今日13日、高松公民館の「歴史を楽しむ会」主催の研修旅行がありました。本年度は足守に関係した史跡めぐ里の旅です。京都高台寺と大坂適塾への見学です。
適塾は、大阪御堂筋のビル群の中に残されている江戸時代の町屋の姿そのままを現代に伝えていると言われます。
その2階に上がると、当時ここで学んだ若者たちの力の余った証拠が中央の柱に痛々しく刻みつけられていました。
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出口で頂いた「適塾の沿革」の中に、文久2年に江戸幕府奥医者に召されて江戸に旅だった洪庵の後を受け継いで適塾を運営したのが養子の緒方拙斎でした。その翌年に、洪庵は、その江戸で急死しています。
その拙斎から、7月27日に、宮内にいた高雅の兄堀家右兵衛と子の紀一郎に宛てた「高雅暗殺される」という手紙が残っています。
「文久3年7月25日暮六つ時過・・・・侍体之者座敷迄押入、何之間も無之御同人様御首切取り持帰候段。・・・言語に絶し悲歎之外・・・・・過日は江戸表凶事事有之候処・・・」
と、その悲報を一報しています。「過日は江戸表」というのは、その年の6月10日の洪庵の死を言うのです。
この手紙は、高雅の母「喜智」のことを大坂の緒方家でも相当大切に思っていた証拠にもなるのです。
なにしろ、洪庵が世の中で惟一人頭の上がらなかった人は、姉、そうです高雅の母「喜智」だったのですから、養子の拙斎も洪庵と同じようにとても怖かったのではと、この手紙からも読み取れます。
適塾は、大阪御堂筋のビル群の中に残されている江戸時代の町屋の姿そのままを現代に伝えていると言われます。
その2階に上がると、当時ここで学んだ若者たちの力の余った証拠が中央の柱に痛々しく刻みつけられていました。
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出口で頂いた「適塾の沿革」の中に、文久2年に江戸幕府奥医者に召されて江戸に旅だった洪庵の後を受け継いで適塾を運営したのが養子の緒方拙斎でした。その翌年に、洪庵は、その江戸で急死しています。
その拙斎から、7月27日に、宮内にいた高雅の兄堀家右兵衛と子の紀一郎に宛てた「高雅暗殺される」という手紙が残っています。
「文久3年7月25日暮六つ時過・・・・侍体之者座敷迄押入、何之間も無之御同人様御首切取り持帰候段。・・・言語に絶し悲歎之外・・・・・過日は江戸表凶事事有之候処・・・」
と、その悲報を一報しています。「過日は江戸表」というのは、その年の6月10日の洪庵の死を言うのです。
この手紙は、高雅の母「喜智」のことを大坂の緒方家でも相当大切に思っていた証拠にもなるのです。
なにしろ、洪庵が世の中で惟一人頭の上がらなかった人は、姉、そうです高雅の母「喜智」だったのですから、養子の拙斎も洪庵と同じようにとても怖かったのではと、この手紙からも読み取れます。