カール・フィリップ・エマニエル・バッハの肖像①
(版画:パリ国立図書館)(創元社出版、ポール・デュ=ブーシェ著(樋口隆一監修)の「バッハ」から引用)
カール・フィリップ・エマニエル・バッハの肖像②
(講談社現代新書出版、礒山雅氏著の「J・S・バッハ」から引用)
バッハの息子たちで最も有名なのは次男のカール・フィリップ・エマニエル・バッハです。1714年3月8日にワイマールで生まれ、バッハ一家がバッハの最終就職地であるライプチッヒに移住したあと、聖トーマス教会付属学校で第4学級から第1学級(1730年)まで学び、その翌年からライプチッヒとフランクフルト・アン・デル・オーデル大学で法律の勉強をしたようです。彼は、才能を早くから注目され、20歳の頃には演奏家、教師、作曲家として評判をとり、自分の意思を貫き通す性格だったようです。生存中は他の兄弟の作品よりはるかに多く演奏されたようで、その理由として、ポール・デュ・ブーシェは、①音楽界で重要な地位を占めていたこと、②作品が時代の好みに合っていたため、大衆の支持を勝ち得たこと、を指摘しています。「ベルリンのバッハ」、のちに「ハンブルグのバッハ」として、父親以上の名声を得たようである。音楽史的には多感様式と言われているようです。彼の音楽を聴けば、バロック音楽とウイーン古典派音楽とを結ぶ過渡期の音楽家であることがすぐに理解できると述べていますが、確かに素人の私でも実感できます。
(続く)
ピアノで誰の作品といわずに人に聞いていただいたら、「これってフォーレ?」と言われました。かなりロマンティックな曲想にしたというのもありますが、私のエマヌエル好きという個人的な感情も含めて・・・過渡期の作曲家の位置づけは、ちょっと寂しい気がしています。