栄西の母親は田氏の出だということです。
この田氏とは、一体何者でしょうか。
古い記録によりますと、備前吉備津彦神社の宮司は「難波氏」で、備前国の豪族だったという事です。例の成親卿虐殺にも一族である難波経遠が関わったとされています。
当時は瀬戸内海がこの中山付近(花尻から現在の大安寺あたり)まで入り込んでいました。花は端で、尻はどん詰まりで「海の入り込んだ一番奥のところ」という意味があるそうです。この難波氏は、この辺りの海を支配して、相当大きな勢力を得ていたものと思われます。
記録によりますと、この地に、長江葦原、比美葦原の名が見えますが、これも海がこの辺りまであったということを物語っています。
この難波氏は大守氏、大藤内、田使(たじ)氏などの名で呼ばれていたということです。
栄西の母の田氏も、この田使氏の出ではないかと思われます。
「田使首」という名が平安の歴史書の中にも出ています。
おかやま歴史塾のお話にもあったのですが、栄西は、博多で中国人通事と交渉があたということですが、これは瀬戸内に勢力を持っていた田使氏(難波氏)の力が大きく関わったのではと想像がつきます。
兎に角、栄西の入宋には、この父方母方の経済力があったことは確かです。
この田氏とは、一体何者でしょうか。
古い記録によりますと、備前吉備津彦神社の宮司は「難波氏」で、備前国の豪族だったという事です。例の成親卿虐殺にも一族である難波経遠が関わったとされています。
当時は瀬戸内海がこの中山付近(花尻から現在の大安寺あたり)まで入り込んでいました。花は端で、尻はどん詰まりで「海の入り込んだ一番奥のところ」という意味があるそうです。この難波氏は、この辺りの海を支配して、相当大きな勢力を得ていたものと思われます。
記録によりますと、この地に、長江葦原、比美葦原の名が見えますが、これも海がこの辺りまであったということを物語っています。
この難波氏は大守氏、大藤内、田使(たじ)氏などの名で呼ばれていたということです。
栄西の母の田氏も、この田使氏の出ではないかと思われます。
「田使首」という名が平安の歴史書の中にも出ています。
おかやま歴史塾のお話にもあったのですが、栄西は、博多で中国人通事と交渉があたということですが、これは瀬戸内に勢力を持っていた田使氏(難波氏)の力が大きく関わったのではと想像がつきます。
兎に角、栄西の入宋には、この父方母方の経済力があったことは確かです。