市といえば最近は、コンパクトシティ構想とかLRTとか、ヨーロッパで繰り広げられている先進例を導入する取り組みをする一方で、議員の不祥事も次々と露呈されて少し話題になっています。

 

その富山市が194582日、<一夜で消えた町の99.5%>というのですから、仰天です。東京大空襲や大阪など大都市が次々と空襲で破壊されたことはよく知られたじじつですが、記事で紹介された<主な被災都市の破壊率>でいえば、比率の最上位である神戸、和歌山、東京がいずれも50%台にとどまる中、富山市の例は異常です。

 

しかもこの比率以上に問題がありました。<不二越などの軍需工場は全く被害を受けなかった。戦後長い間、被災者は「軍需工場への空爆の巻き添えだった」と思っていた。しかし、空爆は当初から住宅地を標的にしたものだったことが明らかになった。>

 

米軍の攻撃はあくまで住宅地、一般人を狙い撃ちしたものであったのです。そんな非道があるか、そんなことは信じられないと思うかもしれません。しかし、<米陸軍航空軍史では「富山空襲は想像を絶する99・5%」と特記していることからも破壊率の高さがうかがえる。>

 

これを読みながら、私にも突然、思い出すことがありました。当地には陵山古墳というまるで天皇陵かと早合点しそうな名称の古墳があります。そこを訪ねたとき、その手前に橋本駅米軍艦載機による犠牲者追悼の碑が立っているのに気づきました。そこに絵が描かれてあって艦載機2機が田舎の駅舎に向かって攻撃している図です。犠牲者は6名の方です。むろん軍人とか、軍需工場などを狙った物ではないことは明らかです。和歌山市空襲は有名ですが、その東方には紀ノ川沿いにのどかな田園地帯がひろがるのみで、そこを2機の艦載機がなぜ飛んでいったのでしょう。

 

当時、アメリカ軍、とくに陸軍とその一組織に位置づけられていた航空軍は、日本を敗戦に追いやるために競い合っていたのです。陸軍はマンハッタン計画で、原子爆弾開発を進め、7月から8月にかけて何が何でも投下して多大の被害を与えて莫大な費用を投じた成果を示そうとしていました。他方で、航空軍は、空襲による被害の戦禍をあげつつも、軍需施設を狙うだけでは成功率が十分でなく、また敗戦に追い込むだけの実績をあげれず、このままでは空軍の独立が危ういと焦っていたと思われます。

 

お互いが競い合っていたのだと思います。むろん競争相手はいくつもあったでしょうけど、少なくとも陸軍内の競争は過熱していたと思われます。そこには人命とか人の生活、家族の一生といったことは念頭になかったと思います。どれだけの被災人数、棟数、規模であったかという数字の争いであったのではないかと思うのです。

 

ですから、そのような航空軍のパイロットが、たった2機で自由に橋本まで飛んできて、勝手に掃射してもおとがめもなかったのでしょう。あるいは戦果として報告されたのでしょうか。そうであればなんのルールもなかったといわれても仕方がないですね。

 

その競争の頂点は広島・長崎の原爆投下ですが、わずか数日前、それを予期した航空軍が少しでも戦果をあげようと無謀・非道というべき富山市壊滅空襲をあえて行ったのでしょう。それは単に軍事競争に過ぎない、でもそれが競争のなれの果てでしょう。

 

いままた米ソが軍事競争を再開しようとしています。背後に軍事産業や戦争商人が支えているのでしょうけど。

 

それは他方で、資本主義であれば当然の結果だと語る人もいるようですが、先日見たNHK番組では、新自由主義を唱えたハイエクも、はたまた見えざる手を訴え市場の自由を訴えた経済学の父?アダム・スミスも、野放しの自由ではないというのです。そういった自由な競争がもたらす多大な負の影響を熟知していて、そのコントロールを指摘していたというものであったかと思います。

 

自由や競争は人類が勝ち得た重要で基本的な価値ですが、そこに大事な、社会や世界にとって守らなければならない一線があるのだと思うのです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。