文化文政、天保、嘉永などの幕末を、強かに通り抜けた山陽道随一と謳われた侠客熊次郎は乾分を300人も抱え、一ヶ月の稼ぎは300両もあったという。
一時、熊次郎には1万両もの借金があり、それを一気に返済したという、その処理方法が奇抜で、今でもこの地方の話しの種になっています。
その解決方法として、熊次郎は、全国の各地の名だたる親分を、総てこの宮内に招き(幾人の親分を招待したかは不明ですが)「借金万両祝い」と銘打って大賭博会を催し、それなどで一気に借銭を返したといわれています。この時、清水の次郎長が来たかどうかも記録にありません。
もし、次郎長が来たとして、小説にでも、この場面を描くとしたら相当面白いものになるのではと思います。小説家の皆さんで誰か書いて下さる人はいませんでしょうか。
まあ、熊次郎は出がやくざですから、相当なあこぎな事は平気でやってのけたのではと思われますし、チンピラどもも多くいたと思います。当時の、熊次郎が、チンピラどもをどう統制し、町人に迷惑をかけないように心配りがあったかどうかは分りませんが、熊次郎たちヤクザを、相当多くの毛嫌いしていた町人もいたと思われますが、そんな記録も皆無です。ただ、「大親分」だったとだけが、今に尚、言い伝えられています。
普通なら「博打」は、何処でも、日本全国ご禁制だったはずですが、この宮内だけは「常内バクチ」と呼ばれ、お上からもお咎めなしで、おけんたいに毎日、賭場を開く事ができたという事です。
それは、熊次郎が、何処へどう手を回したのか分らないのですが、京都の九条関白家と関わりを持ったためではないかといわれています。
色々と手を替え品を変えて親分としての威厳を保ったのではないかと考えられますが、今は、吉備津の人たちはみんな「偉い親分だった」とほめています。
でも若い人には、それだれ?と嘯く人も沢山見受けられます。時代は、いいか悪いか知らないのですが、随分と変化しています。
なお、当時宮内を差配していたと思われる、藤井高尚、真野竹堂等の知識人の書いたものの中には、この熊五郎の事は一行たりとも見えないのは確かです。
「我は我、お前はお前へ」と、見て見ぬ振りをしていたのかもしれませんが、はっきり区別して、没交渉みたいなものがあったのではと思われます。
身分制度の厳然としていた江戸時代のお話のように私には思われます。
(昭和62年5月2日のオカニチ新聞を参考にして)
一時、熊次郎には1万両もの借金があり、それを一気に返済したという、その処理方法が奇抜で、今でもこの地方の話しの種になっています。
その解決方法として、熊次郎は、全国の各地の名だたる親分を、総てこの宮内に招き(幾人の親分を招待したかは不明ですが)「借金万両祝い」と銘打って大賭博会を催し、それなどで一気に借銭を返したといわれています。この時、清水の次郎長が来たかどうかも記録にありません。
もし、次郎長が来たとして、小説にでも、この場面を描くとしたら相当面白いものになるのではと思います。小説家の皆さんで誰か書いて下さる人はいませんでしょうか。
まあ、熊次郎は出がやくざですから、相当なあこぎな事は平気でやってのけたのではと思われますし、チンピラどもも多くいたと思います。当時の、熊次郎が、チンピラどもをどう統制し、町人に迷惑をかけないように心配りがあったかどうかは分りませんが、熊次郎たちヤクザを、相当多くの毛嫌いしていた町人もいたと思われますが、そんな記録も皆無です。ただ、「大親分」だったとだけが、今に尚、言い伝えられています。
普通なら「博打」は、何処でも、日本全国ご禁制だったはずですが、この宮内だけは「常内バクチ」と呼ばれ、お上からもお咎めなしで、おけんたいに毎日、賭場を開く事ができたという事です。
それは、熊次郎が、何処へどう手を回したのか分らないのですが、京都の九条関白家と関わりを持ったためではないかといわれています。
色々と手を替え品を変えて親分としての威厳を保ったのではないかと考えられますが、今は、吉備津の人たちはみんな「偉い親分だった」とほめています。
でも若い人には、それだれ?と嘯く人も沢山見受けられます。時代は、いいか悪いか知らないのですが、随分と変化しています。
なお、当時宮内を差配していたと思われる、藤井高尚、真野竹堂等の知識人の書いたものの中には、この熊五郎の事は一行たりとも見えないのは確かです。
「我は我、お前はお前へ」と、見て見ぬ振りをしていたのかもしれませんが、はっきり区別して、没交渉みたいなものがあったのではと思われます。
身分制度の厳然としていた江戸時代のお話のように私には思われます。
(昭和62年5月2日のオカニチ新聞を参考にして)