ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

ブログでトグロ巻きR その7 電力会社の労働組合は、本当に「労働組合」なのか?

2016-04-20 17:44:58 | ブログでトグロ巻きR
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新潟地震を覚えています

 熊本大地震が収束しません。多くの人々が未だに避難生活を余儀なくされ、車中泊によるエコノミークラス症候群で亡くなる方も出ています。しかも、九州の活断層を横断するように震源が移動し、気象庁も「今後どうなるかわからない」という始末。本当に大変なことになってしまった、と思います。
 私は、2歳9か月のときに新潟地震を経験しました。そんな幼児の頃の記憶などないだろう、と思われるかもしれませんが、実は、今でも鮮明に記憶しています。そのころ私は、今で言う新潟市東区の上木戸に住んでいました。祖母と一緒に庭先にいた昼下がりに、激しい揺れが来ました。私は一人では立っていられず、祖母にしがみつきながら泣き叫んでいたように思います。地震が収まってからも、玄関を開けると、当時の上木戸は田畑が広がり、人家もほとんどなかったため、昭和石油の石油貯蔵タンクが爆発・炎上した、その黒く巨大なキノコ雲がそのまま見えていました。忘れようとしても忘れられない「思い出」の一つです。

震源近くにある原発を心配するのは当然ですが

 で、九州の大地震です。今回の地震は、いわゆる「中央構造線」沿いの活断層が連続的に動いて引き起こされたようです。その北東側には伊方原発が、南西側には川内原発があります。こういう大地震が原発の近くで発生した以上、少なくとも地震が収束するまでは稼働をやめるべきだ、という声が上がっているのは至極当然です(そういう声に対し、いわゆる「ネット右翼」というか現政権支持者と思しき「ネット住民」たちは、「地震をすぐに原発と絡めるのは、サヨクの政治利用でけしからん」とか「原発の電気がなくなったら復旧もできないではないか」などと口汚く罵っていますが、地震の震源域との距離を考えれば、原発を心配しない方がおかしい、と思うのですがねえ)。

「原発は地震にも耐えられる」と考えるのは、楽天主義にもほどがある

 そもそも、今回の地震があろうがなかろうが、5年前の東日本大震災による福島第一原発の破局事故を経験してしまった私たちは、原発という物件は、一度事故を起こしてしまったら取り返しのつかない事態が半永久的に続く、ということを学んだはずです。
「ネット右翼」(の方たちは、自らを「ごく普通の市民です」と言っています。あんな「普通の市民」いるかい?)をはじめとする、現政権を熱く支持しているらしい皆さんは、福島第一原発の事故については、「あれは津波のせいで壊れたのであって、地震には耐えている」と主張し、「だから川内も伊方も大丈夫だ」となるわけですが、データ分析等により「おそらく地震で壊れていたはずだ」と考える学者も大勢いますから、日本の原発はどんな地震にも耐えられる、と主張するのは、はっきり言ってものすごい楽天主義であろう、と心配性な私などは思います。
 だいたい、仮に事故が(運よく)起きなかったとしても、そのうち必ず廃炉にしなければならないときが来ます。ウランやプルトニウムを「燃やした」あとの高レベル放射性廃棄物や様々の低レベル放射性廃棄物の処理方法も決まっていませんし、処理できるのかどうかがそもそも疑問です。後始末の問題が全く解決されていない、「トイレなきマンション」と揶揄されている所以です。そういう問題を、現に今原発を稼働させ、その電力を享受している私たちではなく、遠い未来の子孫に押しつけて平気、というのは、歴史というものをあまりに侮った振る舞いではないか、と思います。

「死ぬかも知れない仕事」を組合員に強要する電力会社の労働組合は、果たして「労働組合」と言えるのか?

 そんな原発の運転や維持管理を担っているのは、沖縄電力を除く各電力会社の社員やその下請けの労働者なわけです。電力会社には、それぞれ大変大きく有力な労働組合があります。
 労働組合の一義的な存在意義は、労働者の権利を守り発展させる、ということです。具体的には、組合員が物質的・精神的な「豊かさ」を感じられる生活を享受できる賃金や、健康で文化的な生活を営める労働条件を経営側・理事者側に保障させる、というのが仕事です。経営側や社会・政治との距離の取り方は組合によってずいぶん異なるのも事実ですが、基本的に、どの労働組合も、労働者の生命と生活を守り、そのことで社会に貢献する、という目標については共通していると思っています。私も、現在を含めて三つ「正職員」の仕事をしてきましたが、必ず労働組合には入っていました。それは、上記のような労働組合の意義を積極的に認めているからです。私たちの社会を形成する人々の大多数は労働者ですから、そういう労働組合運動が、ひいては社会全体の幸福を担って行く力になる、とも思っています。
 とすると、電力会社の労働組合は、果たして私の思う労働組合なのか、という疑問が、ふつふつと湧いてくるのです。
 だって、彼らは社員や下請け労働者、そして市民の命を守ろうとしてないんだもん
 場合によっては死んでしまうかもしれない任務に就きなさい、と構成員に命令できる(してしまう)組織というのは、軍隊・警察、もしくは暴力団組織や、ショッカーなどの悪の秘密結社くらいでしょう。しかし、電力会社の労働組合は、原発推進という会社の方針をそのまま丸呑みし、たとえばメーデーで私たちが「原発反対」とコールしてデモ行進しているその後ろで「原発推進」と叫んでいるような組織です(統一メーデーとなった近年は、お互い自粛しているようですが)。それはつまり、組合が組合員に対し、「場合によっては死ぬこともある、いや、おそらくかなりの確率で死ぬ仕事をしなさい」と言っているも同然だ、と私は考えます。そういう意味で電力会社の組合は、経営側と一体化して、高い給料は保障するから、その引き替えに命を差し出せ、と社員に要求する組織だ、と言われてもしかたないのではないでしょうか(これは言い過ぎかな)。

「死」が前提の仕事を認める労働組合はありえない

 もちろん、命の危険のある仕事はこの社会にいくらでもあります。高所作業や大規模土木工事、鉱山労働などは常に危険と隣り合わせです。しかし、これらの危険業務と原発労働とでは決定的な違いがあります。原発労働以外の危険労働については、安全対策の徹底によって、危険度は相当に軽減されます。強風や地盤の崩壊等で危険すぎる場合は、そもそも作業をさせることはないでしょう。だいたい、「放射能」などという得体の知れないものにさらされることはほとんどありません。
 では、原発はどうでしょう。「安全」に稼働している状況でも、放射性物質を取り扱っている以上、ちょっとした事故で放射線が漏れ出している事故は枚挙にいとまがありません。さらに、福島第一原発のような破局事故が起こったらどうでしょう。原発が壊れてしまったら、放射線被害は逃れることができません。「安全対策」などできるわけがないのです。でも、社員のみなさんは、原発を稼働させているという会社の責任を、社員として背負わなければなりません。まさか組合員ではなくなった管理職だけでその収束作業を行うわけはありません。軍隊と同様に、エライ人は安全なところで「何とかしろ」と命令し、現場の社員が放射能まみれの危険な現場で働かざるを得なくなるでしょう。当然、被曝その他のひどい目に遭い、命を失う社員も出てしまうことでしょう。ついでに言えば、原発事故に巻き込まれてしまった多くの市民も、命や生活を奪われてしまう、ということにもなるわけです
 そういう原発を、国や経営側と一体となって「推進する」といってしまう「労働組合」というのは、論理的にも倫理的にもあり得ないのではないでしょうか。組合員の命を守れない(守る気がそもそもない)、市民の命や生活をを守る意志がない組合が「労働組合」を名乗ること自体、全くちゃんちゃらおかしい、と私は思います。
 とまあ、このようなことを書いてしまいましたが、これは、電力労組も変わってほしいからなのです。電力労組の中にも、私たちと同様の問題意識をお持ちの組合員はきっといると私は思っています。おそらく社内的な事情で、そういう声を上げることは相当困難なのだと推察していますが、それでも、そういう組合員が声を上げてくださることで、電力労組のあり方が多少なりとも変わり、真の意味での「労働組合」に近づいてくれるのではないか、と思うのです。次の原発破局事故が起こってしまう前に、電力労組が変われば、日本も必ずよい方向へ変わります。こんなことを期待というか夢想する、今日このごろの私なのです。

 今回も、勢いに任せて書き殴った結果、なにやら乱筆乱文のランラン文章となった気がしますが、どうかお許しを(許してくれない人もきっといるだろうなあ)。